其れは、人を識る。   作:暇人なのジャ

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第五話 其れは、星となる。

錆びた鉄格子が軋む。

奴隷商人は振り返った。其れは鉄格子を掴んだまま、静かに男を見つめていた。

男は何か怒鳴る。

 

言葉は分からない。だが、その声に宿る感情は理解できた。

苛立ち。威圧。

そして、自分より弱い相手を従わせることへの慣れ。

 

「離せ!」

 

男がそう叫んだのだと、魔法が告げる。

其れは首を傾げた。

 

「エデレは行きたくない」

 

男はさらに怒鳴る。

 

「商品如きが!」

 

その言葉だけが、はっきりと理解できた。

 

商品。

 

其れはゆっくりとエデレを見る。

エデレは俯いていた、震えている。

 

昨日、彼女は言った。『怖い』と。

笑わないと泣いてしまう、と。

 

「人間は」

其れは小さく呟く。

「人間を売るのか」

 

男は舌打ちすると、腰の剣を抜いた。

周囲の男たちも牢へ集まってくる。

三人。全員が武器を持っていた。

 

「貴族様だろうが何だろうが関係ねえ」

男が笑う。

「ここじゃ俺たちがルールだ」

 

其れはその言葉を理解した。

「強い」その概念は知っている。

 

竜の時代から、何度も見てきた。

だが、目の前の男は其れにとってあまりにも弱かった。

「そうか」

 

其れは鉄格子を軽く引いた。

次の瞬間。

鈍い音が地下牢に響く。鉄格子が、根元から外れた。

まるで腐った木の枝でも折るように。

男たちは動きを止めた。誰も状況を理解できない。

其れは鉄格子を横へ置く。石床が震えた。

 

「扉とは」

其れは感心したように呟く。

「外すものだったのか」

 

エデレは目を見開いた。

「え」

その一音だけが漏れる。

男の一人が叫びながら斬りかかってきた。剣が振り下ろされる。

 

其れは一歩だけ身体をずらした。剣は空を切る。

そのまま男の手首を掴む。

 

軽く。

本当に軽く。

骨が砕ける音がした。

 

男が悲鳴を上げる。

其れは驚いたように手を離した。

 

「脆い」

 

その言葉に、男たちの顔色が変わる。

逃げようとした。だが遅い。

其れの瞳が、ゆっくりと琥珀色へ染まった。

黒かった瞳孔が縦に割れる。空気が変わった。

地下牢全体の魔力が、其れへと集まり始める。

 

白い髪の内側。青と紫の色彩が淡く発光した。

夜空のような色が揺れる。

男たちは本能で理解した。目の前にいるのは人間ではない。

化け物だ。

 

「星よ」

 

其れは静かに右手を掲げる。

その指先に、小さな光が生まれた。

豆粒ほどの光。

だが、それだけで地下牢の空気が震える。

 

圧縮された魔力。極小の天体。

男たちは悲鳴を上げた。

 

其れは光を見つめる。

もし放てば、この地下牢どころか、この街の半分は消える。

老人は言った。

『人として生きてみなさい』と。

 

人として。

其れは光を握り潰した。星は音もなく消える。

 

「……逃げろ」

 

男たちは一瞬固まった。次の瞬間、一斉に階段へ駆け出す。

武器も仲間も捨てて。地下牢から悲鳴が遠ざかっていく。

静寂が戻った。エデレはその場に座り込んでいた。

震えている。

 

其れは牢の外へ出て、彼女の前に立つ。

「エデレ」

 

少女は顔を上げた。

緋色の瞳が揺れている。

恐怖。困惑。驚き。

その全てが混ざっていた。

 

「あなた」

小さく呟く。

「何者なの」

 

其れは答えなかった。

答えられなかった。

竜。

そう言っても伝わらない。

人間ではない。

それだけは伝わるだろう。

 

「怖い?」

其れは尋ねた。

昨日、教わった言葉だった。

 

エデレは其れを見つめた。

しばらく黙って。

ゆっくりと首を横に振る。

 

「少し」

正直な答えだった。

「でも」

 

彼女は小さく笑う。

「助けてくれた」

 

その笑顔を見た瞬間。

其れの瞳は元の黒へ戻った。

髪の光も消える。

 

「ありがとう」

 

その言葉だけは、もう理解できた。

地下牢を出る。階段を上ると、地上は朝だった。

奴隷商人たちは誰もいない。扉は開き放たれ、荷車だけが残されていた。

エデレは眩しそうに空を見上げる。

 

「外」

ぽつりと呟く。

「久しぶり」

 

其れは空を見る。

青い。星は見えない。

 

「どこへ行く」

エデレは少し困ったように笑った。

「分からない」

「帰る場所は?」

 

エデレは首を横に振る。

「ない」

 

その言葉に、其れは静かに頷いた。

 

「同じ」

 

エデレは其れを見た。

 

「あなた、本当に名前がないんだね」

「ない」

「不便じゃない?」

「不便」

 

昨日より言葉が増えている。

エデレは少し嬉しそうだった。

 

「じゃあ」

 

彼女は少し考え込む。空を見上げる。

白い髪が風に揺れた。

 

「名前、つけてもいい?」

 

其れは首を傾げる。

名前。人間は名前を与える。個を示す音。

竜にも真名はある。

だが、それは人間には発音できない。

人間の喉では届かない音だった。

「いい」

エデレは少し照れたように笑う。

「昨日ね」

「窓から星を見てたでしょう?」

「星」

「うん」

 

彼女は指先で空を指した。

 

「あなた、星を見る時だけ、すごく優しい顔をしてた」

 

其れは自分の表情を知らない。

 

「だから」

 

エデレは真っ直ぐ其れを見つめた。

 

「ノヴァ」

 

「ノヴァ?」

「新しい星」

「新しく始まる人」

「そんな意味」

 

其れはその音を繰り返した。

 

「ノヴァ」

 

人間の言葉。短い音。発音できる。

エデレは嬉しそうに笑う。

 

「そう、今日からあなたはノヴァ」

 

ノヴァ。

その名を口にした瞬間。

何かが変わった気がした。竜の真名はある。だが、それは竜としての名。

この音は違う。人間としての名。

老人は言った。

人として生きてみなさい、と。

 

「ノヴァ」

 

もう一度その名を呼ぶ。

エデレが頷く。

 

「似合うよ」

 

ノヴァは空を見上げた。

昼の空に星はない。

 

それでも。

どこかで確かに輝いている。

 

「エデレ」

「なに?」

「行こう」

「どこへ?」

「人間を知る旅へ」

 

エデレは少し驚いて。それから笑った。

 

「うん」

 

二人は歩き出す。

 

名もなかった竜と。

 

自由を失っていた少女。

 

その旅は、まだ始まったばかりだった。




次回は少し後になると思います。
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