其れは、永い時を生きた。
人が永遠と呼ぶ時でさえ、その命にとっては流れゆく季節の一つに過ぎない。
まだ空を支配するのが翼であり、地を統べるのが牙であった頃。世界は竜たちの時代だった。
蒼穹を裂くほど巨大な翼が雲海を渡り、山々を寝床とする竜王が咆哮を上げれば、大地は震え、森はその威を畏れた。
竜は争わない。
力ある者が頂に立ち、弱き者はその力を認める。それだけで秩序は保たれていた。
命を奪うことはあっても、憎しみからではない。
食らうため。あるいは縄張りを示すため。
竜にとって、生とはただ生きることだった。
だからこそ、終わりは静かに訪れた。
ある日を境に世界が変わったわけではない。
一頭、また一頭と古き竜は姿を消し、新たな命は生まれなくなる。
長命であるが故に誰も滅びを急がず、誰も終焉に気付かなかった。
気付けば空を飛ぶ影は減り、山々から咆哮は消え、竜という種族は伝説となっていた。
そのすべてを、其れは見ていた。
仲間が眠るように息絶えていく姿も。
かつて翼が埋め尽くしていた空を、小さな鳥たちが自由に飛び回るようになったことも。
そして、竜が去った大地を埋めるように、人という種族が繁栄していくことも。
人は弱かった。
牙も、鱗も、翼もない。
魔力さえ竜には遠く及ばない。
吹けば消える火のような命。
初めて見た頃、其れは思った。
――長くは続かない。
この小さき種は、数百年もすれば世界から姿を消すだろうと。
だが、その予想は外れた。
人は増えた。
木を切り倒し、森を拓き、土を耕し、村を築いた。
村は町となり、町は城壁に囲まれた都市へと姿を変える。
やがて王が生まれ、国が生まれた。
ある王国は「千年王国」と己を称した。その栄華は百年ともたなかった。
ある皇帝は世界を統一した。
その名は僅か二百年で歴史書の一節となった。
ある英雄は魔王を討ち、人々は永遠の平和を歌った。
だが英雄の墓前で剣を掲げた子らは、その孫の代には再び戦場へ立っていた。
人は、同じ過ちを繰り返す。
争い。憎み。奪い。
そして悔い、再び手を取り合う。
幾つもの王国が興り、滅びた。
幾度となく戦火が世界を焼き、幾度となく平和が訪れた。
其れはそのすべてを見届けてきた。
ただ静かに、ただ一人で___
だが、長い歳月を経ても、どうしても理解できないものが一つだけあった。
人である。
百年にも満たぬ命でありながら、彼らは未来を語る。
自らが見ることのできない景色を、子へ、孫へと託して笑う。
明日を迎えられる保証などどこにもないというのに、今日という日を懸命に生きる。
愛する者を失えば涙を流し、それでもまた誰かを愛する。
別れを知りながら、出会いを求める。
死を恐れながら、誰かを守るために剣を抜く。
その姿は、竜には理解できなかった。
竜は長く生きる。
だから急ぐ必要がない。
何かを残そうと焦ることもない。
命を繋ぐという概念すら、人ほど重くは考えない。
明日があることは当たり前だった。
百年後も、千年後も。
同じ空を見上げているはずだった。
だから、人は不思議だった。
短い命しか持たぬ彼らは、なぜあれほど強く笑えるのか。
なぜ未来を信じられるのか。
なぜ、失うことを知りながら歩き続けられるのか。
その問いだけは、何千年という時間を費やしても答えが見つからなかった。
ある秋の日だった。
山々は紅葉に染まり、吹き抜ける風が木々を揺らしていた。
其れはいつものように、人の営みを遠くから眺めていた。
谷あいを縫う一本の獣道を、一人の老人が歩いていた。
背には薪を負い、片手には古びた杖。白髪は肩まで伸び、歩みは遅い。
それでも一歩一歩、慣れた足取りで山を登っていく。
その姿を何とはなしに眺めていた時だった。
老人の足元で、小さな石が転がる。
「あっ――」
声と共に身体が傾き、そのまま斜面を滑り落ちた。
薪は辺りへ散らばり、杖は二つに折れる。
其れは静かに斜面を降りた。
老人は岩に身体を打ち付けたらしく、苦しそうに息をしている。
人であれば命に関わる傷だ。
其れは何も言わず老人の身体を抱き上げる。
驚くほど軽かった。
何百年も前に見た人間も、こんなにも脆かっただろうか。
近くに小さな山小屋があった。
老人を寝かせると、竜の魔力で傷口を覆う。眩い光ではない。
雪が溶けるように、傷がゆっくりと塞がっていく。
老人は目を開けると、自分の身体を見て目を丸くした。
「……助かった、のか。」
其れは答えない、言葉が分からない。
老人はしばらく其れの顔を見つめていたが、やがて穏やかに笑った。
「礼を言わねばならんな。」
意味は理解できないが、それでも声色から感謝していることだけは伝わる。
竜は魔力の流れを感じ取る。
言葉そのものではなく、そこに宿る感情の揺らぎだけは分かった。
敵意はない。安堵と、感謝。
それだけを理解すると、其れは静かに頷いた。
翌朝。
老人は机の上に一冊の古びた本を広げていた。
紙は茶色く変色し、端は擦り切れている。
何度も読み返された跡があった。
老人はその本を開き、一つの文字を指差す。
それは人の文字ではなかった。
竜族が遥か昔に用いていた古代文字。
今では誰も使わない、忘れ去られた言葉。
老人は拙い発音で、その言葉を口にした。
「……ル・アシェル。」
発音は酷かった。
音は崩れ、抑揚も違う。
それでも確かに竜の言葉だった。
其れの瞳が、初めて僅かに見開かれる。
「……何故、その言葉を知っている。」
老人は意味を理解できなかった。
だが、自分の発音に反応したことだけは分かったらしい。
嬉しそうに老人は笑みを浮かべる。
「やはり、そうか。」
そして胸を叩き、自分を指差した。
「学者。」
続いて本を指差す。
「古い……歴史。」
意味はほとんど通じないのは、老人も承知していた。
だからそれ以上は無理に話そうとしなかった。
それから数日の間、二人は奇妙な共同生活を送った。
老人は毎朝、畑へ向かう。
土を耕し、水を撒き、野菜を育てる。
其れはその様子を黙って眺め、ときに重い荷物を運び、ときに薪を割った。
老人はそのたびに何かを話した。
季節のこと。
村のこと。
昔話。
亡くなった妻のこと。
旅立った息子のこと。
其れには何一つ理解できなかった。
それでも老人は話すことをやめなかった。
沈黙を苦にする様子もなく、夕暮れには二人で縁側に座り、山へ沈む夕日を眺めた。
ある日の夕暮れだった。
老人は不意に、古びた本を閉じた。
そして、ぎこちない竜語でゆっくりと語りかける。
「人間……知りたい。」
其れは静かに頷く。
老人は何度も言い直しながら、言葉を紡いだ。
「遠く……見る……だけ……駄目。」
一つ一つ、思い出すように。
忘れた歌を口ずさむように。
「人……生きる。」
そこで老人は首を横に振る。
違う。
伝えたいのは、それではない。
老人は目を閉じ、記憶を探るように深く息を吸った。
そして、最も流暢な竜語で、一言だけ告げる。
「――人として、生きてみなさい。」
発音は拙くとも、その一文だけは驚くほど正確だった。
古い書物の一節として、何度も読み返してきた言葉だったのだろう。
其れは長く老人を見つめた。
なぜ、その言葉だけを知っているのか。
なぜ、自分に向けて言ったのか。
分からない。
だが、その言葉だけは、何千年という歳月の中で初めて胸の奥深くへ沈んでいった。
数日後。
老人に別れを告げることなく、其れは山を下りた。
竜には別れの習慣がない。
いつかまた会うか、二度と会わないか。
それだけのことだった。
背後で老人は小さく笑い、去っていく背中に向かって手を振る。
「良い旅を。」
その言葉は届かない。
だが、老人の穏やかな笑みだけは、其れの記憶に長く残ることになる。
不定期で上げていきます。
いつか週一の定期投稿とかにしていきたい。