Fate/empty Vessel   作:ホーマー

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第8話 持つ予定だったもの

 膝を折ったまま、あの騎士は、まったく動かない。周りがどれだけ騒いでも、姿勢がひとつも崩れていなかった。呼び直せと言われても顔色ひとつ変えず、日本人の少年だけを見ている。

 

 鎧は古いが、手入れはされている。合っていないのは寸法のほうだった。胸当ても、留め具の位置も、あの体に合わせて作られたものではない。誂えの鎧を着ている人間の身のおさまり方ではなかった。

 

 髪も短く、切り口が揃っていない。自分で切ったのだろうと思ったが、なぜそう思ったのかは説明できなかった。

 そして、女だった。

 英霊が生前の姿で出てくるとは限らないというのは、魔術を扱う側では常識に属する。だから、そこを理由に偽物だと決めることもできない。

 

 名乗った名前が、まだ頭の中に残っていた。

 

 サー・トマス・マロリー。

 

 部屋の全員が、その名を触媒の側から返ってきたものだと受け取った。本を使えば、本の名が返る。当然の判断である。アシュレイもそう思うべきだったし、現に、短く笑った者もいた。

 

 それでも、笑えなかった。

 

 あの名前は、居間の額のいちばん上に書いてあった名前である。五百年、家がしがみついてきた一行だ。祖父が客に話し、父が黙り、アシュレイが嫌ってきた名前が、いま石の床の上で、膝を折って許しを請うている。

 

 もし本物なら、あの人は自分の家の始祖ということになる。

 

 偽物なら、家は五百年、いない人間の子孫を名乗ってきたことになる。

 

 どちらでも構わない、と思おうとして、思えなかった。

 

 せめて、どちらかに決めたかった。

 そう思ってから、決める手段がひとつも思いつかないことに気づいた。あの人が本物かどうかを判定する道具を、人類はまだ作っていない。

 

 部屋の騒ぎは、少しだけ落ち着いていた。白髪の男が、ようやく何か言ったらしい。呼び直しはできない、という言葉だけが、こちらまで届いた。

 

 当然だ、とアシュレイは思う。契約はもう結ばれている。結び直せるなら、そもそも令呪が誰の手に出るかで揉める必要がない。

 

 背後で扉が開いた。

 

 入ってきたのは、この部屋の誰とも空気の違う二人組だった。上着の仕立てが同じで、書類挟みを同じ持ち方で抱えている。片方が円のほうへ歩き、もう片方がまっすぐアシュレイの前まで来た。日本人の手首をつかんでいた男は、その二人を見て、ようやく手を離した。

 

「ニューボールドさん」

「はい」

「本日付で、あなたの指名は取り下げになります。手続きは追ってお伝えします」

「わかりました」

 

 驚きはなかった。令呪の出ていない人間が代表になれないというのは、はじめに念を押された条件である。

 

 条件そのものに文句はない。契約を結んでいない人間が命令できるようでは、制度のほうが成り立たない。頭では分かっている。

 分かっているのに、指名の取り下げという言い方だけが耳に残った。取り下げるということは、いったんは与えられていたということになる。与えられて、外された。あとに残るのは、外されたほうである。

 

「それから、もうひとつお願いがあります」

 

 書類挟みが開かれた。中の紙は、まだ何も書かれていない。

 

「あちらの方に、しばらく付いていただきたい」

 

 アシュレイは日本人のほうを見た。

 

「監視ですか」

「そうは申しません」

「では、何と申しますか」

 

 言ってから、自分の口調が丁寧になっているのに気づいた。腹が立ったときほど言葉が整うのは、家で叩き込まれた癖である。直そうとして、二十二年かかっても直らなかった。

 

「支援です」

 

 相手は表情を変えずに答えた。

 

「未成年の外国籍の方が、国の代表になります。生活の面でも、手続きの面でも、そばに人がいたほうがいい」

「俺がやる理由は」

「事情をご存じで、なおかつ、どこの所属でもない方がいいのです」

 

 その言い方も、また便利である。

 

 アシュレイは、それきり何も聞かなかった。聞いたところで、返ってくるのは似たような言い回しだろう。組織は関与していない。動くのは個人である。何かあれば、切り離せる。

 

 いま自分に用意されている立場が、五か月前に自分が受け取った立場と、そっくり同じ形をしていることには気づいた。違うのは、あのときは持たされるはずのものがあって、今度は最初から何も渡されないという一点だけである。

 そして、あの少年にも同じ形が渡されている。未成年で、外国籍で、後ろ盾になる組織をひとつも持たない。何かあったときに、いちばん切り離しやすい位置だった。

 守られているように見えて、いつでも捨てられる。それを順番に押しつけられているだけである。

 

 二人組は書類挟みを閉じて、それぞれの用件に戻っていった。

 あの白紙に、これから何かが書かれるのだろう。何を書くにしても、あの二人が仕上げる文章の中に、時計塔という語が出てくることはない。

 

 誰かが、では触媒を回収しろ、と言った。台の上の紙が、ガラスごと箱にしまわれていく。手袋のほうは、結局そろえて置かれたままだった。

 あの紙を今日いちばん見たかったのは、この部屋にいる誰でもなく、あの少年だったはずである。その枠は、こちらが出した書類一枚で潰れている。

 

 日本人が、こちらを見た。

 

 目が合ったのは一瞬で、すぐに逸らされた。逸らし方が下手で、逸らしたことがこちらに伝わってしまう程度の下手さだった。

 

 人に見られることに慣れていない顔をしている。この先しばらく、あの少年は見られ続けることになる。国の代表というのは、そういう立場である。

 

 憎めばいいのだろう、とアシュレイは思った。

 

 この手に出るはずだったものが、あの手に出た。なぜそうなったのかを、誰も説明できていない。順番も、条件も、何ひとつ筋が通っていない。恨む相手としては充分すぎる。

 

 ただ、恨むには、相手が無防備すぎた。

 

 あの少年は、自分が何を取ったのかも分かっていない。取ったという自覚がない人間から、何かを取り返すことはできない。

 それに、取られたと言うためには、こちらが持っていたことにしなければならない。アシュレイは一度も持っていない。持つ予定だったものと、持っていたものは違う。予定は、記録に残らない。

 

 それだけではない。

 この手が引いた線が、あの少年の手に紋様を灼きつけた。

 恨む相手を探すなら、まずそこへ行き着く。

 

 アシュレイは右手を下ろした。上着の袖口が、また少し糸を出している。

 

 聞きたいことが、ひとつできていた。

 

 円の内側の、膝を折ったままのあの人に。

 

 いま聞いても意味がない。この部屋の誰も、答えを持っていないからだ。名乗った本人でさえ、名乗る前に一拍おいた。あの一拍の意味を、この部屋でいちばん正確に分かるのは、たぶん自分だった。

 

 自分の名前を、確かめてからでないと言えない。

 

 その感じなら、アシュレイは、二十二年ぶん知っている。

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