その人が、ゆっくりと、こちらへ体を向けた。
あいだに立っていた二人が、どちらからともなく身を引く。円の縁からヒロのところまで、人のいない道が一本できた。
そして、その人は膝を折った。
右膝を床につけ、左手を胸に当て、右手を床に添える。頭を下げ、視線を石の床へ落とす。動作は正確だったが、どこか一拍長かった。ひとつずつ確かめながら、順番に置いていくような折り方である。
膝をついたままのヒロの目の先に、床に添えられたその右手があった。
中指の第一関節が、硬く盛り上がっている。指の側面に黒い染みがあった。洗っても落ちなかったものが、そのまま皮膚の色になっている。
これは剣を握る手ではない、とヒロは思った。
そのまま、顔を上げずに、その人が口を開く。
「あなた様が、わたくしのマスターでしょうか」
静かな声だった。丁寧すぎるほど丁寧で、語尾が少しだけ震えている。許しを請うている人の言い方に近かった。
その場の全員が、いっせいに、線のそばの若い男のほうを向いた。
当然の動きだった。線を引いたのは彼で、唱えたのも彼である。呼ばれた側が誰に向かって尋ねるかといえば、それは、その男に決まっていた。
誰もが、その男の手もとへ目を落とした。
ただ一人、円の内側にいるその人だけが、ヒロを見ていた。
その顔が、ゆっくりと、上がる。
目の色は、青に緑を溶かしたような色をしていた。まつげが濃く、頬は削げているのに、輪郭のどこにも険しさがない。
その瞬間、ヒロは思った。
アーサー王だ。
根拠は、一つもなかった。ヒロはアーサー王の顔を知らないし、あの本にはアーサーの容姿がほとんど書かれていない。他のどの資料にも、これが本人だという顔は残っていない。壁の向こうの板に描かれた顔でさえ、別の王のものだと、ヒロ自身が知っている。
誰も知らないはずのものを、その一瞬で見た気になっていた。
膝を折る騎士。体に合っていない鎧。名を問う前に許しを請う声。頭の中に十年ぶん積み上げてきた像が、目の前の人の輪郭にそのまま滑り込んで、ぴたりと収まった。収まってしまえば、疑う手順はもう働かない。
会えた、と思った。
思ってから、自分でも驚くほど強くそう思ったのだと気づいた。十年ぶんの本と、半年ぶんの申請書と、この街を選んだ理由の全部が、その一言に集まって固まっていた。
ヒロは壁に手をついて立ち上がった。膝が痺れていて、二度めでようやく体が持ち上がった。
年配の男のほうが、ようやく口を開いた。
「──セイバーか」
「はい。そのクラスで呼ばれております」
その人は男のほうを見ず、ヒロを見たまま答えた。男は、それに構わず先を続けた。
「真名を」
そこで、わずかな間があった。
言いにくそうだったのではないし、言うべきかどうかを迷ったのでもない。確かめている間だった、とヒロにはそう見えた。自分の名前を、記憶の中から一度引き出して、これで合っているかどうかを見てから口に出す。そういう間だった。
「サー・トマス・マロリーと申します」
部屋が静まり返って、誰も、何も言わなかった。
ヒロはその名前を知っていた。この街に来た理由の半分は、その名前でできている。あの本を書いた人間の名前で、五百年ものあいだ、その名に何が属するのかが、いまだに決まっていない。
だから最初に思ったのは、そんなはずがない、ということではなかった。
なぜその人が、その名前を名乗るのか。
あの本を書いたのは、剣を持って戦った男である。獄の中で書き上げたとも伝えられている。少なくとも、こんなふうに膝を折って、許しを請うように名を告げる人ではなかったはずだった。
部屋の中の誰かが、短く笑った。笑ったというより、息が漏れた音に近い。
「冗談だろう」
「触媒は本だ。本の名前が返ってきただけだ」
「装置の問題だ。呼び直せ」
呼び直せ、という言葉に、その人は何の反応も見せなかった。聞こえていないはずはないのに、姿勢を変えず、床に手を添えたまま、ヒロのほうを見ている。
声が重なっていく。年配の男は何も言わず、円の内側から目を離さない。若い男のほうは、線のそばに膝をついたままだった。
誰一人として、その名前を信じていなかった。信じる材料がないというより、信じる必要がないという顔をしている。触媒に本を使えば本の名が返る、というのは、この場の全員にとって片づいた説明らしかった。
ヒロも、信じたわけではなかった。ただ、部屋の中で一人だけ、別のことを考えていた。
名乗ったとき、その人は自分の名前を確かめてから言った。
自分の名前を、確かめる必要がある人間がいるのだろうか。
円のそばで、さっきの若い男が立ち上がっていた。
背が高い。仕立てのいい上着を着ているのに、袖口だけが擦り切れている。両手を体の前に上げて、手の甲を見つめていた。何度も裏返しては、また表を見ている。
そこには、やはり何もない。
その男が誰なのか、ヒロは知らない。ただ、手の甲を何度も裏返しているその顔だけは、この部屋の中でいちばん分かりやすかった。そこに何かが出るはずだったのに、出なかった、という顔である。
「──おい」
男の一人がヒロのほうへ大股で歩いてきて、右手首をつかむと、力任せに持ち上げた。
手の甲に、赤い紋様が浮いていた。
三本の線が、剣の形に似た並びで、皮膚の下に焼きついている。触れると熱を持っているのに、皮膚は焼けていない。押さえていた左手をどけても、消える気配がなかった。
「
その一言で、部屋の中の視線が、ヒロの手の甲に集まった。
誰かが低い声で、そんなはずはない、とつぶやいた。別の誰かが、順番が違う、と言う。何かの手続きが飛ばされたことだけは、ヒロにも伝わってきた。飛ばされたのが何なのかは、まだ分からない。順番を決めたのは、この人たちのはずである。決めた側が、決めたとおりにならなかったことに驚いていた。
さっきまで誰もヒロを見ていなかったのに、いまは全員が見ている。あの若い男だけが、こちらを見ていなかった。
そしてその人は、最初からずっと、ヒロだけを見ていた。
この部屋の中で、その人だけが何も主張していなかった。呼び直せと言われても、名前を疑われても、周りの言葉はこの人にとってどうでもいいことらしい。誰が呼んだのかではなく、誰に仕えるのかだけを待っている。命じられたことに従うのが当たり前で、それ以外の身の置き方を知らない人の待ち方だった。
ヒロは何か言わなければいけないのだと思ったが、口の中が乾いていて、単語が一つも出てこなかった。三通り用意しておいた言い方は、鞄の中のノートに書いてある。鞄は肩にかけたままだった。