石畳の感触が背中にあった。
冷たく、湿っている。
それが目を開けた最初の感想だった。
視界は暗い。天井は低く、石造りの壁には苔が張り付き、どこかから水滴の落ちる音が響いている。
其れはゆっくりと身体を起こした。
手首にも足首にも拘束はない。牢の中だ。
鉄格子が一本、二本、三本。
指先で軽く触れてみる。錆びていた。
「なるほど」
小さく呟く。
人間は人間を閉じ込めるために、このような場所を作るのか。
面白い。
人を閉じ込めるという発想自体、竜には存在しない。
竜は強者が弱者を従わせ、逃げる者は追う。戦う者は戦う。
それだけだった。
閉じ込めて生かしておく理由が分からない。
鉄格子の外を見回す。地下へ続く階段。
壁に掛けられた松明。古びた木の扉。
そして、奥の牢から聞こえてくる話し声。
男が三人。言葉はまだ理解できない。
だが、魔力を通して感情だけは流れ込んでくる。
興奮。期待。欲望。何かを手に入れた者の感情だった。
其れは目を閉じる。
街で感じた気配と同じだ。自分を攫った男たちだろう。
何故攫ったのか。その理由を知るために抵抗しなかった。
だが、肝心の理由だけがまだ分からない。
人間語を理解できないというのは、思っていた以上に不便だった。
その時だった。
「……起きた?」
声。
男たちではない。もっと近い。
其れは振り返った。隣の牢に、一人の少女が座っていた。
白い髪。痩せた身体。
そして、暗闇の中でもはっきりと分かる緋色の瞳。
年は十四ほどだろうか。
身体は細く、手首には縄の跡が残っている。
奴隷。
老人の本で見たことがあった。
其れは少女を見つめる。
少女も其れを見つめ返していた。
「……貴族の人?」
意味は分からない。
其れは首を傾げた。
少女も首を傾げる。
「え?」
短い音。
その音だけが妙に耳に残った。
魔力が微かに動く。
言語理解の魔法。
一度聞いただけでは意味にならない。
音を集め、繰り返し聞き、魔力で解析する。
時間が必要だ。少女は鉄格子に近づいた。
「聞こえてる?」
意味は分からない。
「大丈夫?」
分からない。
「怪我してない?」
分からない。
其れはただ少女を見ていた。
少女はしばらく考え込むような顔をして、それからぽつりと言った。
「……もしかして、言葉が分からないの?」
その問いだけは、少しだけ輪郭を持った。
分からない。
その音が何度も繰り返されていたからだろう。
其れはゆっくり頷いた。
少女の表情が変わる。
驚き。困惑。そして、少しだけ納得したように笑った。
「そっか」
その二音ははっきりと聞き取れた。
少女は床に置かれていた木の椀を持ち上げる。
中には硬い黒パンが一切れ入っていた。
彼女は少しためらってから、そのパンを半分に割る。
そして鉄格子の隙間から差し出した。
「はい」
其れは受け取らなかった。
少女はもう一度差し出す。
「食べて」
意味は分からない。
だが、差し出していることだけは分かった。
其れはパンを受け取る。
少女は小さく笑った。
自分の分は半分しか残っていない。
それでも平気そうだった。
其れはパンを見つめる。
「何故」
思わず口にした。
少女はきょとんとする。
「え?」
その音はもう理解できた。其れはパンを持ち上げ、少女を指差した。
「何故、渡す」
拙い人間語。
少女は目を丸くした。
「しゃべれた」
「少し」
単語だけ。まだ繋がらない。
少女は嬉しそうに身を乗り出した。
「やっぱり分かるんだ」
「少し」
「よかった」
よかった。
その言葉も理解できた。
少女は胸を撫で下ろす。
「一人だと不安だから」
不安。新しい言葉。
其れはその意味を掴もうとした。
「私はエデレ」
少女は自分の胸に手を当てた。
「エデレ」
名前。
其れは理解した。名前とは個を示す音。
人間は互いをその音で呼ぶ。
エデレは其れを指差す。
「あなたは?」
その問いはまだ理解できない。
だが、名前を尋ねられていることは分かった。
其れは少し考えた。
竜の真名はある。
だが、それは人間には発音できない。
魔力の共鳴を含む竜語であり、人間の喉では再現できない音だった。
老人ですら、文字を読むことしかできなかった。
だから答えた。
「ない」
エデレは黙った。笑わなかった。驚きもしなかった。
「そっか」
ただ静かに頷いた。
「私もね、名前を呼んでくれる人がいなかったから」
その言葉の意味は半分ほどしか理解できない。
それでも、エデレの声が少し寂しそうだったことだけは分かった。
地下牢に沈黙が落ちる。
遠くで男たちの笑い声が響いていた。
エデレは小さな窓を見上げる。
そこから見える空は、ほんのわずかだった。
「明日ね」
ゆっくりと言う。
「私は売られるの」
其れはその言葉を理解できなかった。
「売る?」
エデレは頷く。
「奴隷だから」
奴隷。
その言葉だけが、老人の本にあった記憶と結びつく。
人を所有する制度。
人を物として扱う仕組み。
其れは静かにエデレを見た。
彼女は笑っていた。
怖がらせまいとするように。
「だから、多分」
エデレは少しだけ目を伏せた。
「私たちは明日でお別れ」
その時、地下へ続く階段から重い足音が響いた。
鍵の束が鳴る。
男の怒鳴り声。
そして鉄格子の前に、他に比べてまともな服装をした男が姿を現した。
「商品を見せろ」
その言葉はまだ理解できない。
だが、その男がエデレへ向ける視線だけは、其れにも理解できた。
品定め。
それは、同族を見る目ではなかった。