Fate/empty Vessel 作:ホーマー
同じ通路の、別の部屋だった。
番号だけが打たれた扉の一つで、中には机が一つと、椅子が三つある。窓はない。壁の高いところに換気の口が開いていて、そこから廊下の音が、ときどき小さく落ちてくる。
椅子に座らされてから、もう一時間以上たっていた。
朝からの数時間で、この建物の内側をずいぶん歩かされた。案内されるたびに扉の番号が変わる。番号のつけ方を読むのは、午前のうちに諦めていた。
机の向こうには、二人。四十くらいの女と、その斜め後ろに立っている若い男である。朝、あの部屋に入ってきた二人組だった。上着の仕立てまで揃っている。喋るのは女のほうで、男は膝の上の書類挟みに何かを書き込んでいた。
「もう一度、お名前を」
「青江ヒロです」
「綴りを」
ヒロは一字ずつ言った。二度目である。一度目に言ったときも、女は同じようにうなずいた。
喉が渇いていた。朝から水を一口も飲んでいない。言えば出てくるのだろうが言い出す機会がなく、そのまま座り続けている。
「生年月日と、在留の資格を」
答えると、若い男の手が動いた。書く速さが一定で、迷っている様子がない。あらかじめ枠のある紙に、埋めるべきものを埋めているのだろうと思った。
「本日、あの部屋に入った経緯を、もう一度お願いします」
「……もう一度」
口が先に出た。緊張すると、聞いた言葉をそのまま返してしまう。相手はそれを聞き流して、続きを待っていた。
「閲覧の、許可をもらっていました。十時からです。受付で名前を伝えて、案内されて、通路を歩いていて、それで」
「扉が開いていた」
「はい」
「開けたのは、あなたではありませんね」
「違います。中から開きました」
女は書類の端をそろえた。
「その前に、誰かに何かを頼まれましたか」
「いえ」
「あの部屋のことを、誰かから聞いていましたか」
「知りませんでした」
「閲覧の申請は、いつ出しましたか」
「半年前です。三回、突き返されて、四回目で通りました」
そこで初めて、女の目がわずかに動いた。動いただけで、何も言わない。若い男の手は、書く速さを変えずに動き続けている。
女はそれ以上、掘り下げなかった。掘り下げないことのほうが、かえって残った。
ヒロは、自分がいま何を確かめられているのかを理解した。仕組まれていないかどうかを見ている。半年かけて四回書いた人間が、たまたま今日そこにいたのかどうか。
自分でも、そう聞かれたら答えに困る。
「結構です」
女はそう言って、机の上で指を組んだ。
「では、こちらの説明をします」
説明は短かった。短いのは、こちらが理解することを前提にしていないからだと、途中で分かった。
この国も、代表を立てなければならない。ただし国家の魔術機関がないため、権限は個人に委任される。委任先は、英霊との契約を持つ者に限られる。契約を持っているのは、いまのところ一人しかいない。
「本日付で、あなたがこの国の代表になります」
「……代表」
「そうです」
言葉としては聞こえている。中身のほうが入ってこない。
女はそのまま先を続けた。
「七つの国が、それぞれ一騎ずつ英霊を立てます。その七騎が、この街で戦います。最後まで残った国が、聖杯から与えられるものを受け取ります」
「与えられるもの、というのは」
「いまは申し上げられません」
答えられないのではなく言わないのだと分かる言い方だった。
「勝ち負けを決めるのは英霊です。あなたが戦うわけではありません」
「じゃあ、僕は」
「命じることと、止めることができます。できるのは、その二つだけです」
女はヒロの右手を指した。
「その紋様は三画あります。三度だけ、逆らえない命令を出せます。使えば、その一画は消えます」
ヒロは自分の手の甲を見た。線は三本ある。朝は、剣の形に似た並びだと思った。いまは、ただの三本に見えた。
「あの、訂正は、しないんですか」
「訂正、といいますと」
「本当は、僕じゃなかったはずです。あの、亜麻色の髪の人が」
言いかけて、口が止まった。あの人の名前を、ヒロは知らない。名前も知らない相手のことを、代わりに立てろと言っている。
女は表情を変えなかった。
「手続きの上では、あなたです」
「でも」
「契約は結び直せません。結び直せる方法があるなら、今朝のうちに使っています」
それきり、その話にはならなかった。
結び直せないのなら、あとは誰がその席に座るかという話でしかない。座れる人間が一人しかいないなら、その一人が座る。そういう順番で決まっている。
順番として正しいことと、納得できることは、別だった。
訂正しない理由は、最後まで説明されなかった。できないからなのか、しないほうが都合がいいからなのか、ヒロには判断がつかない。判断がつかないということだけが、はっきり分かった。
「家族には、なんて言えばいいんですか」
「留学の延長で通します。事実と食い違わない範囲で、こちらが用意します。ご自分から、余計なことを足さないでください」
余計なこと、というのは、つまり本当のことである。
「一つ、確認させてください」
女が姿勢を変えずに言った。
「帰国を希望されますか」
ヒロは机から目を上げた。
「学業のほうは、こちらで話をつけます。新学期が始まる前に戻る形になりますが、書類は整えられます。ご家族への説明も、こちらで用意します」
「……帰れるんですか」
「帰れます」
ヒロは、少しだけ息を吸った。
帰れる、という言葉が、思っていたよりも強く胸に落ちた。日本の家の玄関と、駅から見える屋根の並びが、勝手に浮かんだ。
「ただし」
女は机の上に置かれたヒロの右手を見た。
「それは、消えません」
手の甲の紋様は、朝と同じ場所にある。触っても熱はなく、押しても色が動かない。
「日本で暮らしていても、消えません。命令を出せる相手が、海の向こうにいるというだけになります」
「命令」
「はい。あなたが持っているのは、そういうものです」
女はそこで、はじめて少し言葉を選んだ。
「率直に申しますと、遠くにいらっしゃると、こちらとしては困ります。何かを決めなければならない場面で、決められる人が国内にいないことになりますので」
「じゃあ、帰るなと言われているのと同じじゃないですか」
「いいえ。帰れます」
自由に決めていいと言われているのに、どちらを選んでも、手の甲のものは残る。残れば代表として置かれる。帰れば、命令だけを持ったまま日本で暮らす。
選んでください、ということだった。
選ばせる形は残したまま、選べないようにするための材料だけが並べてある。ヒロには、それがずるいことなのかどうかも分からなかった。分からないまま、首を横に振っていた。
「残ります」
「分かりました」
若い男の手が、また動いた。
そのあと、女が扉のほうへ目をやって、短く何か言った。廊下で人が動く音がして、扉が開いた。