かくも日常的な物語 2 作:満足な愚者
ここから先この物語はいつもよりもオリジナル要素が強くなり、シリアスの割合が増していく可能性が強いです。
そのようなことをご了承してくださる方のみこれから先へとお進みください。
ふぅ、と一つ息を吐き、大きく伸びをする。あの記事の発売から今日で三日。765プロダクションは今までにない雰囲気に包まれていた。
765プロダクションが発足してから初めての緊急事態。悪意のあるゴシップ記事。
タチが悪いのはその記事が真実だということだった。でまかせで、出鱈目な記事なら何とでもごまかしが効く。しかし、何よりもその如月千早本人がその記事を事実だと認めていた。
そしてその千早を襲った声がでなくなるという症状。(正確には歌おうとした時だけ声がでないようだ。俺自身としても本人と会ったわけでもなんでもないので、ただ赤羽根さんと春香ちゃんから聞いた人づての話だ)
はっきり言って今のナムコプロダクションの雰囲気はここでバイトをし始めてまだ半年と経たない俺の目から見ても良くないことは一目瞭然だった。
それに……。
と、考える。脳裏によぎるのは昨日の夜の話。
昨日、俺は何をすべきだったのだろう。どう行動すればよかったのか。いや、こんなことは考えるだけで無駄である。考えるべきはそこじゃあない。
俺が考えるべきはなぜもっといい方法があると“知りながら”その方法をとっていないかだ。
違うな、それすらいい訳だ。どうしようもない俺の内心から出る見たくもないものへのいいわけだ。
俺の好きな小説の一文にはこうある。
『恐れてはいけません。暗いものをじっと見つめて、その中なら、あなたの参考になるものをおつかみなさい』
しかし、俺のこの感情はじっと見つめたところで参考になるものはないだろう。
俺の真っ黒な暗いものはもはや闇といってもいい、怪物と言い換えても問題ないほどの闇だ。なら、この言葉の方がここではよっぽど正しいだろう。
『怪物と戦うものは。その過程で自らが怪物と化さぬように心せよ。深淵を覗くとき深淵もまたお前を覗いているのだ』
だからこそ俺は怪物にならないように、闇に引きずり込まれないように、怪物を見て見ぬふりをした、闇をないものにした。それが俺自身がこの数年で身に着けた自己防衛だった。
その結果がこのもうどうにもならず、なるようにしかならないこの状態だとしても……。
「ねぇ、お兄さん……。千早ちゃん大丈夫かな……?」
少し、そんなくだらない考えに思いを寄せていた俺に声が一つかかる。ふと、声がする方を見れば、会議室のソファーに座る春香ちゃんが心配そうに呟いていたのが目に入った。
「……うん、大丈夫だよ」
娘の様に思っている我が妹の真と同じ年の春香ちゃん。その心配そうな問いかけに俺は何も気の利いたことを探し出すことが出来ず。ただ歯切れの悪い言葉を繰り返す。
情けない。
ただそれだけだ。彼女たちよりも長く生きているというのにかける言葉が何か分からない。励ます? 慰める? 希望を持たせる? その全てが正解に見えて、そのどれもが間違っているように見える。だから、こそ俺は中庸に中道に、間をとって無難な言葉を返すことにした。
もっと、確実良い道があると確信しながら……。
「で、でも、昨日はあんだけ思いつめたような顔をしていたし……」
春香ちゃんと雪歩ちゃんは赤羽根さんと一緒に千早ちゃんの病院に付き添ったんだったな。
それだけ春香ちゃんと雪歩ちゃんのショックは一入だろう。
「…………」
「それに今日は事務所にも来てないし……」
いつもの太陽の様な明るい笑顔を潜め、どんよりとした曇り空のような表情だ。それはそうだ、一番と言ってもいいくらいの親友が事務所にこなければ誰だって心配になる。
一応千早ちゃんの扱いだが、体調不良ということで一週間ほどの休みを各関係に貰っている。ゴシップ記事が出た後にこの不自然と言っていいほどの体調不良。何かあったと公言しているようなものだが、本当に重大な事件が起こっているためどうしようもない。焼け石に水だが、水はかけないよりもかけたほうがましだ。
色々と勘ぐられそうだがこればっかりは他に手の打ちようがないのだ。
もちろんそんな暗いオーラを放っているのは春香ちゃんだけではない。千早ちゃんの留守を守ろうといつも通り仕事に行ったメンバーも血色の悪さを隠せないでいた。
千早ちゃんがいない765プロ。雰囲気も暗く最悪といってもいい。
しかし、それでもなお時間は進む。時は止まらない。落ち込もうが嘆こうが、時間は残酷に平等に流れるのだ。俺のすべきことはなにか。いやはっきりしている。千早ちゃんに元気になってもらうことだ。それが俺にとっても真にとっても最善になるのは間違いない。人の噂も七十五日。ゴシップ記事なんてものはすぐに風化する。
しかし、人の傷はどうだろうか……。
「大丈夫だよ。千早ちゃんは強いからね……」
俺のその言葉はいったい誰にかけた言葉だったのだろうか……。
「そうですね!千早ちゃんは強いですから! 私たちに出来ることは明るく振る舞って、千早ちゃんが帰って来た時に気持ちよく歌えるようにすることですね!」
春香ちゃんは明るくそう笑った。その笑顔を見ると少しだけ気分が楽になった気がする。
なるほど、これがアイドルか……。なんとなく、アイドルがここまで人気の理由が分かった気がした。
「そうだね! よし、今日は春香ちゃんは真と一緒にラジオの生放送か! 俺が付き添うから頑張ってね!」
「はい! ……そういえば真はどうしたんですかね? 今日はまだ見てないですけど」
会議室にかけられた時計を見ればそろそろ出発にはいい時間帯だった。昨日内に今日の予定は伝えてある。
それなのにまだ真は事務所に来ていない……。
昨日の夜のことが脳裏をよぎる。闇の中ただ虚空を見つめる少女。儚げにほほ笑むその美しい笑みはまるで直ぐに壊れてしまいそうで……。果実は腐る前が一番おいしい、線香花火は落ちる寸前ほど輝きを増す、人は壊れるまえが一番美しい……。
……大丈夫。
本日何回目かになる大丈夫という言葉。その三文字をまるで暗示のように心に刷り込む。
俺も真もまだ壊れていない……。
「ごめん! 遅れたよ!」
元気のいい声共に開かれる扉。そのの先には上から下まで俺のおさがりを着たいつも通りのボーイッシュな菊地 真が立っていた。よほど急いできたのかその息は少し荒く、髪は少し飛び跳ね、額には秋だというのにうっすらと汗ばんでいた。
「真良かった。時間に遅れるかと思って心配してたんだから!」
「ごめんごめん、春香に兄さん。ついついレッスン場でダンスの練習して体を動かしていたらいつの間にかこんな時間になって……えへへ」
バツの悪い笑みを浮かべ、真は笑う。その目にはしっかりと光がよぎり、その表情は普段通りだった。
「まだ時間にはなってないし大丈夫だよ。それより、真。髪が変な方向に飛び跳ねてるぞ」
そう笑いながら俺は真の髪を手櫛で整える。
「えへへ、ありがとう」
真は優しく微笑んだ。柔らかいその笑顔を見ながら思う。
――何か可笑しい、と。
いつもの真なら子供扱いしないでよ、とワタワタと慌てふためくというのに。
「……あぁ」
だからだろうか、俺はそのお礼にろくに返事を返せなった。
ここまで来て俺は、また何もしないという選択を選んでしまった。考えるという工程を排除してしまった。それが最悪の一手と分かりながら俺は、愚かな俺はまたしても、この最悪手を選んでしまったのだ。
「それじゃあ、兄さん、行こっ!」
俺の手を取るとそのまま引っ張る。
「ちょっと、真、早いって!」
力で真に勝てるはずもなく俺はズルズルと引きずられるようになるように事務所を出ていくのだった。
「ちょっと、真、お兄さん! 待ってください! ――――あっ、ガラガラドシャーン!! ……いたたた……」
その後ろで大きな物音を聞いたような気がするが真についていくのが必至な俺はそれに何が起こったのか分からないでいた。
その日の仕事終わり、春香と雪歩は千早の住むマンションへとお見舞いに訪れた。
時刻は夕暮れ時、閑静な住宅街にある一軒のマンションは西日を受け黄金に輝いていた。春香、雪歩、そして真と千早はナムコプロの高校生組としてプロダクションの中でも中のいいメンバーであり、千早の家へも何度も遊び行ったことのあるメンバーだった。
そんな千早の部屋の前に立ち春香は横に立つ雪歩を見る。
「……うん」
雪歩と春香は目線を合わせ力強く一つ頷くと春香が代表してインターホンを押した。
「千早ちゃん、いる? 春香だけど」
「あっ、私もいます。萩原 雪歩です」
二人がしゃべり終わり数秒の時が流れる。昨日の今日である、あの件で一番ショックを受けたのは千早だった。歌うためにアイドルになったのに歌おうとすると声がでない。
そのショックはいかほどのものか。春香には想像もつかない。
しかし、計り知れないショックだったのは間違いないはずだ。
そんなことが昨日あったのだ。それに今日は事務所にも来てすらいない。誰にも会いたくないのかもしれない。
横を見れば雪歩をまた顔を落としていた。
また、明日出直そうか、春香が雪歩にそう提案しようとした時だった。インターホンから声が聞こえた。
「……なにかよう?」
小さいながらもその声は千早のものだった。
春香と雪歩はあっ、と声を上げる。
「うん! 一緒にダンスのレッスンに行かないかなと思って……」
「ほら、体動かすと気持ちいいって言いますし!」
春香に続くような形で雪歩が言う。声がでない千早に配慮して二人はダンスのレッスンに誘った。
「……いかない」
しかし、その誘いは短く断れた。
「あっ! そうだ、みんから預かりものしてたんだ! お茶とかのど飴とか本当にいーっぱい!」
「そうなんです! 春香も私も物を持ちすぎて、サンタクロースみたいになっちゃってんですぅ!」
春香と雪歩は765プロを代表して見舞い来ている。大勢で訪れても迷惑だろうと判断した結果だった。本来なら真もくる予定だったのだが、どうしても抜けれない予定が入ったらしく、今回は不参加だ。
春香と雪歩はみんなから預かった手荷物を見ながら明るく話す。荷物は本当に多く、手提げのカバンが二つ一杯一杯になるほどだった。その多さはそれだけ千早がナムコプロのアイドルに愛されているという裏付けでもあった。
「構わないで! 私はもう歌えない。みんなの気持ちに応えられないのもの……」
スピーカーから漏れるのは力強い拒絶の声。
「千早ちゃん、弟さんのために歌わなきゃって……。でも、もっと簡単じゃだめですか? 歌いたいからとか、歌が好きだから歌う! じゃだめですか?」
「そうだよ、雪歩の言うとおりだよ! 歌を歌いから、好きだから歌うじゃダメなの!? 千早ちゃんともう一度歌えたら私も雪歩も嬉しいし、天国の弟さんも喜ぶと思うよ!」
「やめて! 雪歩と春香に私の何が分かるの! もう、お節介はやめて! もう何も話すことはないわ、帰って!」
その日千早が部屋から出ることはなかった。
同時刻。
夕日につつまれ色を変える町中を歩く、もうすっかり見慣れた通り。駅からナムコプロダクションへと向かう道だ。
「ねぇ、兄さん早く早く!」
何が楽しいのか真は笑いながら俺の手を引っ張る。
いつも通りアイドルの送迎も終わり、帰りは俺一人だからと電車で帰ってきた。俺一人ために経費で落ちるとはいえタクシーを使うのは憚られた。きっと俺の貧乏性は死ぬまで治らないだろうなとどうでもいいことを思う。
そして駅に着いた俺なのだが、そこに何故か帽子を深くかぶりマフラーで顔を半分隠した真がいた。理由は分からない。服装は変装のつもりだろうが、逆に不審者として目立っていた。そんな真は俺を発見するなり、俺の手を引きながら事務所までの道を歩くのだった。
「ちょっと、真。ストップだストップ!」
「えー! 何、兄さん!」
そんな真にストップサインを出して止まるように言う。
「まず手を離せ! 色々と見られたら不味いだろ……」
ただえさえ千早ちゃんのゴシップ記事の騒ぎの最中なのだ。そんな中アイドルと手をつなぐ謎の男の出現となれば、記者が見逃すはずがない。
「えぇー、遊園地の時は手をつないでたじゃん!」
「あの時と今では真の有名度合いが違うだろ……」
あの時も危なかったが、今はそれよりも危険だ。何といってもテレビで見ない日がないトップオブトップのアイドル、今年のアイドルマスターの候補にも挙げられているほどに真は有名になっている。
「だから手を離んだ」
「えぇー」
真は渋々と言った様子だ。
「こんなところファンや記者に見られたら殺されかねん」
これは比喩でも何でもない。菊地真の人気はそこまであるということだ。それに裏路地を通っているとはいえ、どこに誰が潜んでいるのかわからないのだ。壁に耳あり障子に目ありとはよく言ったものだ。
「うーん……じゃあ、兄さん。今日は一緒に夜ご飯食べようよ!」
真の言葉に脳内の今日の予定帳を広げる。確か夜の予定はバイトだけだったはずだ。
「わかった。今日はこれで帰れるし、早めにご飯たべようか!」
「へへ、やりぃー!!」
ようやくその右手から俺を解放した。そういえば真とご飯を食べるのは本当に久しぶりだな。あの時から一緒に食卓を囲むことはなかったので、久しぶりに感じる。まぁ、時間があるときくらいは、一緒に食べるのも悪くない。SSKの部屋にも行ったばかりだし、ストックも結構ある。
「あの、菊地真さんですか……?」
そんな俺たちへ後ろからかけられる声。
まずい、記者か……?
そう思い振り返った先には一人の黒髪の女性。歳のころは真よりも二回りほど上だろうか。歳のせいか皺が少し目立つが十分に整った容姿を持つ女性。その目元や雰囲気は誰かに似ているような気がした。
「は「すみません、どちら様でしょうか?」
真が応えるまえに声をかぶせて質問しておく。記者ならそのままうやむやにしてしまうつもりだ。
人ひとり巻くくらいの話術は持っていると自負している。
「いきなりすみません。私は如月千早の母です」
その言葉で納得する。雰囲気や目元は千早ちゃんそっくりだった。
「千早さんのお母さんでしたか……すみません。私は765プロでバイトしている者で、彼女が菊地真です」
名刺を取り出し千早ちゃんのお母さんに渡す。いつの間にか小鳥さんと社長が作っていた俺の名刺。肩書はプロデューサー代理。いや、いいんだろうか、ただのバイトの名刺にプロデューサー代理って。まぁ、そう呼ばれることが確かに多いけれどさ。
「菊地真です。それにしてもよくボクが菊地真だとわりましたね?」
俺の言葉に続くよう真も一つ頭を下げる。
確かに今の真の恰好は俺のおさがりに首元にはマフラーそして帽子。どう見てもアイドルというより不審者だ。
「ご丁寧にありがとうございます。えぇ、千早から菊地さんはこの服が気に入っていていつも着ているって写真を見せてもらったから……」
「千早さんの記事の件は申し訳ありません。私たちがもう少し気を配っておけば書かれることがなかったかもしれないのに……つもる話もあるでしょうから、事務所の方へどうぞ」
ここから事務所までは歩いて目の鼻の先だった。
「いえ、それは結構です」
千早ちゃんのお母さんはやんわりと俺の申し出に断りを入れると、手に持っていたカバンから何かを取りだす。
「すみません、悪いんですが菊地さんからこれを千早に渡して欲しいんです」
「これは……?」
真は渡されたものは一冊の自由帳。
「亡くなった息子のお絵かき帳です」
「千早の弟の……」
真は手にもつ一冊の自由帳を見る。その瞳は一瞬光を失うが、またすぐに戻った。そのことに気付いた人物はここにはいなかった。
「これはボクが渡すよりもお母さんから渡してあげてください。その方が、きっと……」
「いえ、私は……。きっと顔を合わすだけで喧嘩になってなるだけなので……」
「で、でも……」
「無理なんです」
「え……?」
「今更、信頼なんて、ものは……私たち親子は、ずっとそうでしたから……私に出来ることは、これくらいしか、あの子の事、どうかよろしくお願いします。それとプロデューサー代理さんもお時間いただいて申し訳ありませんでした。それでは」
そうまくし立てるようにして千早ちゃんのお母さんは去っていった。
一瞬見えた去り際の表情は悔しさを帯びていた。俺にはそれが良く分かった。俺も真という半ば娘のような存在が要るおかげで千早ちゃんのお母さんが、自らの娘のことで他人を頼るのがどれだけ悔しいのか、悲しいのか、憂いを帯びるのか、そのことが良く分かった。
しかし、とも考える。千早ちゃんのお母さんのあの言葉、きっと悪手だったのだと。母親という存在のあの言葉に彼女が反応しないわけがない。
「とりあえず、事務所に入るか……」
「…………」
「真、早く行こうよ」
「あっ、うん」
二回目の問いかけでようやく顔を上げた真は俺の横まで駆け足でくると、
「ねぇ、兄さん。これは兄さんから渡して欲しんだ。ボクが渡すと……」
俺は黙って真から自由帳を受け取った。どういう行動をとるのがベストなのかを考えながら……。
もちろん一番いいのは今すぐにでも千早ちゃんが笑顔を取り戻し、歌を歌えるようになることである。
春香ちゃんたちは上手くいくだろうか……。765プロを代表してお見舞いに行った二人を思いながら空を見上げた。ビル群に囲まれて夕日は見えなかった。