――カラン、と。
無機質な金属音が、広大な空洞の静寂を跳ねた。
第3層の最暗部から伸びる、地上への唯一の縦穴――
その鉄格子で覆われた昇降口の前で、メグの足がピタリと止まった。
「……ッ、……ハッ、……ッ!!」
和装の帯で肩に固く縛り付けられたケリーの重みが、ずしりと全身の骨格に圧しかかる。メグの呼吸はすでに浅く、荒い。肺の奥を焼く高濃度呪詛ガスはケリーの電磁的遮蔽防御によって退けられているものの、辺りに漂う金属臭と、寄り添うケリーからの幽かな香りが混ざり合い、視界の端を赤く明滅させていた。
ここまで、何十体もの界異を解体してきた。だが、それはメグ自身の力だけではない。背中から、神経から、脳の深部へと流し込まれ続けたケリーの電磁パルス――肉体をオーバーライドされ、己の限界を超えた速度と精度で振るわされた結果だった。
背骨を駆け抜けた、あの吐き気のするような全能感と甘い痺れ。操り人形のように魔女の指先ひとつで躍らされ、それに肉体が歓喜してしまったという泥のような屈辱。その余韻が、今もメグの全身の皮膚を微かに甘く震わせている。
(あと……少し……この昇降機に乗れば……地上へ……ッ)
精錬黒不浄刀の柄を握る右手から、血と汗が滴り落ちる。形代紙はゼロ。直撃どころか、掠り傷一つで命を落とす絶体絶命の綱渡り。だが、目の前の鉄扉さえ開けば、この地獄から抜け出せる。
――その、安堵が一瞬だけ脳裏をかすめた刹那だった。
――ズゥゥゥゥン……ッ。
空間そのものが、重く重厚に揺れた。
昇降機の広場の空間全体から、すうっと音が消え去る。代わりに満ちてきたのは、何千、何万もの人間が同時に絶望し、叫び、死んでいった記憶の泥――集積された呪詛の残光だった。
空中に無数の幾何学的な光の亀裂が走る。この黒縄放棄区画の最深部を覆う、厄介な自律型怨念界異『
かつてこの地下要塞の崩壊とともに棄てられ、暗闇の中で生きたまま腐っていった研究者や犠牲者たちの断末魔。それが防衛システムの余剰電力と融合し、肉体を持たぬ無機質な光の暴力へと変貌した怪異。『追憶の霧』が二人を侵入者と認識した瞬間、薄暗い廊下の空気そのものが狂暴な波調を帯びて発光し始めた。
――パシィィィィィンッッ!!!!
瞬間、世界が裏返った。
超高音波の悲鳴とともに、網膜を焼き千切らんばかりの激しいストロボ・フラッシュが、狭い通路を隙間なく満たした。
「……ッ、……ぁ、……っ!?」
直撃。形代紙という死の肩代わりを持たないメグの無防備な精神に、遮るものなくその光と音の暴力が叩き込まれた。
視界が、真っ白に染まる。
物理的なダメージではない。それは、メグの脳の最深部――厳重に鍵をかけ、押し込めていた過去を強引にこじ開ける死の光だった。
――パシャッ、パシャッ、パシャッ!!
耳奥で弾ける、フラッシュの音。群がるマスコミの醜悪なカメラのレンズ。向けられる無数のマイク、浴びせられる罵詈雑言。
『連続通り魔の娘!』
『お前の父親が人間を殺したんだろ!』
『答えろ!』
そして――雨の打ち付けるアスファルトの上。マスコミの追撃から逃げ惑う最中、悲鳴を上げて崩れ落ち、二度と動かなくなった母親の冷たい手。
(嫌だ……いやだいやだいやだ……ッ!!)
狂乱のトラウマが、津波となってメグの脳内を侵食する。視界が明滅し、上下の感覚が消え去る。足の力が抜け、膝が砕け、コンクリートの床へ激しく叩きつけられた。
「……ガっ、……ハ……ッ、……ぁ……」
過呼吸を起こした胸が、醜く上下する。声の出ない喉から、ひゅーひゅーと虚しい呼気だけが漏れ出た。手首から力が抜け、精錬黒不浄刀の先が床を滑り、カランと虚しい音を立てる。
『回想の残響』が放つ高濃度の呪詛光線が、無防備に丸まったメグの頭上へ集中し、眩い集束光となって殺意を膨らませていく。
――その、絶望の渦中。
彼女に引きずられるように地面に倒れ伏し、メグの肩口に頬を預けていたケリーは、鮫の様に笑っていた。
密着した肌を通して伝わってくる、メグの激しい鼓動、過呼吸による肉体の震え、そして絶望に苛まれる精神の拍動。ケリーの指先には、まだ十分すぎるほどの余力があった。手首の《グレイプニル》から電磁パルスを放ち、『回想の残響』の光の波長を干渉・無力化することなど、彼女にとっては造作もないことだ。そもそも、事前情報がある相手に対策をしていないわけがない。
だが――ケリーは、安易な方法でメグを助けなかった。
トラウマに押し潰され、涙と汗で顔をぐちゃぐちゃにし、呼吸すらできずに無様に死に直面しているメグの無様な姿を、至近距離で心底楽しそうに、観察していた。
(あは……やっぱり。ここで壊れちゃうんだ?過去のゴミみたいな思い出に潰されて死ぬなんて、本当におバカで、惨めで、最高)
しかし。
ただここで死なせてしまっては、あまりにも呆気ない。わざわざ、痛い思いをしてまでおちょくってきた事を鑑みると、まだ彼女が楽になるには支払いが足りていない。
ケリーは滴る様な邪悪の微笑を浮かべ、丸まって震えるメグの耳元へ、ゆっくりと顔を寄せた。首元から吐き出される、ゾッとするほど灼熱の吐息。それが、過呼吸で熱を持ったメグの耳朶を焼く。
「ねえ、おチビ」
耳奥へ直接滑り込んでくる、甘く、熱く、そしてどこまでも邪悪な魔女の毒。
「――いつまで、そんなつまらないものに怯えてるの?」
「……ッ……!?」
「あんたに本当の『地獄』を教えたのは、マスコミじゃなくて私でしょ?」
――ドクン、と。
メグの全身の血が、逆流した。
ケリーのその言葉。耳元にかかる、ゾッとするほど熱い呼吸の温度。そして、自分の背中に密着している、かつて自分の剣士としての尊厳を滅茶苦茶にし、尊厳をすり潰し、拷問の苦痛と屈辱を与え尽くした怪物の体温。
脳裏を支配していた過去のフラッシュバック――マスコミのカメラ、母親の死、雨の匂い。
それらの過去の傷跡が、一瞬にして、目の前の魔女に対するドロドロとした黒い感情によって強制上書きされていく。
(あ……あ……ッ)
思い出した。思い出してしまった。
自分をこの世で一番絶望させ、泥水を握らせ、惨めな敗北へと叩き落とした元凶は――今、まさに自分の肩に乗っている、この怪物だ。
昔のトラウマ、マスコミの光、そんな、遠い過去の傷が薄れるほどの凄惨な
(だったら……ッ!!)
胸の奥、臓物の底から、烈火のような殺意と狂気が吹き荒れる。
(お前に……護られたまま、死ねるか……ッ!!)
(お前の目の前で、過去の傷なんかに怯えて膝をついてたまるか……ッ!!)
(お前を殺すのは――私だ……!!)
敵を護り抜いて生還し、いつか自分のこの手でこの魔女を殺すという、歪みきった狂気の執念。
それが、メグの限界の戸を、内側から爆破するように打ち砕いた。
「……っっっ!!!!」
声の出ない喉から、獣のごとき呼気が漏れ出た。濁り切っていたメグの瞳に、爛爛とした狂暴な血の光が宿る。床に転がりかけていた右手で、滑り落ちた黒不浄刀の柄を固く握り直す。指関節が白くなるほど力強く。砕けかけていた右膝が、コンクリートの床を穿つように力強く踏みしめられた。
立ち上がる。
肩にケリーという重荷を担ぎ直したまま、メグはゆっくりと、真っ直ぐに立ち上がった。その瞬間のメグの変貌を至近距離で浴びたケリーの瞳が、驚愕と、そして狂気的な歓喜によって大きく見開かれた。
(あは……!あはははははは!!スゴイ……!!過去のトラウマを、私への『殺意』だけで塗り潰して超えちゃった……!!)
ゾクゾクとするような快感が、ケリーの背筋を駆け抜ける。これだから人間は、モルモット観察はやめられない。絶望を怒りで超え、自分への殺意で立ち上がる。その目的はケリー自信を護り切る事!なんと合理的で、不合理で、美しく歪んだ魂か。
「いいよ、おチビ!!そこまで見せてくれるなら、最高のお膳立てをしてあげる!!」
ケリーが解き放ったのは、首輪の制限を極限まで解除した全開の電磁パルス。
チィィィィンッッ!! と耳鳴りのような高周波が空間を覆う。ケリーの手首から放たれた青白い雷光が、『回想の残響』が発していた狂暴なストロボ光の波長を完全にジャックし、その光の暴力を無力な残像へと書き換えた。
さらに、空中を走るチェイン《グレイプニル》が幾重にも交差し、光の怪異の最深部――むき出しになった怨念の核を物理的に固定し、晒し出す。
「そこ!! 斬りなよ、おチビ――ッ!!」
ケリーの叫びと同時に、メグの背中に最後の電磁刺激が撃ち込まれた。だが、もうケリーに操られている感覚はなかった。ケリーから送られた力学の補正すら、メグは己の殺意の推進力として飲み込み、コンクリートを爆砕するような踏み込みを見せた。
踏み込みの速度は、過去最高。すり足のしとやかさも、連続通り魔の血の泥臭さも超えた、純粋な一筋の死の線。
可変秘剣「袖の下」改。
和装の袖口から引き抜かれた精錬黒不浄刀が、ケリーの放つ青白い雷光を反射し、闇の中に一閃の漆黒の半月を描いた。
――ズバァァァァンッッ!!!!
空間を切り裂く、乾いた衝撃音。
『回想の残響』の核が一刀両断され、光の界異が悲鳴すら上げられずに内側から崩壊していく。眩い光の破片が、まるで夜桜が散るように、暗闇のシャフトの中へ美しく弾け飛び、そして静かに消え去っていった。
沈黙。
高濃度呪詛ガスが薄れ、静寂が満ちる。地上へと続く大昇降機の鉄扉の前には、もう二人を遮るものは何一つ残されていなかった。
「……ハッ、……ガ……ッ」
精錬黒不浄刀の先を床につけ、メグは荒い呼気を吐き出す。その瞳は、過去の影に怯える少女のものではなかった。守るべき敵という矛盾を背負い、限界を超えて死地を叩き割った、夜叉の如き剣士の目がそこにはあった。