膝を折ったまま、あの騎士は、まったく動かない。周りがどれだけ騒いでも、姿勢がひとつも崩れていなかった。呼び直せと言われても顔色ひとつ変えず、日本人の少年だけを見ている。
鎧は古いが、手入れはされている。合っていないのは寸法のほうだった。胸当ても、留め具の位置も、あの体に合わせて作られたものではない。誂えの鎧を着ている人間の身のおさまり方ではなかった。
髪も短く、切り口が揃っていない。自分で切ったのだろうと思ったが、なぜそう思ったのかは説明できなかった。
そして、女だった。
英霊が生前の姿で出てくるとは限らないというのは、魔術を扱う側では常識に属する。だから、そこを理由に偽物だと決めることもできない。
名乗った名前が、まだ頭の中に残っていた。
サー・トマス・マロリー。
部屋の全員が、その名を触媒の側から返ってきたものだと受け取った。本を使えば、本の名が返る。当然の判断である。アシュレイもそう思うべきだったし、現に、短く笑った者もいた。
それでも、笑えなかった。
あの名前は、居間の額のいちばん上に書いてあった名前である。五百年、家がしがみついてきた一行だ。祖父が客に話し、父が黙り、アシュレイが嫌ってきた名前が、いま石の床の上で、膝を折って許しを請うている。
もし本物なら、あの人は自分の家の始祖ということになる。
偽物なら、家は五百年、いない人間の子孫を名乗ってきたことになる。
どちらでも構わない、と思おうとして、思えなかった。
せめて、どちらかに決めたかった。
そう思ってから、決める手段がひとつも思いつかないことに気づいた。あの人が本物かどうかを判定する道具を、人類はまだ作っていない。
部屋の騒ぎは、少しだけ落ち着いていた。白髪の男が、ようやく何か言ったらしい。呼び直しはできない、という言葉だけが、こちらまで届いた。
当然だ、とアシュレイは思う。契約はもう結ばれている。結び直せるなら、そもそも令呪が誰の手に出るかで揉める必要がない。
背後で扉が開いた。
入ってきたのは、この部屋の誰とも空気の違う二人組だった。上着の仕立てが同じで、書類挟みを同じ持ち方で抱えている。片方が円のほうへ歩き、もう片方がまっすぐアシュレイの前まで来た。日本人の手首をつかんでいた男は、その二人を見て、ようやく手を離した。
「ニューボールドさん」
「はい」
「本日付で、あなたの指名は取り下げになります。手続きは追ってお伝えします」
「わかりました」
驚きはなかった。令呪の出ていない人間が代表になれないというのは、はじめに念を押された条件である。
条件そのものに文句はない。契約を結んでいない人間が命令できるようでは、制度のほうが成り立たない。頭では分かっている。
分かっているのに、指名の取り下げという言い方だけが耳に残った。取り下げるということは、いったんは与えられていたということになる。与えられて、外された。あとに残るのは、外されたほうである。
「それから、もうひとつお願いがあります」
書類挟みが開かれた。中の紙は、まだ何も書かれていない。
「あちらの方に、しばらく付いていただきたい」
アシュレイは日本人のほうを見た。
「監視ですか」
「そうは申しません」
「では、何と申しますか」
言ってから、自分の口調が丁寧になっているのに気づいた。腹が立ったときほど言葉が整うのは、家で叩き込まれた癖である。直そうとして、二十二年かかっても直らなかった。
「支援です」
相手は表情を変えずに答えた。
「未成年の外国籍の方が、国の代表になります。生活の面でも、手続きの面でも、そばに人がいたほうがいい」
「俺がやる理由は」
「事情をご存じで、なおかつ、どこの所属でもない方がいいのです」
その言い方も、また便利である。
アシュレイは、それきり何も聞かなかった。聞いたところで、返ってくるのは似たような言い回しだろう。組織は関与していない。動くのは個人である。何かあれば、切り離せる。
いま自分に用意されている立場が、五か月前に自分が受け取った立場と、そっくり同じ形をしていることには気づいた。違うのは、あのときは持たされるはずのものがあって、今度は最初から何も渡されないという一点だけである。
そして、あの少年にも同じ形が渡されている。未成年で、外国籍で、後ろ盾になる組織をひとつも持たない。何かあったときに、いちばん切り離しやすい位置だった。
守られているように見えて、いつでも捨てられる。それを順番に押しつけられているだけである。
二人組は書類挟みを閉じて、それぞれの用件に戻っていった。
あの白紙に、これから何かが書かれるのだろう。何を書くにしても、あの二人が仕上げる文章の中に、時計塔という語が出てくることはない。
誰かが、では触媒を回収しろ、と言った。台の上の紙が、ガラスごと箱にしまわれていく。手袋のほうは、結局そろえて置かれたままだった。
あの紙を今日いちばん見たかったのは、この部屋にいる誰でもなく、あの少年だったはずである。その枠は、こちらが出した書類一枚で潰れている。
日本人が、こちらを見た。
目が合ったのは一瞬で、すぐに逸らされた。逸らし方が下手で、逸らしたことがこちらに伝わってしまう程度の下手さだった。
人に見られることに慣れていない顔をしている。この先しばらく、あの少年は見られ続けることになる。国の代表というのは、そういう立場である。
憎めばいいのだろう、とアシュレイは思った。
この手に出るはずだったものが、あの手に出た。なぜそうなったのかを、誰も説明できていない。順番も、条件も、何ひとつ筋が通っていない。恨む相手としては充分すぎる。
ただ、恨むには、相手が無防備すぎた。
あの少年は、自分が何を取ったのかも分かっていない。取ったという自覚がない人間から、何かを取り返すことはできない。
それに、取られたと言うためには、こちらが持っていたことにしなければならない。アシュレイは一度も持っていない。持つ予定だったものと、持っていたものは違う。予定は、記録に残らない。
それだけではない。
この手が引いた線が、あの少年の手に紋様を灼きつけた。
恨む相手を探すなら、まずそこへ行き着く。
アシュレイは右手を下ろした。上着の袖口が、また少し糸を出している。
聞きたいことが、ひとつできていた。
円の内側の、膝を折ったままのあの人に。
いま聞いても意味がない。この部屋の誰も、答えを持っていないからだ。名乗った本人でさえ、名乗る前に一拍おいた。あの一拍の意味を、この部屋でいちばん正確に分かるのは、たぶん自分だった。
自分の名前を、確かめてからでないと言えない。
その感じなら、アシュレイは、二十二年ぶん知っている。