「行きましょうか」
女性の声は、さっきまでと変わらなかった。廊下の先を指して、そちらへ体を向けている。
ヒロは動けなかった。動けない理由を、自分でも説明できない。見てはいけないものだという判断すら、まだ追いついていなかった。ただ、床に引かれた線の形が、頭の中の何かに引っかかっている。
どこで見たのだったか。思い出しかけたところで、部屋の中から声が上がった。
「だれだ、そこにいるのは」
英語だった。隙間の向こうで人が動いて、扉が内側から、一気に引き開けられる。
いくつもの顔が、いっせいにこちらを向く。
ヒロは半歩下がったが、そのぶん腕をつかまれていた。誰の手なのかも見ていない。引かれるままに敷居をまたいで、気がつくと部屋の内側に立っていた。背中で扉が閉まる音がする。
腕をつかんだ手は、すぐに離れた。逃がさないためではなく、扉の前からどかすためだったらしい。この部屋では、扉のそばに人が立っていること自体が、具合の悪いことのようだった。
「見学者だ。受付の手違いだろう」
「いま外へ出すな。線をまたがせるな」
「もう遅い。詠唱に入っている」
三つの声が重なって、どれが誰の声なのかも分からない。分かったのは、誰もヒロを見ていないということだけである。全員の顔が、部屋の中央へ戻っていた。
天井の低い部屋だった。窓はなく、壁も床も石で、四隅には背の高い燭台が立っている。火は消えていて、代わりに、床のほうが光っていた。
白い線が引かれている。円がひとつ、その内側にもうひとつ。二つの円のあいだに、細かい文字のようなものが途切れずに並んでいる。線そのものが、青みの強い光を出していた。
廊下から見て引っかかったのは、この形だった。似たものを本で見たことがある。中世の写本の余白に描かれた図で、意味は分かっていないと注釈にあった。あの図は、たしかもっと歪んでいた。
人は八人いた。うち六人が円の外に立ち、内側へ手のひらを向けている。年齢も服装もばらばらで、上着の男が四人、女が二人。同じ組織の人間には見えないのに、立ち位置だけは決まっているらしく、円のまわりに等間隔で並んでいた。
七人目だけが、線のいちばん近くに膝をついている。亜麻色の髪を短く整えた、若い男である。指先を床の線に添えたまま、唇だけが動いていた。声は出ているはずなのに、ヒロの耳には音として届かない。近すぎるのに聞こえないという状態が、いちばん気持ちを悪くする。
そのすぐ後ろに、白髪を短く刈った年配の男が控えている。上着を脱いでシャツの袖をまくり、その手つきだけを追っている。
その二人の前に、台がひとつ置かれている。
ヒロは、そこで息を止めた。
台の上に、ガラスに挟まれた紙が、一枚だけ置かれていた。
黄色く焼けた紙面に、細かい黒い文字が、びっしりと並んでいる。行の終わりが詰まっていて、右の端では、書き手が字を小さくして押し込んでいた。写真で何度も見た並びに間違いない。
それは、ヒロが見るはずだった一葉である。
台の脇に、白い手袋が二組そろえて置いてあった。誰かがはめるために用意されたもので、まだ誰も使っていないように見える。
半年かけて、四度書いて、三日前に許可の連絡が来た。今日の十時に、手袋をはめて、台の上のそれと向き合うはずだった。台の上にあることだけは合っている。
「なぜ人がいる。閉めておけと言ったはずだ」
「閉めていました。掛け金が下りていなかったんです」
誰かがそう答えた。責める声ではなく、事実を報告する声である。
誰も、ヒロを外へ出そうとはしなかった。線をまたがせるなと言った男も、それきり何も言わない。出すことより、続けることのほうが優先されているのだと、そこでようやく分かった。
線の光が、少しずつ強くなっている。青が濃くなるにつれて、部屋の空気が乾いていくのが分かる。廊下で嗅いだ匂いは、ここから流れ出ていたものだ。何かを長く燃やしたあとの匂いが、いまは鼻の奥まで入ってくる。
ヒロは、部屋の奥の壁を見た。
二つの円から、線が一本だけ外へ伸びている。壁の下まで届いて、そこで石に触れて終わっていた。行き止まりに見えるが、線はそこで消えているのではなく、壁の中へ入っている。
方角を、頭の中で組み直してみる。廊下を歩いてきた向き、扉の位置、そして部屋の奥。
この壁の向こうは、広間だった。
高さも合っている。ちょうど反対側の面に、あの板が掛かっている。直径五メートルの、脚を失った天板が、この壁一枚を隔てて向こうにある。
線は、その板へ向かって引かれていた。
紙と、板。
二つとも、ヒロがこの街で何度も見てきたものだった。片方は今日はじめて実物に会うはずで、もう片方は来るたびに立ち止まっていた。その二つが、いま同じ部屋で、同じ目的のために置かれている。
紙は、あの本の中身を写したものである。板は、あの本が都の場所を決める根拠にした贋作である。中身を写したものと、根拠にされた偽物。並べてみると、どちらも本物ではなかった。
使われている、という言い方が正しいのかどうかも分からない。ただ、あの二つが道具として置かれているという事実だけは、疑いようがなかった。
止めてほしい、と思った。
思ってから、自分が何を止めてほしいのかも分かっていないことに気づいた。あの紙が傷むのが嫌なのか、この部屋にいるのが怖いのか、それとも、いま起きていることの意味が分からないのが怖いのか。どれでもある気がして、どれとも決められなかった。
若い男の唇が止まった。
部屋の中の誰かが、短く息を吸う音がする。
次の瞬間、線の光が跳ね上がった。
白に近い青が床から立ち上がり、天井まで届く。ヒロは目を閉じたつもりだったが、まぶたの裏まで明るくなるだけで、本当に閉じられたのかどうか、自分でも判断がつかない。
そして、右手の甲が焼けた。
熱いというより、押しつけられた感覚だった。焼けた金属を当てられたときのように、まず圧力があって、そのあとから熱が来る。
声を出していた。出した自覚はあったが、光と音が一緒くたになっていて、自分の声も、他人の声も、区別がつかなかった。
右手を左手で押さえて、床に片膝をついた。
光が消えた。
熱は皮膚の上ではなく、骨のあたりから広がってきた。手の甲の内側で何かが並び直しているような感じがあって、その並び直しが終わるまで、指を曲げることもできなかった。
部屋が急に暗くなって、燭台の輪郭が浮かび上がる。誰も動かない。八人の誰も、声を出さなかった。
ヒロは顔を上げた。
円の内側に、人が立っていた。
小柄だった。ヒロより頭ひとつぶん低く、若い女の人に見える。それが最初に分かったことで、次に分かったのは、鎧を着ているということだった。
古い鎧である。磨いてはあるが新しくはなく、そして何より、体に合っていない。胸当ての幅が体より一回り大きく、肩の留め具の位置が、あるべきところから指二本ぶんずれている。借りてきた服を体に巻きつけた人のような着かたをしていた。
髪は金色で、短い。結っていない。切り口が不揃いで、後ろは肩に届かないところで途切れている。丁寧に切られたものではないことだけは、ヒロにも分かる。
息をしていた。肩がゆっくり上下している。光の中から出てきた人が呼吸をしているという、ただそれだけのことが、ヒロには一番信じにくかった。