区画の冷たい潮風が、分厚い特殊コンクリートの隔壁にぽっかりと開いた暗い亀裂へと吸い込まれていく。
その亀裂をくぐり抜けた先にあるのは、12年前に世界から切り離され、地図の上から消し去られた巨大な死都――『旧境界隔絶都市・
地上数百メートル下に広がるその世界は、一言で言えば錆と死の泥に満ちている。かつて地下防災都市構想の要として建設された広大な3層構造の空間は、今や高濃度の呪詛ガスによってドロドロに腐食していた。
空気を吸い込むたび、喉の奥に鉄錆を舐めたような強烈な金属味と、焦げたオゾンの臭いがまとわりつく。頭上を走る高圧ケーブルの残骸からは、今なお死に体となった都市の脈動のように、青白い火花がパチ……パチ……と不規則に弾けては闇へと消えていく。
打ち捨てられた地下鉄の車両、壁面にびっしりとこびりついた人工界異の皮膜、そして稼働し続ける自動迎撃システムの無機質な作動音。人間の生活の痕跡が、呪詛という負のエネルギーによって歪に侵食され、巨大な墓標となって静まり返っていた。
そんな死に絶えた第3層・旧第4実験プラントの最深部において、一人の少女が軽快な足取りで歩いている。
ケリー・F・ハウンド。
彼女の首元に嵌められたリミッターを兼ねたチョーカーが、高濃度呪詛金属ガスに反応して微かに明滅していた。だが、電磁系の魔女であるケリーはそんな殺人的な環境に完全に適応している。要領で爪先に引っかかった小さなギアの破片をカン、と軽快に蹴飛ばした。
「ふーん……。■■年前のデータにしては、思ってたより保存状態いいじゃん。中身は――くだらない実験記録と失敗談しか詰まってないとしても、さ」
彼女の手元にある小型端末には、プラントの中央サーバーから抜いてきた過剰増殖実験の生体データと、暴走した広域呪詛兵器の構造設計図が完璧に同期されていた。特葬班から依頼された今回のデータ収集作業は、これで100%完了している。
「目的達成。あとは上に戻って、退屈な報告書を提出しておしまい、と」
ケリーは退屈そうに欠伸を噛み殺すと、手首を軽く振った。彼女の指先から極めて微細な電磁パルスが放たれ、周囲の空気がわずかに歪む。
ケリーにとって、この黒縄区画は不快な場所ではない。むしろ好ましいとすら言えた。
電磁フィルターによって避けられる呪詛金属粉ガスの充満により、ノイズとなる他者が余り立ち入れない状態。至る所に剥き出しになった旧時代の高圧送電線、死にきっていない磁気浮上線のコイル、そして壁面を走る金属配管。その気になればどこからでも力を補充できる環境、古臭いが走る電気エネルギーの味も悪くはない。電磁エネルギーを統べる彼女にとって、この都市全体は巨大な玩具箱のようなものだった。
壁の向こうで蠢く界異の足音も、遠くの通路で防衛ガトリングが再起動する機械音も、すべての電気エネルギーの変化として彼女の脳内にリアルタイムで立体描画されている。
「ん……?」
地上へ続く
「……あは。なにか、すごく必死で惨めな金属の音が聞こえるわ」
ケリーは目を細め、薄く艶やかな唇を緩めた。
その場所で繰り広げられているのは、余り“よろしい”戦いではなさそうである。高濃度の呪詛ガスによって着実に削られていく形代紙の青い光。そして、何かに追い詰められ、泥に塗れながら刀を振り回す、あまりにも小柄な異物の反応。
「へえ……おチビじゃん。こんなゴミ捨て場にまで出稼ぎ? 相変わらず泥臭い仕事してんのね」
ケリーは一瞬、そのまま無視して地上へ上る昇降機へ向かおうとした。
自分には関係のないことだ。だが、その小さな反応が、防衛システムが立ち上げた即死級の集束呪詛レーザーの射線上に吸い込まれていくのを感知した瞬間、彼女の頭脳が不快なほどの速度で最適解を弾き出した。
(形代紙、ゼロ。次の飽和射撃が始まれば、あのおチビは肉片になる)
――そして、まだ自分が気まぐれを起こせば結果は変わる距離。
「――地上に戻る前に、ちょっと遊んでいっても良いわよね?」
ケリーは唇の端を舐めると、ホバーの排熱風をわずかに吹き出し、影のように黒縄区画の深層へと滑り出していった。
物語のギアが、静かに、そして狂暴に噛み合い始める。
――ガギィンッ!!!
高濃度の呪詛ガス芒芒と立ち込める第3層・高負荷迎撃廊下。暗闇を引き裂いたのは、精錬黒不浄刀と自律型防衛ガトリングの装甲が激突する、凄絶な金属音だった。
「……ッ、……ッ!!」
声の出ない喉から、血の味のする荒い呼気だけが漏れ出る。霧鎌メグの身体は、すでに限界を迎えつつあった。小柄な体躯を包む雅な和装は、そこかしこが破れ、煤と泥に塗れている。自慢の美しい合わせも緩み、泥水の染み込んだ裾が脚に不快にまとわりついていた。
個人依頼として引き受けた旧プラント遺物の回収という依頼。だが、事前に渡されていた情報は完全に破綻していた。ここは人間を拒み、侵入者を殺戮するためだけに進化を続けた境界異常領域だったのだ。
バチバチ、と着物の袖口から青い火花が散り、最後の一片だった和紙が灰となって崩れ落ちた。
死の肩代わりをする護符――形代紙。
最大所持数である7枚すべてが、この黒縄区画を覆う殺人的な高濃度呪詛ガスと、絶え間ない自動防衛兵器の掃射によって焼き払われていた。
(形代紙が……ゼロ……!)
冷や汗が背筋を駆け抜ける。地下深くの隠された領域に単独任務中、考えうる限り“最悪”の状況だった。息を整える間もなく、天井の配管を軋ませて「それ」が襲いかかってきた。
――シューッ、と排気音を立てて死角から滑り出してきたのは、旧・境界対策課が残した自動殺傷兵器の残骸。幾重もの重装甲に覆われた無機質な殺傷機械だ。その先端の集束レンズが、濃密な漆黒の呪詛エネルギーを放出し、眩いばかりに発光する。
集束呪詛レーザー。直撃すれば肉体ごと灰に変わる即死級の一撃。
(かわせ――ない――!?)
足が地面に張り付いたように動かない。高濃度ガスによる精神摩擦と極度の疲労が、コンマ数秒の踏み込みを遅らせていた。死の光芒が網膜を焼き、メグの視界が白く染まる。
死ぬ。ここで、一人で、何も成せないまま、無様に――。
――ドォン!!!
直後、真横から弾丸のような速度で滑り込んできた黒い影があった。
「――っく!!」
耳元で響いたのは、聞き覚えのある舌打ちの音。黒い影――ケリー・F・ハウンドが、特葬班時代に叩き込まれた防衛運動の反射そのままに、射線上へ自身の右足を滑り込ませたのだ。
彼女の手首から伸びたチェイン《グレイプニル》が最小限の電磁フィールドを展開し、直撃の軌道をわずかにズラす。だが、完全に相殺しきれなかった高圧の呪詛エネルギーが、ケリーの右大腿部を直撃した。
バチバチバチッ!!と激しいスパークが弾け、ケリーのブーツから紫煙が上がる。
「ッ……あは、やってくれたなぁ、クソ機械」
ケリーは激痛に顔を歪めながらつまらなさそうに吐き捨てると、左足の一蹴りでメグに肉薄。その勢いのまま襟首をひっ掴み、そのまま側面の重耐圧隔壁区画の扉の中へと転がり込んだ。
重厚な鉄扉がガシャン!!と激しい音を立てて閉じ、自動ロックがかかる。外のガトリングの打撃音が、分厚い金属越しに遠のいていった。
暗く狭いセーフハウスの中に、荒い呼吸音だけが響く。
メグは床に倒れ込んだまま、呆然と目の前で壁に背を預ける少女を見つめていた。ケリー・F・ハウンド。首元のリミッターを鈍く光らせた魔女は、メグに構う事無く右脚の止血を開始していた、大腿部の深い傷は致命傷になりうる可能性のある危険な傷であり、メグとてそれは理解しているのでそこに不満はない。だが、それ以上に意味不明な状況に混乱していた。
(なんで……?)
声の出ない喉の奥で、感情が激しく渦巻く。なぜ、この魔女が自分を庇った?自分に人生で最も深い絶望と、拷問の苦痛と、屈辱を与えてきた相手だ。殺しても殺し足りない敵だ。なのに――なぜ、身体を張って自分を助けた?
混乱でパニックになりかけるメグを見下ろし、ケリーは薄笑いを浮かべた。
実のところ、最初にケリーの身体を動かしたのは特葬班での訓練で体に染みついた味方の射線を庇うという反射だった。その行動自体のキャンセルもやろうと思えばできた。だが、コンマ数秒の間に彼女の脳内演算は悍ましい“楽しい遊び”を弾き出したのだ。
(このおチビは、重要呪詛犯罪者と繋がっている。情報源としてここで死なせるのは勿体ない。それに――)
ケリーは三日月のように目を細め、メグの怯えた瞳を覗き込む。
(――その方が、絶対に面白いから)
「あーあ。足がやられちゃった。私、独りじゃ走れなくなっちゃったよ」
ケリーは応急処置の終えた右脚をコンコンと指先で叩き、大袈裟に肩をすくめてみせた――勿論ウソだ。否、半分はウソではない。実際のところ走れはしないが、そもそもケリーは電磁系の強力な魔女であり、イオン風を応用すれば、この程度の狭い通路なら浮遊し、独りで脱出することなど容易い。
だが、ケリーはあえてその選択肢を伏せ、メグに向かって甘い毒のような言葉を投げかけた。
「ねえ、おチビちゃん。形代紙もゼロで、そんなボロボロの体でこれ以上進むのは無理でしょ……ほら、そこの一人用の非常昇降機のハッチ、ロック解除してあげたよ。そこから一人で地上に逃げたらどう?」
「……!?」
「おチビじゃ操作パネルがない昇降機を、上げるのも降ろすのも無理でしょ?……大嫌いな私に命を救われて、私を置いて一人で逃げるんだ?感謝しなよ。命の恩人の私にさぁ」
舐めきった冷笑。
ケリーの狙いは明確だった。メグが大人しく撤退を選ぶと確信していたのだ。天敵に命を救われ、その恩人を死地に置き去りにして逃げるという消えることのない屈辱を一生背負わせるための、極上の嫌がらせ。
――だが。
ケリーの思惑とは裏腹に、メグの脳裏で弾けたのは、まったく別の暗い記憶だった。
(見捨てられた――あの時と同じ……?)
脳裏に蘇るのは、かつて身を置いていた少女強盗団での最悪の記憶。界異の発生現場に置き去りにされ、仲間に嘲笑われながら見捨てられ、生きたまま喰われかけたあの日の絶望。世界中の全員が自分を裏切り、自分を見捨てるのだと知ったあの日。
自分を死地で庇ってくれた存在。
それが、たとえどんなに恐ろしい魔女であっても。自分に苦痛と屈辱を与えた宿敵であっても。
(ここで……この魔女を置いて逃げたら……)
息が止まる。
ここで逃げたら、自分は自分を見捨てた全ての連中と「同類」になる。そうなればきっと二度と戻れなくなる。剣士として、二度と立てなくなる。
(そんなの……絶対に、嫌だ……!!)
「……ッ!!」
声にならない呼気が、狭いセーフハウスに満ちた。メグの瞳から恐怖が消え、血走った狂暴な殺意と、折れぬ覚悟の火が燃え上がる。
「……え?」
ケリーがわずかに眉をひそめた瞬間だった。
メグは返り血と泥で汚れた着物の帯を躊躇なく引き解いた。解けた帯をケリーの胴体と自分の肩に強引に回し、力任せに結びつける。そのまま、自分より少し背の高いケリーの身体を、その華奢な片肩でぐっと担ぎ上げた。
「ッ……ぐ……ッ!」
膝が微かに震える。形代紙もない、満身創痍の身体に、思ったより軽いケリーの身体とその熱が、ズシリと圧し殺しかけてくる。だが、メグの瞳は真っ直ぐに、地上へと続く危険な通路の先だけを睨みつけていた。
任務など、もうどうでもいい。この最悪の魔女を抱えて、この地獄から生きて帰る。それだけが、今のメグの唯一の誓いとなった。
「……ウソでしょ。正気?」
密着した肩口から伝わる、メグの激しい鼓動と泥臭い熱量。ケリーは予想外すぎるメグの行動に一瞬だけ素で目を見張った。だが――次の瞬間、その邪悪な知性に輝く瞳に、狂気的なまでの興奮と愉悦が満ちていく。
(あは……あははは!!マジで? 私を庇って、背負って生きて帰る気!?)
ケリーの脳内で、現状を再演算、そして最高に魅力的な新しい遊びへとシフトする事を決定した。自分の能力なら浮いて逃げられるという事実を隠し、ケリーはメグの細い肩にわざとゆったりと体重を預ける。
「いいよ、おチビ。……そのやせ我慢とプライドが、いつまで持つか見ものね。私を背負って地上に戻る気なら、一つ下に降りた方が早いわよ。そっちにメインエレベーターシャフトがあるから。私が起動してあげるわ」
歪んだ魔女の嘲笑と、無言の少女の殺意。互いの利害も感情も決定的に狂い破綻したまま、二人は一つに重なり合い、最悪の深層へと足を踏み出していった。