夜の街には、昼間とは違う匂いがあった。
昼間の市場を歩いていた頃には、果物や香辛料、焼いたパンの香りが風に乗っていた。人々の声も明るく、店先には色とりどりの商品が並び、子供たちが走り回っていた。
だが、陽が落ちてからしばらく経った今、その喧騒はすっかり姿を変えている。
通りを照らすのは、家々から漏れる僅かな明かりと、街灯に灯された橙色の火だけだった。
人の姿も少ない。
昼間なら大勢が行き交っていた大通りも、今では時折、仕事帰りと思しき人間が通り過ぎていく程度だ。
ノヴァはその隣を歩く少女へ視線を向けた。
エデレは俯きながら歩いている。
その歩幅は、先程までと比べて明らかに小さかった。
「エデレ」
呼びかけると、少女が顔を上げる。
「……なに?」
「歩くのが遅くなっている」
「……ごめんなさい」
「謝る必要はない。何故遅くなった?」
エデレは少し迷ってから、自分の腹に手を当てた。
「……お腹、空いたの」
「腹が?」
ノヴァは不思議そうに首を傾げた。
「うん」
「それで歩けなくなるのか?」
「そこまでじゃないけど……今日は、ほとんど何も食べてないから」
そう言われて、ノヴァはエデレの顔を改めて見た。
白い髪に緋色の瞳。
その顔立ちは年齢に似合わぬほど整っているが、頬は痩せ、身体も細い。
吹けば飛んでしまいそうだと、以前にも思った。
しかし、それが「食べていない」という事実と結びついているとは、ノヴァは考えていなかった。
人間は食事を必要とする。
それは知識として知っている。
だが、食事をしなければ腹が減り、腹が減れば身体が弱る。
そんな当たり前のことすら、ノヴァにとってはまだ知識の外側にある。
竜にとって、食事とは必ずしも毎日の営みではなかった。
長い眠りにつくこともある。何日も、何十日も何も口にしないこともある。
そもそも、ノヴァ自身は人間の姿を取ってからも、身体を維持するためだけならばそれほど多くの食事を必要としていなかった。
だからこそ。
「なら、食べればいい」
「うん……だから、食べられるところを探してるんだけど……」
エデレの声が少しだけ弱くなる。
ノヴァは周囲を見渡した。
食事を提供している店がある。それ自体は昼間の市場で何度も見ている。
しかし、今はほとんどの店が閉まっていた。
「店がないな」
「もう夜だからね」
「人間は夜になると食事をしないのか?」
「する人もいるよ。でも、普通のお店は閉まっちゃうから……」
エデレが言葉を濁した。
その時だった。通りの先に、一軒だけ明かりの灯っている建物が見えた。
扉の隙間から漏れる光。
窓から見える人影。そして、風に乗って流れてくる香ばしい匂い。
ノヴァはそちらへ顔を向けた。
「エデレ」
「うん」
「人間がいる」
「……うん」
「食事の匂いもする」
エデレは少しだけ表情を明るくした。
「酒場……かな」
「酒場?」
「お酒を飲んだり、ご飯を食べたりするところ」
「なら、そこへ行こう」
ノヴァは迷うことなく歩き出した。
エデレもその後を追う。
二人が扉を開けると、夜の街とはまるで別の世界が広がっていた。
「うるさい」
ノヴァが率直に呟いた。
酒場には十数人ほどの人間がいた。
皆、酒を飲んでいる。
誰かが大声で笑い、誰かが机を叩きながら何かを叫んでいる。
奥では二人の男が肩を組んで歌っていた。
その隣では、酔った男が眠りこけている。
料理の匂いと酒の匂い。そして煙草に似た煙の匂い。
様々なものが混ざり合い、独特の空気を作っていた。
ノヴァは興味深そうに店内を見回した。
昼間とは違う。
同じ人間でも、時間が変わるだけでこれほど行動が変わるのか。
笑っている者。怒鳴っている者。歌っている者。眠っている者。酒を飲んでいる者。
これもまた、人間という生き物の営みなのだろう。
「こっち」
エデレがノヴァの袖を引いた。
「座ろう」
二人は空いている席に腰を下ろした。
しばらくすると、カウンターの向こうにいた男がこちらへ目を向けた。
いかつい男だった。
大きな身体。
日に焼けた肌。
短く刈った髪。
そして左目を覆う黒い眼帯。
顔にはいくつもの傷跡が残っている。
「注文は?」
低い声が響く。
ノヴァは男を見る。
言葉の意味は、まだ完全には理解できない。
だが、ここ数日で覚えた単語はいくつかある。
注文。
食事。
金。
そうした言葉を頭の中で繋ぎ合わせる。
「食事を」
ノヴァは答えた。
「二人分」
「……ああ?」
主人が片眉を上げた。
「何にする」
ノヴァは黙った。
何にする。
それはつまり、何を食べたいかということだろう。
だが、酒場で何が食べられるのかをノヴァは知らない。
「人間が食べるものを」
「…………」
主人が黙った。
近くの席から、誰かの笑い声が聞こえた。
「変な客だな」
そんな声がする。
ノヴァは気にしなかった。
人間が何を食べるのか知ることも、旅の目的の一つだ。
「この店で最も一般的な食事を」
「……はいはい」
主人は面倒そうに厨房へ向き直った。
「じゃあ適当に出すぞ」
「頼む」
そこで、エデレが小さく声を上げた。
「待って」
ノヴァが振り返る。
「どうした?」
エデレは困ったような顔をしていた。
「……お金」
「金?」
「持ってる?」
「なんだそれは」
ノヴァは即答した。
エデレの表情が固まった。
「……え?」
「金が必要なのか?」
「……食べるなら、必要だよ」
主人は呆れたような顔をした。
「そりゃそうだ」
「何故?」
「何故って……飯を食わせてもらうんだ。代わりに払う。それだけだろ」
「払う?」
「金を渡すんだよ」
ノヴァは黙った。
「……金とは、食事を得るために必要なものなのか?」
「食事だけじゃないよ。服とか、泊まるところとか……いろんなものを買う時に使うの」
「買う」
聞き慣れない言葉を、ノヴァは口の中で転がした。
「つまり、食べ物を直接渡してもらうのではなく、別の何かを渡して食べ物を得る」
「うん。だいたいそんな感じ」
「何故、そのような仕組みを?」
「えっと……」
エデレは言葉に詰まった。
彼女自身、金銭について詳しいわけではない。
奴隷として売られていた自分が、金を自由に扱う機会などほとんどなかったからだ。
「……そういうもの、だから」
「そうか」
ノヴァは素直に頷いた。
仕組みとして理解するには、まだ情報が足りない。
だが、人間がそうしているのならば、まずは覚えておけばいい。
ノヴァは、店内の客たちへ視線を向けた。
酒を飲んでいる男が、何か小さな金属片をテーブルの上へ置いている。
別の客も同じようなものを取り出し、主人へ渡していた。
「エデレ」
「なに?」
「あれは何だ?」
ノヴァが指差す。
エデレは視線を追い、答えた。
「……硬貨だよ」
「硬貨」
ノヴァはその言葉を繰り返した。
「これが、金なのか?」
「うん。お金として使うもの」
「なるほど」
ノヴァは興味深そうに硬貨を見つめた。
金というものは、もっと大きな何かだと思っていた。
だが、実際には掌に収まるほど小さい。
人間はこんな小さなものを使って、食事を得たり、服を買ったり、寝る場所を借りたりするらしい。
「では、この硬貨はどこで手に入れる?」
「働いたり……誰かからもらったり……」
「働く?」
「うん。人の手伝いをすると、その代わりにお金をもらえるの」
「なるほど」
ノヴァはまた頷いた。
食事を得るために働く。
働いて硬貨を得る。
硬貨を渡して食事を得る。
人間というものは、随分と遠回りな仕組みを作っているらしい。
しかし、それはそれで興味深かった。
「ならば、我々も――」
そこまで言って、ノヴァはふと考えた。
我々。
自分と、エデレ。
二人で働けば、二人分の食事を得ることができるのだろうか。
ならば、まずは何をすればいい?
ノヴァは隣にいる少女へ問いかけようとして――。
「エデレ」
返事がない。
「……エデレ?」
もう一度呼んだ。
それでも返事はなかった。
ノヴァは首を傾げる。
ほんの少し前まで、確かに隣にいた。
だから、いるはずだった。
ゆっくりと視線を横へ向ける。そこには、誰もいなかった。
椅子だけが残っている。
「…………」
ノヴァの思考が、一瞬だけ止まった。
いない。エデレが、いない。
それを理解した瞬間、先ほどまで頭を占めていた硬貨のことなど、どうでもよくなった。
「エデレは?」
誰に聞くでもなく呟く。
店内を見回す。
いない。
入口を見る。
いない。
そしてようやく、店の外へ続く扉へ視線が向いた。
「……あの少女なら、外だ」
低い声がした。
店主だった。
ノヴァはそちらを見る。
「外?」
「少し話をするために、連れていった奴がいる」
「連れていった?」
その言葉の意味を、ノヴァは理解するのに少し時間がかかった。
人間同士ならば、食事をするために席を立つこともある。
用事があれば店の外へ出ることもある。
だから、それだけなら不思議ではない。
しかし。
「なぜ?」
ノヴァは立ち上がった。
「エデレは、どこへ行った?」
「まあ待て」
店主が立ちふさがる。
「待つ理由がない」
「そう急くな。まず話を――」
「エデレを探す」
その声に、店内の空気が僅かに変わった。
ノヴァ自身は、それに気づいていない。
胸の奥が妙に熱い。
息が少しだけ浅くなっている。
なぜなのかは分からない。
ただ、一つだけ分かることがある。
エデレがいない。
そして、自分はそれを望んでいない。
「退いてくれ」
店主は動かなかった。
ノヴァもまた、動かなかった。
ただ、その瞳の奥で。
これまで名前を持たなかった感情が、ゆっくりと目を覚まし始めていた。