「退いてくれ」
ノヴァの声は、静かだった。
怒鳴ったわけではない。
剣を抜いたわけでもない。
ただ、いつものように言葉を発しただけだった。
それなのに、店内の空気は明らかに変わっていた。
先ほどまで酒を飲み、笑い声を上げていた客たちが、一斉にノヴァへ視線を向けている。
店主もまた、ノヴァから目を離さない。
「……お前さん」
低い声だった。
「何者だ?」
「ノヴァだ」
「そういうことを聞いてるんじゃねえ」
「?」
ノヴァは首を傾げた。
質問の意味が分からない。
今、重要なのは自分が何者なのかではない。
エデレがどこへ行ったのか。
それだけだった。
「エデレを連れていった人間はどこにいる?」
「だから、待てと言ってるだろ」
「待てない」
即答だった。
自分でも、なぜそう答えたのか分からなかった。
待ってもいいはずだ。
エデレが自分から外へ出たのなら、戻ってくるかもしれない。
少し話をしているだけなら、そのうち戻ってくる。
人間とは、そういうものなのだろう。
そう考えることもできた。
だが。
胸の奥にある何かが、それを許さなかった。
「外へ行く」
ノヴァが一歩踏み出す。
店主がそれを遮った。
「待て」
「退いてくれ」
「話を聞けって言ってるんだ」
「エデレを探す方が先だ」
「……あの嬢ちゃんをどうするつもりだ?」
「どうする?」
ノヴァは、本気で意味が分からなかった。
「どうもしない」
「奴隷なんだろ」
その言葉に、ノヴァの眉が僅かに動いた。
奴隷。
その言葉だけは知っている。
エデレ自身がそうだった。
けれど、それが今の自分たちとどう関係するのかまでは分からない。
「エデレはエデレだ」
「……何?」
「奴隷というのは、エデレの名前ではない」
店内のどこかから、小さく息を呑む音がした。
ノヴァは気づかない。
彼にとって、それは当たり前のことだった。
名前とは、その者を呼ぶためのものだ。
エデレはエデレ。
それ以外に何があるというのか。
「だから、探す」
もう一度、ノヴァは歩き出した。
店主の横を通り過ぎようとする。
その腕を、店主が掴んだ。
「待てって言ってるだろ」
「……離してくれ」
「まず話をしろ」
「エデレがいない」
「だから話を――」
「エデレがいない!」
初めてだった。
ノヴァが声を荒らげたのは。
自分でも驚いた。
店主も、周囲の客たちも黙り込んだ。
ノヴァ自身もまた、何故自分がそんな声を出したのか分からなかった。
ただ、胸の奥が熱い。
さっきよりも熱い。
身体の内側を何かが這い回っているような、不快な感覚。
息が重い。視界が狭くなる。
そして何より。エデレがいない。
その事実だけが、頭の中を埋め尽くしていた。
「……どこへ行った?」
誰に聞くでもなく呟く。
「外だ」
店主が答えた。
「あの青年が連れていった」
「青年?」
「ああ。冒険者だ。お前さんたちのことを気にしてた」
「何故?」
「……奴隷を連れてるように見えたからだろう」
「違う」
ノヴァは即座に否定した。
「エデレはエデレだ」
また同じ言葉だった。
それ以上の説明はできなかった。
自分でも、それ以外に何を言えばいいのか分からない。
「とにかく、外へ行く」
今度こそ、店主の腕を振り払った。
力を込めたつもりはない。
それでも、店主の身体が僅かによろめいた。
ノヴァは気に留めず、扉へ向かう。
その背中へ、誰かが声を掛けた。
「おい」
振り返る。
先ほどまで黙っていた客の一人だった。
「……嬢ちゃんに何かしたら、ただじゃ済まさねえぞ」
ノヴァは男を見つめた。
「何故?」
「何故って……」
男が言葉に詰まる。
ノヴァには本当に分からなかった。
エデレに何かをする理由などない。
一緒に旅をしている。
食事を探している。
それだけだ。
それなのに、どうして誰も自分を信用しないのだろう。
「私は、エデレを探すだけだ」
そう言って、扉を開けた。
夜の街へ出る。
冷たい風が頬を撫でた。
店内の喧騒が遠ざかる。
ノヴァは立ち止まり、辺りを見回した。
エデレの姿はない。
右を見る。
いない。
左を見る。
いない。
道の先を見る。
そこにもいない。
「……エデレ」
呼ぶ。
返事はない。
もう一度。
「エデレ」
やはり、返事はなかった。
胸の奥が、また熱くなる。
ノヴァは知らない。
この感情の名前を。
ただ、足は自然と動いていた。
エデレがいる場所へ。
自分が知らないうちに連れていかれた少女を、取り戻すために。
それが何を意味するのかも知らないまま。
ノヴァは夜の街を走り出した。