錆びた鉄格子が軋む。
奴隷商人は振り返った。其れは鉄格子を掴んだまま、静かに男を見つめていた。
男は何か怒鳴る。
言葉は分からない。だが、その声に宿る感情は理解できた。
苛立ち。威圧。
そして、自分より弱い相手を従わせることへの慣れ。
「離せ!」
男がそう叫んだのだと、魔法が告げる。
其れは首を傾げた。
「エデレは行きたくない」
男はさらに怒鳴る。
「商品如きが!」
その言葉だけが、はっきりと理解できた。
商品。
其れはゆっくりとエデレを見る。
エデレは俯いていた、震えている。
昨日、彼女は言った。『怖い』と。
笑わないと泣いてしまう、と。
「人間は」
其れは小さく呟く。
「人間を売るのか」
男は舌打ちすると、腰の剣を抜いた。
周囲の男たちも牢へ集まってくる。
三人。全員が武器を持っていた。
「貴族様だろうが何だろうが関係ねえ」
男が笑う。
「ここじゃ俺たちがルールだ」
其れはその言葉を理解した。
「強い」その概念は知っている。
竜の時代から、何度も見てきた。
だが、目の前の男は其れにとってあまりにも弱かった。
「そうか」
其れは鉄格子を軽く引いた。
次の瞬間。
鈍い音が地下牢に響く。鉄格子が、根元から外れた。
まるで腐った木の枝でも折るように。
男たちは動きを止めた。誰も状況を理解できない。
其れは鉄格子を横へ置く。石床が震えた。
「扉とは」
其れは感心したように呟く。
「外すものだったのか」
エデレは目を見開いた。
「え」
その一音だけが漏れる。
男の一人が叫びながら斬りかかってきた。剣が振り下ろされる。
其れは一歩だけ身体をずらした。剣は空を切る。
そのまま男の手首を掴む。
軽く。
本当に軽く。
骨が砕ける音がした。
男が悲鳴を上げる。
其れは驚いたように手を離した。
「脆い」
その言葉に、男たちの顔色が変わる。
逃げようとした。だが遅い。
其れの瞳が、ゆっくりと琥珀色へ染まった。
黒かった瞳孔が縦に割れる。空気が変わった。
地下牢全体の魔力が、其れへと集まり始める。
白い髪の内側。青と紫の色彩が淡く発光した。
夜空のような色が揺れる。
男たちは本能で理解した。目の前にいるのは人間ではない。
化け物だ。
「星よ」
其れは静かに右手を掲げる。
その指先に、小さな光が生まれた。
豆粒ほどの光。
だが、それだけで地下牢の空気が震える。
圧縮された魔力。極小の天体。
男たちは悲鳴を上げた。
其れは光を見つめる。
もし放てば、この地下牢どころか、この街の半分は消える。
老人は言った。
『人として生きてみなさい』と。
人として。
其れは光を握り潰した。星は音もなく消える。
「……逃げろ」
男たちは一瞬固まった。次の瞬間、一斉に階段へ駆け出す。
武器も仲間も捨てて。地下牢から悲鳴が遠ざかっていく。
静寂が戻った。エデレはその場に座り込んでいた。
震えている。
其れは牢の外へ出て、彼女の前に立つ。
「エデレ」
少女は顔を上げた。
緋色の瞳が揺れている。
恐怖。困惑。驚き。
その全てが混ざっていた。
「あなた」
小さく呟く。
「何者なの」
其れは答えなかった。
答えられなかった。
竜。
そう言っても伝わらない。
人間ではない。
それだけは伝わるだろう。
「怖い?」
其れは尋ねた。
昨日、教わった言葉だった。
エデレは其れを見つめた。
しばらく黙って。
ゆっくりと首を横に振る。
「少し」
正直な答えだった。
「でも」
彼女は小さく笑う。
「助けてくれた」
その笑顔を見た瞬間。
其れの瞳は元の黒へ戻った。
髪の光も消える。
「ありがとう」
その言葉だけは、もう理解できた。
地下牢を出る。階段を上ると、地上は朝だった。
奴隷商人たちは誰もいない。扉は開き放たれ、荷車だけが残されていた。
エデレは眩しそうに空を見上げる。
「外」
ぽつりと呟く。
「久しぶり」
其れは空を見る。
青い。星は見えない。
「どこへ行く」
エデレは少し困ったように笑った。
「分からない」
「帰る場所は?」
エデレは首を横に振る。
「ない」
その言葉に、其れは静かに頷いた。
「同じ」
エデレは其れを見た。
「あなた、本当に名前がないんだね」
「ない」
「不便じゃない?」
「不便」
昨日より言葉が増えている。
エデレは少し嬉しそうだった。
「じゃあ」
彼女は少し考え込む。空を見上げる。
白い髪が風に揺れた。
「名前、つけてもいい?」
其れは首を傾げる。
名前。人間は名前を与える。個を示す音。
竜にも真名はある。
だが、それは人間には発音できない。
人間の喉では届かない音だった。
「いい」
エデレは少し照れたように笑う。
「昨日ね」
「窓から星を見てたでしょう?」
「星」
「うん」
彼女は指先で空を指した。
「あなた、星を見る時だけ、すごく優しい顔をしてた」
其れは自分の表情を知らない。
「だから」
エデレは真っ直ぐ其れを見つめた。
「ノヴァ」
「ノヴァ?」
「新しい星」
「新しく始まる人」
「そんな意味」
其れはその音を繰り返した。
「ノヴァ」
人間の言葉。短い音。発音できる。
エデレは嬉しそうに笑う。
「そう、今日からあなたはノヴァ」
ノヴァ。
その名を口にした瞬間。
何かが変わった気がした。竜の真名はある。だが、それは竜としての名。
この音は違う。人間としての名。
老人は言った。
人として生きてみなさい、と。
「ノヴァ」
もう一度その名を呼ぶ。
エデレが頷く。
「似合うよ」
ノヴァは空を見上げた。
昼の空に星はない。
それでも。
どこかで確かに輝いている。
「エデレ」
「なに?」
「行こう」
「どこへ?」
「人間を知る旅へ」
エデレは少し驚いて。それから笑った。
「うん」
二人は歩き出す。
名もなかった竜と。
自由を失っていた少女。
その旅は、まだ始まったばかりだった。
次回は少し後になると思います。