厄介なのは、ここから先だった。
あの本が書かれたころ、この卓はアーサー王の時代のものだと広く信じられていた。だから著者は、円卓がここにあるという理由で、キャメロットとはこの街のことだと本の中に書いている。
つまり彼は、百八十年ほど前に作られた
さらに厄介なことに、その本を最初に印刷して売った男は、序文でそれを否定していた。キャメロットはウェールズにあり、遺跡は今も見られる、と。
書いた人間と、売った人間の意見が、最初の一冊の時点で食い違っている。
ヒロはそれを知ったとき、なぜか腹が立たなかったし、がっかりもしなかった。ただ、五百年ものあいだ誰もそこを直さないまま、本が読み継がれてきたことのほうが、よほど不思議に思えた。
間違っていても、読まれ続けたものは残る。残ったものが、その先の人間の頭の中の景色を決めていく。子どものころに見た絵本の挿絵も、映画で見た甲冑の形も、たどっていけば全部あの本に行き着く。行き着いた先で、著者は贋作を本物だと信じている。
それでも、ヒロはこの卓が嫌いではなかった。信じていた人がいたのなら、その人にとっては本物だったのだろうと思う。板は同じ板のままで、変わったのは、それを見る側の知識だけだ。
人の背丈の三倍ほどもある板を、見上げるかたちで首を反らしていると、目の奥がじんわり痛くなってくる。それでもヒロは、しばらく動かなかった。作らせた人間も、色を塗り直させた人間も、いまはもう一人も残っていないのに、板だけが壁に留まって、来た者を順番に見下ろしている。
時計を見ると、十時を五分ほど過ぎていた。
受付の女性は、まだ電話をしている。受話器を肩と耳ではさんで、同じところを何度も言い直しているように見えた。相手が同じことを聞き返しているらしい。
ホールの奥へ続く通路の入口に、立て札が出ていた。本日、一部区域は修繕工事のため立入を制限する。ご迷惑をおかけします。
その札は先週にはなかった。三日前に前を通ったときは、外から見ていただけである。あのときヒロは建物の側面を見上げていて、中まではのぞいていない。
ヒロはしばらく耳を澄ませてみた。工事の音がしない。石を削る音も、金属を打つ音も、人が呼び合う声もない。ただ、通路の奥のほうから風が来る。扉がどこかで開け放されているような、一定しない流れ方だった。
通路を、職員が二人、早足で通り抜けていった。制服ではなく、暗い色の上着を着ている。片方は薄い書類の束を抱えていて、歩きながら中を確かめていた。二人とも、円卓のほうを一度も見なかった。
この建物に来る人間で、あの卓を見ない者を、ヒロは初めて見た気がした。観光客は必ず見上げるし、掃除の人でさえ、拭きながら一度は顔を上げる。見ないというのは、見る必要がないほど通い慣れているか、それどころではないかの、どちらかだった。
ベンチに戻って、鞄からノートを出した。閲覧のあいだに聞きたいことを、いくつか書いてある。この複製が作られたのはいつか。ここの文字が擦れているのは元からか、複製を取るときに生じたものか。原本の紙は、これよりどのくらい厚いのか。
英語で聞く場合の言い方も、下に並べて書いてあった。三通り書いてあるのは、一つ目が出てこなかったときのためである。
そういう準備をしても、いざとなると全部忘れる。それも分かっていた。
十時十五分。
女性が受話器を置いて、こちらへ来た。
「お待たせしてごめんなさいね。奥まで案内するわ」
「ありがとうございます」
「担当は、たぶんもう来ていると思うの。玄関を通らずに入ったみたい」
「入ったみたい、ですか」
「そう。今日は、ちょっと立て込んでいて」
ヒロはノートを鞄に戻して立ち上がった。歩きながら、聞くつもりのなかったことを聞いた。
「工事は、いつまでですか」
「さあ。わたしも聞いていないの」
女性は前を向いたまま答えた。困っている声ではない。知らされていない人の声だった。
通路に入ると、床の素材が変わって、靴の音がはっきり響くようになった。片側の壁は石のままで、もう片側には木の扉が並んでいる。扉には番号だけがついていて、部屋の名前は書かれていない。
風はやはり奥から来ていた。冷たいというより、乾いている。
扉の番号は、順番に並んでいなかった。四の隣が七で、その次が五になっている。増築と改修を繰り返した建物では珍しくないと、いつか誰かに聞いた覚えがある。順番どおりに並んでいないものに、人はあとから理由をつける。
閲覧室は突き当たりの右にある。場所は前もって確かめてあったから、ヒロはそちらへ体の向きを合わせて歩いていた。歩幅が少し広くなっているのが、自分でも分かった。
半年かかった。三度突き返されて、四度目に通った。あの一枚は、ロンドンの書庫にある本物の代わりでしかない。それでも、写した人間の手の癖は、写された側に残っている。
残っているはずだ、とヒロは思っていた。そう思っていられるかどうかが、この半年の全部だった。
担当の人と何を話せばいいのか、ヒロはまだ決めていなかった。礼を言って、指示に従って、質問されたら答える。それだけのはずなのに、順番を考えると口の中が乾いてくる。閲覧のあいだ、相手はずっと横についているのだろうか。それとも置いていってくれるのだろうか。置いていってくれるといい、と思ってから、自分の願いの小ささに少しうんざりした。
突き当たりまで、あと十歩ほどだった。
女性の足が止まる。
右ではなく、その手前の左側。番号のついた扉のひとつが、半分だけ開いていた。開いているというより、閉め忘れられている開き方だった。
隙間から、光が漏れている。天井の照明の色ではない。もっと低い位置から出ている、青みの強い光だった。
人の声がした。一人ではなく、低く抑えた声が、いくつも重なっている。言葉は英語だが、聞き慣れない単語が混じっていて、意味の取れる部分がほとんどなかった。
ヒロは足を止めた。止めてから、女性のほうを見た。
彼女は扉を見ていなかった。そこに扉などないかのように、視線を廊下の先へ向けたままでいる。見ないようにしているのではなく、見ないことに慣れている顔だった。
隙間の向こうで、誰かが動いた。
人が集まっている。十人はいない。円になっているのか、何かを囲んでいるのか、この角度からでは分からない。ただ、全員が同じ方向を向いていることだけは分かった。
床に何かが引かれている。線のように見えるものが、青い光を返していた。まっすぐな線ではなく、途中で折れて、また戻ってくる。どこかで見たことのある形だと思ったが、どこで見たのかは思い出せなかった。
匂いがした。蝋燭に似ているが、それとも少し違う。何かを長く燃やしたあとの、乾いた匂いだった。
ヒロは、そこから目を離せなかった。
半年かけて四度書いた文面の先が、この廊下の突き当たりにある。それだけを考えて三日を過ごしてきたのに、いまヒロが見ているのは、開けるつもりのなかった扉の隙間だった。
息を吸って、吐く。吐ききる前に、もう一度吸っていた。