其れは、人を識る。   作:暇人なのジャ

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第七話 其れは、怒りを知る。

「退いてくれ」

 

ノヴァの声は、静かだった。

 

怒鳴ったわけではない。

剣を抜いたわけでもない。

 

ただ、いつものように言葉を発しただけだった。

それなのに、店内の空気は明らかに変わっていた。

先ほどまで酒を飲み、笑い声を上げていた客たちが、一斉にノヴァへ視線を向けている。

店主もまた、ノヴァから目を離さない。

 

「……お前さん」

低い声だった。

「何者だ?」

 

「ノヴァだ」

「そういうことを聞いてるんじゃねえ」

「?」

ノヴァは首を傾げた。

 

質問の意味が分からない。

今、重要なのは自分が何者なのかではない。

エデレがどこへ行ったのか。

それだけだった。

 

「エデレを連れていった人間はどこにいる?」

「だから、待てと言ってるだろ」

「待てない」

 

即答だった。

自分でも、なぜそう答えたのか分からなかった。

待ってもいいはずだ。

エデレが自分から外へ出たのなら、戻ってくるかもしれない。

 

少し話をしているだけなら、そのうち戻ってくる。

人間とは、そういうものなのだろう。

そう考えることもできた。

 

だが。

胸の奥にある何かが、それを許さなかった。

 

「外へ行く」

ノヴァが一歩踏み出す。

店主がそれを遮った。

 

「待て」

「退いてくれ」

「話を聞けって言ってるんだ」

「エデレを探す方が先だ」

 

「……あの嬢ちゃんをどうするつもりだ?」

「どうする?」

ノヴァは、本気で意味が分からなかった。

「どうもしない」

「奴隷なんだろ」

 

その言葉に、ノヴァの眉が僅かに動いた。

奴隷。

その言葉だけは知っている。

エデレ自身がそうだった。

 

けれど、それが今の自分たちとどう関係するのかまでは分からない。

「エデレはエデレだ」

「……何?」

「奴隷というのは、エデレの名前ではない」

 

店内のどこかから、小さく息を呑む音がした。

ノヴァは気づかない。

 

彼にとって、それは当たり前のことだった。

名前とは、その者を呼ぶためのものだ。

エデレはエデレ。

それ以外に何があるというのか。

 

「だから、探す」

もう一度、ノヴァは歩き出した。

店主の横を通り過ぎようとする。

その腕を、店主が掴んだ。

 

「待てって言ってるだろ」

「……離してくれ」

「まず話をしろ」

「エデレがいない」

「だから話を――」

 

「エデレがいない!」

 

初めてだった。

ノヴァが声を荒らげたのは。

自分でも驚いた。

店主も、周囲の客たちも黙り込んだ。

ノヴァ自身もまた、何故自分がそんな声を出したのか分からなかった。

 

ただ、胸の奥が熱い。

さっきよりも熱い。

身体の内側を何かが這い回っているような、不快な感覚。

 

息が重い。視界が狭くなる。

 

そして何より。エデレがいない。

その事実だけが、頭の中を埋め尽くしていた。

 

「……どこへ行った?」

 

誰に聞くでもなく呟く。

 

「外だ」

店主が答えた。

 

「あの青年が連れていった」

 

「青年?」

 

「ああ。冒険者だ。お前さんたちのことを気にしてた」

 

「何故?」

 

「……奴隷を連れてるように見えたからだろう」

 

「違う」

 

ノヴァは即座に否定した。

 

「エデレはエデレだ」

 

また同じ言葉だった。

それ以上の説明はできなかった。

自分でも、それ以外に何を言えばいいのか分からない。

 

「とにかく、外へ行く」

 

今度こそ、店主の腕を振り払った。

力を込めたつもりはない。

 

それでも、店主の身体が僅かによろめいた。

ノヴァは気に留めず、扉へ向かう。

その背中へ、誰かが声を掛けた。

 

「おい」

 

振り返る。

先ほどまで黙っていた客の一人だった。

 

「……嬢ちゃんに何かしたら、ただじゃ済まさねえぞ」

 

ノヴァは男を見つめた。

「何故?」

「何故って……」

男が言葉に詰まる。

 

ノヴァには本当に分からなかった。

エデレに何かをする理由などない。

一緒に旅をしている。

食事を探している。

 

それだけだ。

それなのに、どうして誰も自分を信用しないのだろう。

 

「私は、エデレを探すだけだ」

 

そう言って、扉を開けた。

夜の街へ出る。

 

冷たい風が頬を撫でた。

 

店内の喧騒が遠ざかる。

 

ノヴァは立ち止まり、辺りを見回した。

 

エデレの姿はない。

 

右を見る。

 

いない。

 

左を見る。

 

いない。

 

道の先を見る。

 

そこにもいない。

 

「……エデレ」

 

呼ぶ。

 

返事はない。

 

もう一度。

 

「エデレ」

 

やはり、返事はなかった。

 

胸の奥が、また熱くなる。

 

ノヴァは知らない。

 

この感情の名前を。

 

ただ、足は自然と動いていた。

 

エデレがいる場所へ。

 

自分が知らないうちに連れていかれた少女を、取り戻すために。

 

それが何を意味するのかも知らないまま。

 

ノヴァは夜の街を走り出した。

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