何もなかった。
アシュレイ・ニューボールドは、右手の甲をもう一度裏返した。裏返したところで手のひらしか出てこないと分かっていて、それでも裏返した。三度目か、四度目である。数えるのをやめたのは、自分が数えていることに気づいたときだった。
皮膚は乾いている。傷も、赤みも、熱もない。ここに紋様が出るはずだという話は、五か月前から何度も聞かされてきた。聞かされるたびに、出たらどう感じるのだろうと考えた。痛むのか、熱いのか、それとも何も感じないのか。
出なければ、何も感じない。それが、今日の答えだった。
紋様が出るはずだった瞬間のことは、覚えている。
最後の一節を唱え終えたとき、指はまだ床の線に触れていた。引いたのは自分である。図の寸法も、唱える順序も、五か月かけて頭に入れてある。手が最後まで震えなかったことだけは、我ながら上出来である。
光が跳ね上がった。熱は来なかった。代わりに、部屋のどこか別の場所で短い声がした。悲鳴に近いが、悲鳴ほど長くない。痛みを予期していなかった人間が出す種類の音である。
その音のほうを見るまで、アシュレイはまだ、自分の手に何か起きるものだと思っていた。
部屋の中は、まだ揉めていた。呼び直せと言う声と、装置を検めろと言う声が交互に上がって、そのどちらにも誰も従っていない。
白髪の男だけが、口を挟まなかった。準備のあいだに何度か見た横顔である。見当がついていないわけではない。ついたうえで、まだ言わずにいるだけだった。
名乗りのあと、全員がいっせいにこちらを向いた。呼ばれた側が誰に尋ねるかを、この部屋の全員が正しく予想していた。
外れたと分かってからは、誰もこちらを見ない。
当たり前だ、と思う。この部屋で今日いちばん意味を失った人間を、いまわざわざ見る理由がない。
視線は全部、日本人の少年の右手に集まっていた。
詠唱の途中で、一度だけそちらへ目をやった。何が起きているのか分からないという顔をして、それでも台の上の紙だけをじっと見ていた。あの状況で、紙のほうを見る人間がいる。
五か月前、アシュレイはロンドンで呼び出された。
用件を切り出したのは、いま円の前に立っている男である。当時から白髪を短く刈っていて、話しはじめる前に眼鏡を外して拭き、話が済むまで手に持ったままでいる癖があった。
「時計塔は、この件に関与しない」
男はそう言った。
「協力を求められたが、断った。組織としてはな」
「組織としては」
「そう言っている」
アシュレイはそのとき、その言い方の便利さに感心した。断ったという事実は残り、そのうえで人だけが動く。あとから何が起きても、書類の上に組織の名前は出てこない。
「この国には、国家の魔術機関がない」
男は続けた。
「代表を立てるには、個人に委任するしかない。そして、この国でまともに魔術を扱える人間は、ひとり残らずうちに籍を置いている」
「なら、断った意味がないでしょう」
「あるさ。断ったのは組織だ。行くのは君個人だ」
男は眼鏡をかけ直して、それきりその話をしなかった。反論しても仕方がなかった。持っていく先が、どこにもない話である。誰も嘘をついていない。ただ、責任を負う名前だけが、はじめから抜いてある。
その日、アシュレイは自分が呼ばれた理由を聞いた。
実力ではなかった。順位でいえば上に何人もいて、理由は家名だった。
血の繋がりが儀式の助けになるのだと、男は説明した。魔術の理屈としてそうなるらしく、アシュレイに確かめようがない。
確かめようがないのは、その血のほうも同じだった。
ニューボールド。
ウォリックシャーに、ニューボールド・レヴェルという土地がある。あの本を書いた人間の出身地として、いまではほぼ定説になっている場所である。研究者が長い時間をかけて絞り込み、そこにいた地主の名前まで特定した。
アシュレイの家は、その地主の血を引いていると主張している。
主張しているだけである。
書類はいくつも残っていた。教区の記録、土地の譲渡、婚姻の登録。子どものころ、居間の壁に
八つか九つのころ、その額の前に立たされたことがある。客が来ていて、祖父が上から順に指をなぞりながら説明していた。最後まで行くと、指はアシュレイの頭の上で止まる。客は必ず、まあ、と言った。まあ、というのは、感心したときにも困ったときにも使える返事だった。
あのころは、指が自分のところで止まるのが誇らしかった。誇らしくなくなったのは、線の薄い部分の意味を知ってからだった。
推定と、証明は違う。
定説が特定しているのは人物であって、血統ではない。あの土地にいた家が、いまのニューボールド家に続いているという記録は、途中で二度切れている。二度とも、繋いだのは家の側の主張だった。
それでも家のほうは、五百年ぶんの誇りを掛けたまま暮らしてきた。父は祖父ほど話さなくなったが、否定もしなかった。アシュレイが上着の袖口を擦り切れるまで着ているのは、家の格に対して現金がないからであって、それも祖父の代からずっと続いている。
学校では、名前を聞かれるたびに同じ話になった。あの本のマロリーか、と聞かれて、そうかもしれない、と答える。かもしれない、と言うと、相手はたいてい興味を失う。断定すれば通りがよくなることは分かっていたが、断定できるだけの根拠を、アシュレイは持っていなかった。
そして、家名にはもうひとつ、額に入っていない部分がある。
あの名前に紐づいて残っている記録の中には、強盗、襲撃、恐喝、家畜泥棒がある。告発は何度も出ていて、投獄された期間も分かっている。ただし、裁判にまでは進んでいない。有罪の判決が、ひとつも存在しない。
否認もされず、肯定もされないまま、告発だけが紙の上に残った。
偉大な作家の子孫かもしれないし、犯罪者の子孫かもしれない。どちらも証明できない。アシュレイはその二つを同時に背負って育ち、十代の半ばで、両方まとめて嫌いになった。
だから、家名が理由だと聞いたとき、思わず、笑いそうになった。
嫌っているものが、自分をここまで連れてきている。
「触媒は、こちらで用意する」
五か月前、男はそう言った。
「本人にゆかりのある物がいる。書き残されたものが望ましい」
その一言で、アシュレイは自分に何ができるかを理解した。同時に、家名を理由に呼ばれた意味も分かった。触媒があの本になるのなら、自分の血が繋がっているとされている相手は、呼ぼうとしている王ではない。その王の形を決めた、書いた人間のほうである。
妙な取り合わせだとは思った。王を呼ぶ場に、王ではない人間の縁者を立たせている。
ただ、そこを突いて、では君は要らないと言われるのが嫌だった。だからアシュレイは、何も言わなかった。何も言わないという選び方を、この五か月で何度かしている。
ウィンチェスターに複製葉がある。原本はロンドンだが、写しの数枚は現地の資料室に残っている。学術目的の閲覧申請なら通る。時計塔の名前を出さず、大学の研究支援という形にすれば、書類は一枚で済む。
実際、一枚で済んだ。
通ったときのことも覚えている。窓口の女性が、書式のここが抜けていますね、と言って、その場で書き足させてくれた。感じのいい人だった。あの人は、その紙が何に使われるのかを知らない。知らないままでいてもらう必要があるから、こちらも言わない。
便利な仕組みだ、とそのとき思った。いまも同じことを思っている。
アシュレイは、その書類に自分の名前を書いた。組織の名前ではなく、個人の名前で。断ったのは組織で、動くのは個人だという、あの理屈のとおりに。
指名が正式に決まったのは、その紙が通ったあとである。五か月前の時点では、候補が何人かいたらしい。触媒を用意できる人間と、始祖の子孫を名乗る家の人間が同じだったから、自分に寄っただけの話だった。
当日の三日前、受け渡しの段取りを詰めに行ったとき、閲覧室の予約表が目に入った。
その日の枠には、先約が一件だけ入っていた。十時。名前は、綴りだけでは読み方の分からない字が並んでいた。事務の人間に頼めば動かせただろうし、そもそも一件しかないのだから、どうにでもなると思った。
思っただけで、何もしなかった。
いま、その名前の持ち主が、部屋の中央で、右手首をつかまれている。
背は高くなく、痩せていて、姿勢が悪い。学生かどうかは分からないが、顔つきからすると自分より四つか五つは下だろう。腕をつかまれても振りほどこうとせず、されるままになっている。
抵抗しないのは、たぶん怖いからではない。自分の身に起きたことが、まだ飲み込めていないからだ。
その手の甲に、三本の線が、赤く浮いている。
アシュレイはそこから目を離した。見ていると、自分の手を見たくなる。
代わりに、円の内側を見た。