山を下りるにつれ、風の匂いが変わっていった。
湿った土と苔の香りは薄れ、代わりに炭を燃やした煙と、鉄を打つ匂いが混じり始める。
其れは足を止め、街道の先を見つめた。
視界の彼方には、石造りの巨大な城壁がそびえている。
「……人間は面白いな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
山より低い壁を築き、その中に街を閉じ込めて暮らしている。
竜なら空を飛べば済む。
それでも人間は壁を築き、門を作り、列を作って順番を待つ。
その一つ一つが、其れには興味深かった。
街道には様々な種族が行き交っている。
荷車を引く角人。
耳の長いエルフの旅人。
獣耳を揺らしながら果物を運ぶ少女。
人間だけではない。
太古、竜たちが見下ろしていた世界よりも、ずっと賑やかな世界だった。
「なるほど」
其れは頷く。
「人間だけの国ではないのか」
知識としては知っていた。
角人は背が低く、頑丈そうな体格をしている。
獣人は尻尾を揺らして笑っている。
エルフは驚くほど長命らしい。
――長命。
その言葉に少しだけ興味が湧いた。
人間より長く生きる者は、人間をどう見ているのだろう。
やがて城門へたどり着く。
門の前には長い列ができていた。
荷を調べられ、何かを確認されている。
其れも最後尾へ並ぶ。
待つという行為は嫌いではない。
竜にとって時間は流れるものではなく、積もるものだからだ。
前に並ぶ商人たちが何か話している。
笑い声。ため息。怒鳴り声。
言葉はまだ理解できない。
老人と交わした古代竜語は人間語ではない。
ただ、感情だけはぼんやりと伝わってくる。
退屈。焦り。安堵。
そうした揺らぎが魔力を通して感じられた。
「次!」
門番が声を上げる。
其れは前へ進んだ。
門番は其れを見るなり、一瞬言葉を失った。
白を基調としたローブ。
銀糸で縫われた星の装飾。
そして、白い髪の内側に覗く青と紫のグラデーション。
門番が何か尋ねる。其れは笑顔で答えた。
「分からない」
当然、人間語ではない。
門番は首を傾げる。其れも首を傾げる。
しばらく見つめ合った。
門番はもう一度何か言う。
其れはにこやかに答える。
「美しい門だな」
全く会話になっていない。後ろに並ぶ人々がざわつき始める。
門番は困ったように周囲を見る。
この男は何者なのか。身なりだけ見れば高位貴族か、どこかの魔術師。しかし言葉が通じない。
頭がおかしいのか。
異国人なのか。
判断がつかなかった。
結局、門番は道を開けた。面倒事に関わりたくなかったのだろう。
其れは嬉しそうに門をくぐる。
「入れた」
それだけで少し楽しかった。
街の中は眩しかった。
石畳が夕陽を反射し、露店が並び、人々の声が空気を満たしている。
焼き立てのパン。香辛料。花。果物。酒。
匂いだけで世界ができているようだった。
其れは店先に並ぶパンを見つめる。
「これは何だ?」
店主に尋ねる。もちろん通じない。店主は笑顔でパンを差し出した。
其れは受け取り、じっと観察する。
「……石ではないな」
指で押す、柔らかい。さらに顔を近づける。匂いを嗅ぐ。
店主は何か説明している。其れは真剣な顔で頷く。
全く理解していない。
そのままパンを懐へ入れようとした。
店主の笑顔が固まる。腕を掴まれた。
其れは不思議そうに振り返る。
「くれるのではないのか?」
店主は必死に何かを訴えている。周囲の人々が笑い始めた。
其れはようやく、自分が何か間違えたらしいと理解する。
老人は何でもくれた。だから、人間は欲しいと言えばくれるものだと思っていた。
どうやら違うらしい。
「すまない」
謝る。もちろん通じない。結局、パンを返すと店主は苦笑しながら手を振った。
しばらく歩いていると、小さな広場へ出た。そこでは吟遊詩人が歌を奏でていた。
子供たちが笑い、大人たちが足を止めている。其れも立ち止まった。
歌詞は分からない。それでも音は美しかった。
竜には歌がない。咆哮はある。風を裂く翼の音もある。
だが、誰かを楽しませる音楽はない。
「無駄なことをする」
そう思った。そして、その無駄が少し羨ましかった。
夕暮れが街を染める頃。其れはふと気配を感じた。
背後に三つ。一定の距離を保って歩いている。
尾行。その概念は知らない。
だが、追われていることは分かった。敵意は薄い。
欲望。
期待。
打算。
そうした感情だけが流れてくる。
其れは少し考え、笑った。
「面白い」
人間は何故、人の後をつけるのだろう。
知りたい。その理由を。
彼は何も知らない旅人らしく、人気のない路地へと足を向けた。
背後の気配が近づく。男たちの鼓動が速くなる。
その時、黒い布が視界を覆った。誰かが腕を掴む。
押さえつけられる。抵抗しようと思えばできた。
魔術で、この街ごと消し飛ばすこともできる。
だが、其れは動かなかった。
「なるほど」
布の向こうで小さく笑う。
「これが人間のやり方か」
彼は静かに、その不可解な行為へ身を委ねた。