其れは、人を識る。   作:暇人なのジャ

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第三話 其れは、人の一端を知る。

石畳の感触が背中にあった。

冷たく、湿っている。

 

それが目を開けた最初の感想だった。

視界は暗い。天井は低く、石造りの壁には苔が張り付き、どこかから水滴の落ちる音が響いている。

 

其れはゆっくりと身体を起こした。

手首にも足首にも拘束はない。牢の中だ。

 

鉄格子が一本、二本、三本。

指先で軽く触れてみる。錆びていた。

 

「なるほど」

 

小さく呟く。

人間は人間を閉じ込めるために、このような場所を作るのか。

面白い。

人を閉じ込めるという発想自体、竜には存在しない。

竜は強者が弱者を従わせ、逃げる者は追う。戦う者は戦う。

それだけだった。

閉じ込めて生かしておく理由が分からない。

鉄格子の外を見回す。地下へ続く階段。

壁に掛けられた松明。古びた木の扉。

そして、奥の牢から聞こえてくる話し声。

男が三人。言葉はまだ理解できない。

だが、魔力を通して感情だけは流れ込んでくる。

興奮。期待。欲望。何かを手に入れた者の感情だった。

 

其れは目を閉じる。

街で感じた気配と同じだ。自分を攫った男たちだろう。

何故攫ったのか。その理由を知るために抵抗しなかった。

 

だが、肝心の理由だけがまだ分からない。

人間語を理解できないというのは、思っていた以上に不便だった。

その時だった。

 

「……起きた?」

 

声。

男たちではない。もっと近い。

其れは振り返った。隣の牢に、一人の少女が座っていた。

白い髪。痩せた身体。

そして、暗闇の中でもはっきりと分かる緋色の瞳。

 

年は十四ほどだろうか。

身体は細く、手首には縄の跡が残っている。

奴隷。

 

老人の本で見たことがあった。

其れは少女を見つめる。

少女も其れを見つめ返していた。

 

「……貴族の人?」

 

意味は分からない。

其れは首を傾げた。

少女も首を傾げる。

 

「え?」

 

短い音。

その音だけが妙に耳に残った。

 

魔力が微かに動く。

言語理解の魔法。

 

一度聞いただけでは意味にならない。

音を集め、繰り返し聞き、魔力で解析する。

時間が必要だ。少女は鉄格子に近づいた。

 

「聞こえてる?」

 

意味は分からない。

 

「大丈夫?」

 

分からない。

 

「怪我してない?」

 

分からない。

 

其れはただ少女を見ていた。

 

少女はしばらく考え込むような顔をして、それからぽつりと言った。

 

「……もしかして、言葉が分からないの?」

 

その問いだけは、少しだけ輪郭を持った。

分からない。

 

その音が何度も繰り返されていたからだろう。

其れはゆっくり頷いた。

 

少女の表情が変わる。

驚き。困惑。そして、少しだけ納得したように笑った。

 

「そっか」

 

その二音ははっきりと聞き取れた。

少女は床に置かれていた木の椀を持ち上げる。

 

中には硬い黒パンが一切れ入っていた。

彼女は少しためらってから、そのパンを半分に割る。

そして鉄格子の隙間から差し出した。

 

「はい」

 

其れは受け取らなかった。

少女はもう一度差し出す。

 

「食べて」

 

意味は分からない。

だが、差し出していることだけは分かった。

其れはパンを受け取る。

 

少女は小さく笑った。

自分の分は半分しか残っていない。

それでも平気そうだった。

其れはパンを見つめる。

 

「何故」

 

思わず口にした。

少女はきょとんとする。

 

「え?」

 

その音はもう理解できた。其れはパンを持ち上げ、少女を指差した。

 

「何故、渡す」

 

拙い人間語。

少女は目を丸くした。

 

「しゃべれた」

 

「少し」

 

単語だけ。まだ繋がらない。

少女は嬉しそうに身を乗り出した。

 

「やっぱり分かるんだ」

 

「少し」

 

「よかった」

 

よかった。

その言葉も理解できた。

少女は胸を撫で下ろす。

 

「一人だと不安だから」

 

不安。新しい言葉。

其れはその意味を掴もうとした。

 

「私はエデレ」

 

少女は自分の胸に手を当てた。

 

「エデレ」

 

名前。

其れは理解した。名前とは個を示す音。

人間は互いをその音で呼ぶ。

エデレは其れを指差す。

 

「あなたは?」

 

その問いはまだ理解できない。

だが、名前を尋ねられていることは分かった。

其れは少し考えた。

 

竜の真名はある。

だが、それは人間には発音できない。

魔力の共鳴を含む竜語であり、人間の喉では再現できない音だった。

老人ですら、文字を読むことしかできなかった。

だから答えた。

 

「ない」

 

エデレは黙った。笑わなかった。驚きもしなかった。

 

「そっか」

 

ただ静かに頷いた。

 

「私もね、名前を呼んでくれる人がいなかったから」

 

その言葉の意味は半分ほどしか理解できない。

それでも、エデレの声が少し寂しそうだったことだけは分かった。

地下牢に沈黙が落ちる。

遠くで男たちの笑い声が響いていた。

エデレは小さな窓を見上げる。

そこから見える空は、ほんのわずかだった。

 

「明日ね」

 

ゆっくりと言う。

 

「私は売られるの」

 

其れはその言葉を理解できなかった。

 

「売る?」

 

エデレは頷く。

 

「奴隷だから」

 

奴隷。

その言葉だけが、老人の本にあった記憶と結びつく。

人を所有する制度。

 

人を物として扱う仕組み。

其れは静かにエデレを見た。

彼女は笑っていた。

怖がらせまいとするように。

 

「だから、多分」

 

エデレは少しだけ目を伏せた。

 

「私たちは明日でお別れ」

 

その時、地下へ続く階段から重い足音が響いた。

鍵の束が鳴る。

男の怒鳴り声。

そして鉄格子の前に、他に比べてまともな服装をした男が姿を現した。

 

「商品を見せろ」

 

その言葉はまだ理解できない。

だが、その男がエデレへ向ける視線だけは、其れにも理解できた。

品定め。

 

それは、同族を見る目ではなかった。

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