地下牢の夜は静かだった。
時折、水滴が落ちる音だけが石壁に反響する。
エデレは壁にもたれ、膝を抱えて座っていた。
其れは鉄格子の前に座り、彼女を見つめている。
「眠らないの?」
その言葉はもう理解できた。
「眠らない」
「人間じゃないみたい」
エデレは苦笑する。
その言葉の意味は理解できなかったが、自分が人間ではないことは事実だった。
「人間ではない」
正直に答える。エデレは首を傾げた。
「……冗談?」
「違う」
「ふふ」
エデレは小さく笑った。
「変な人」
変な人。その言葉は理解できた。
どうやら褒め言葉ではないらしい。
「変?」
「うん」
「どこが」
「全部」
即答だった。其れは少し考える。
老人にも似たような顔をされたことがある。
どうやら自分は人間としては奇妙な存在らしい。
「人間は皆、パンを懐に入れない」
エデレは吹き出した。
「あれ、本当に食べ方が分からなかったの?」
「初めて見た」
「そうなんだ」
エデレは驚いたように目を丸くした。
「じゃあ、パンも知らないの?」
「知らない」
「お金は?」
「知らない」
「家は?」
「知っている」
「服は?」
「知っている」
「人間は?」
其れは少し黙った。
「知らない」
その一言に、エデレは笑うのをやめた。
「……人間を知るために来たの?」
「そう」
「どうして?」
「分からないから」
エデレはその答えを聞いて、しばらく黙っていた。
「変」
もう一度そう言う。
今度は優しい声だった。
「エデレ」
其れは彼女の名を呼ぶ。
エデレは嬉しそうに顔を上げた。
「うん」
「人間は、何故パンを分ける」
エデレは少し考える。
「お腹が空いてると思ったから」
「自分も空いていた」
「そうだね」
「なら何故」
「困ってる人を見たら助けたいから」
「何故」
「え?」
「何故助ける」
エデレは言葉に詰まった。
当たり前すぎて考えたことがなかった。
「……だって」
小さく息を吐く。
「私も助けてもらいたいから」
その言葉に、其れは静かに目を閉じた。
助けてもらいたい。だから助ける。理解できない。
だが、少しだけ分かる気がした。老人もそうだった。
何も求めず、茶を淹れ、畑を耕し、笑っていた。
「人間は不思議」
「そうかな」
「自分が減る」
「うん」
「それでも与える」
エデレは困ったように笑う。
「そういう人ばかりじゃないよ」
その笑顔は少し寂しかった。
「私をここに連れてきた人たちは違う」
「村の人たちも違った」
「でも」
エデレは小さく窓を見上げる。
「優しい人もいるから」
其れはその横顔を見つめた。
彼女は痩せている。牢に入れられている。
明日には売られると言った。それでも人間を信じている。
何故だろう。
「エデレ」
「うん?」
「怖くない?」
その言葉は少しだけ不自然だった。エデレは驚いたように目を見開く。
「怖いよ」
すぐに答えた。
「すごく怖い」
彼女の手は小さく震えていた。
「じゃあ何故笑う」
エデレは自分でも不思議そうに笑う。
「笑わないと泣いちゃうから」
泣く。笑う。人間は感情を隠すのか。
「泣けばいい」
「泣いたら止まらなくなっちゃう」
その言葉は、地下牢の静けさに溶けた。
しばらく誰も話さなかった。
やがてエデレがぽつりと口を開く。
「あなたは怖くないの?」
「怖い?」
「死ぬの」
其れは首を傾げた。
死。
それは遠いものだった。仲間は死に、竜の時代は終わった。
だが、自分自身の死を考えたことはない。
「分からない」
「そっか」
エデレは苦笑する。
「本当に変な人」
夜が更けていく。
エデレは壁にもたれたまま眠ってしまった。
其れは眠らずに窓を見上げる。狭い窓の向こうに、一つだけ星が見えた。
小さな光。何千年も前から変わらない光。
「星」
思わず呟く。
その光だけは、竜の時代から変わらずそこにあった。
翌朝、重い扉が開く音で目が覚める。
階段を下りてくる足音。昨日の男たちだった。
奴隷商人が鉄格子の前で立ち止まる。
鍵が回り、扉が開く。
男はエデレの腕を乱暴に掴んだ。
エデレは小さく息を呑む。
「来い」
その言葉は理解できない。
だが、連れて行かれることだけは分かった。
エデレは其れを見る。少しだけ笑った。
「短い間だったけど」
その笑顔は昨日よりずっと弱かった。
「話せてよかった」
其れは立ち上がる。
胸の奥で、何かが軋んだ。人間は分からない。
それでも、一つだけ分かることがあった。
エデレは、このまま連れて行かれたくないと思っている。
その感情だけは、はっきりと伝わってきた。
男はエデレを牢の外へ引きずり出す。
その瞬間。
其れは鉄格子に手をかけた。
錆びた鉄が、小さく軋んだ。