其れは、人を識る。   作:暇人なのジャ

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第四話 其れは、感情を知る。

地下牢の夜は静かだった。

時折、水滴が落ちる音だけが石壁に反響する。

エデレは壁にもたれ、膝を抱えて座っていた。

其れは鉄格子の前に座り、彼女を見つめている。

「眠らないの?」

 

その言葉はもう理解できた。

「眠らない」

「人間じゃないみたい」

 

エデレは苦笑する。

その言葉の意味は理解できなかったが、自分が人間ではないことは事実だった。

「人間ではない」

 

正直に答える。エデレは首を傾げた。

「……冗談?」

「違う」

「ふふ」

 

エデレは小さく笑った。

「変な人」

 

変な人。その言葉は理解できた。

どうやら褒め言葉ではないらしい。

「変?」

「うん」

「どこが」

「全部」

 

即答だった。其れは少し考える。

老人にも似たような顔をされたことがある。

どうやら自分は人間としては奇妙な存在らしい。

「人間は皆、パンを懐に入れない」

 

エデレは吹き出した。

 

「あれ、本当に食べ方が分からなかったの?」

「初めて見た」

「そうなんだ」

 

エデレは驚いたように目を丸くした。

 

「じゃあ、パンも知らないの?」

「知らない」

「お金は?」

「知らない」

「家は?」

「知っている」

「服は?」

「知っている」

「人間は?」

 

其れは少し黙った。

 

「知らない」

その一言に、エデレは笑うのをやめた。

 

「……人間を知るために来たの?」

「そう」

「どうして?」

「分からないから」

エデレはその答えを聞いて、しばらく黙っていた。

 

「変」

もう一度そう言う。

今度は優しい声だった。

 

「エデレ」

 

其れは彼女の名を呼ぶ。

エデレは嬉しそうに顔を上げた。

 

「うん」

「人間は、何故パンを分ける」

エデレは少し考える。

 

「お腹が空いてると思ったから」

「自分も空いていた」

「そうだね」

「なら何故」

「困ってる人を見たら助けたいから」

「何故」

「え?」

「何故助ける」

 

エデレは言葉に詰まった。

当たり前すぎて考えたことがなかった。

 

「……だって」

小さく息を吐く。

「私も助けてもらいたいから」

 

その言葉に、其れは静かに目を閉じた。

助けてもらいたい。だから助ける。理解できない。

だが、少しだけ分かる気がした。老人もそうだった。

何も求めず、茶を淹れ、畑を耕し、笑っていた。

 

「人間は不思議」

「そうかな」

「自分が減る」

「うん」

「それでも与える」

エデレは困ったように笑う。

「そういう人ばかりじゃないよ」

 

その笑顔は少し寂しかった。

「私をここに連れてきた人たちは違う」

「村の人たちも違った」

「でも」

 

エデレは小さく窓を見上げる。

「優しい人もいるから」

 

其れはその横顔を見つめた。

彼女は痩せている。牢に入れられている。

明日には売られると言った。それでも人間を信じている。

何故だろう。

 

「エデレ」

「うん?」

「怖くない?」

その言葉は少しだけ不自然だった。エデレは驚いたように目を見開く。

 

「怖いよ」

すぐに答えた。

「すごく怖い」

彼女の手は小さく震えていた。

「じゃあ何故笑う」

 

エデレは自分でも不思議そうに笑う。

「笑わないと泣いちゃうから」

泣く。笑う。人間は感情を隠すのか。

 

「泣けばいい」

「泣いたら止まらなくなっちゃう」

 

その言葉は、地下牢の静けさに溶けた。

しばらく誰も話さなかった。

やがてエデレがぽつりと口を開く。

 

「あなたは怖くないの?」

「怖い?」

「死ぬの」

其れは首を傾げた。

 

死。

 

それは遠いものだった。仲間は死に、竜の時代は終わった。

だが、自分自身の死を考えたことはない。

 

「分からない」

「そっか」

エデレは苦笑する。

「本当に変な人」

 

夜が更けていく。

エデレは壁にもたれたまま眠ってしまった。

其れは眠らずに窓を見上げる。狭い窓の向こうに、一つだけ星が見えた。

小さな光。何千年も前から変わらない光。

 

「星」

思わず呟く。

その光だけは、竜の時代から変わらずそこにあった。

翌朝、重い扉が開く音で目が覚める。

階段を下りてくる足音。昨日の男たちだった。

 

奴隷商人が鉄格子の前で立ち止まる。

鍵が回り、扉が開く。

 

男はエデレの腕を乱暴に掴んだ。

エデレは小さく息を呑む。

 

「来い」

 

その言葉は理解できない。

だが、連れて行かれることだけは分かった。

エデレは其れを見る。少しだけ笑った。

 

「短い間だったけど」

 

その笑顔は昨日よりずっと弱かった。

 

「話せてよかった」

 

其れは立ち上がる。

胸の奥で、何かが軋んだ。人間は分からない。

 

それでも、一つだけ分かることがあった。

エデレは、このまま連れて行かれたくないと思っている。

その感情だけは、はっきりと伝わってきた。

男はエデレを牢の外へ引きずり出す。

 

その瞬間。

其れは鉄格子に手をかけた。

 

錆びた鉄が、小さく軋んだ。

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