キル・マイ・セイバー   作:P-PEN

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morning glow

 

 

 

 ゴゴゴゴ……と鈍い重音を立て、古びたメイン・エレベーターシャフトの分厚い耐圧鉄扉が、地上からの光を押し開けた。

 

 「……ぁ、……っ」

 

 半開きの隙間からなだれ込んできたのは、眩い朝の光と、湾岸区画の湿った潮風だった。青暗く淀んだ地下死都の呪詛ガスに灼かれ続けていた肌を、温かな潮風が撫でていく。東の空は紫紺から美しい茜色へとグラデーションを描き、錆びついた旧都市のシルエットを鮮やかに浮かび上がらせていた。

 

 地上へ一歩足を踏み出した瞬間、メグの全身から糸が切れたように力が抜けていった。

 

 形代紙ゼロの極限状態。閑話の薄暗がりで自覚させられた、あの吐き気がするほど不快で熱い死闘の連続。ケリーの電磁補正による身体の強制駆動と、己の歪んだ殺意を激突させて放った奥儀の反動。そして――この地獄から生きて生還したという緊張の糸の崩壊。

 

 手首から力が抜け、精錬黒不浄刀が手から滑り落ちた。乾いた金属音を立ててコンクリートの床を転がる。メグはそのまま膝から崩れ落ち、血と埃と冷や汗に塗れた顔を伏せて、荒い呼気を吐き出し続けた。

 

 魔女と剣士。二人を結びつけていた和装の帯が、ハラリと解け、朝風に舞う。

 その時だった。

 

 「――あーあ、疲れたぁ」

 

 頭上から聞こえたのは、拍子抜けするほど軽快で、どこまでも不躾な声。

 

 「……!?」

 

 メグが薄っすらと、重い瞼を持ち上げる。泥と返り血で霞む視界に飛び込んできたのは、到底信じがたい光景だった。

 

 右大腿部を痛撃され、まともに走る事も出来ない筈のケリー・F・ハウンド。自分に片肩を貸させ、その重みを預けていなければ歩くことすら上手くできないはずだった天敵。

 

 彼女は――最初から何事もなかったかのように、地上数十センチの空中にふわりと浮遊していた。

 

 首元に光るリミッターのチョーカーから、微かに溢れ出る排熱用のイオン風。それが彼女の黒い重狩衣の裾と、鮮やかな紫のインナーカラーを華やかに揺らしている。

 

 まともな教育を受けられなかったメグが、その原理を理解しているわけではないが、これがどういう事なのかは明白。つまり電磁の能力を統べるケリーにとって、一人なら最初からこのエリアから脱出することなど容易かったのだ。

 

 足が自由に動かないのも、自分に肩を貸さなければ満足に歩けないのも事実。しかし、それでいて全部、最初から最後まで、この魔女が仕掛けた凶悪で不快な「お遊び」に過ぎなかった。

 

 「あは、なにその顔。まさか本当におチビに頼り切ってたと思ってたの?」

 

 空中に浮遊したまま、ケリーは伏せるメグの目の前へと優雅に舞い降りた。地面にちょこんと膝をつき、ボロボロになり、血の混じった荒い息を吐くメグの顔を、心底愉快そうに見下ろしてくる。

 

 (……まあ、拾った小石にしちゃ、思ったより面白い光り方をしたかな)

 

 ケリーの瞳の奥にあるのは、気まぐれに弄んだ玩具が、予想外に壊れずに耐えたことに対する、興味と遊びが上手くいった満足感だった。

 

 実のところ、ケリーの狙いは単なる意地悪だけではない。あの死地において、メグが隠し持っている手札を全て観測すること。次に、これほど極限まで追い詰められれば、背後にいるであろう大物――境対に正式登録されている重要呪詛犯罪者たちへ緊急の通信を入れるか、あるいは救援を呼ぶ何らかの隠し札を切ると踏んでいたのだ。もしその兆候があれば、この場でまとめて炙り出し、一網打尽にする算段すら彼女の頭脳にはあった。

 

 だが――結果として、メグは誰にも頼らなかった。頼る手段すら持っていなかった。それはつまり、この小柄な剣士は現在本質的に独りであるという証左に他ならなかった。

 

 (けど……ふーん。死にかけても仲間を呼ぶ手段すら持ってないなんて。このおチビ、本当にただのぼっちなんだ?)

 

 メグの手札をすべて解体し、眺め終えたケリーの満足感。メグ自身は、境界対策課のデータベースにも正式な呪詛犯罪者としては登録されていない、いわばグレーゾーンの存在。ここで殺したり拘束したりする価値すらない。生かして野に放ち、泳がせておいた方が、いずれ裏にいる本物の害虫どもへと繋がる良い撒き餌になる。なら、ここで仕留める理由は薄い。特に前回迎撃した界異や違法機動祭祀を扱う呪詛犯罪者とメグは明らかに知り合いだった。友釣りの餌としてもまだ使い道があった。それに

 

 「でもさぁ……すっごく面白かったよ。敵な筈の私を庇って担ぎ上げて、過去のトラウマを私への殺意で塗り替えて……挙句、自分の限界の戸をブチ破っちゃうんだもん。ほんと、不合理で、バカで、――いい暇つぶしだったわ」

 

 ケリーの指先が、メグの血に汚れた顎をクイと持ち上げる。首元のチョーカーを弄りながら、朝焼けの逆光の中で細めて嗤う邪悪な魔女は、いっそ朝焼けすら色あせるほど美しかった。

 

 「命は助けてあげたんだから、もっと強くなりなよ、おチビ。……また気が向いたら、遊んであげるからさ」

 

 耳元で囁かれる、甘く痺れる毒。だが――メグはもう、前のようにただ恐怖し、混乱に惑わされたりはしなかった。あの薄暗い冷却プラントの陰で突きつけられた、己の内面の真実。れほど残酷で、どれほど危険な怪物であっても、決してブレることのないこの魔女の孤高と無駄のない悪意に、一瞬でも息を呑んでしまったという激しい屈辱。そのすべてを胸の底へ押し込み、メグは血の味がする口内で奥歯を強く噛み締めた。

 

 言葉にならない呼気を漏らしながら、顔にこびりついた泥と血を拭うこともせず。爛爛とした狂暴な殺意と、或いはそれ以外の複雑な情念の宿る瞳で、ケリーの顔を真っ直ぐに睨みえぐってみせる。

 

 (待っていろ、ケリー・F・ハウンド……)

 

 声なき誓いを前に、魔女は満足そうに唇の端を舐め上げた。

 

 「あは、いい目……じゃあね」

 

 地下エリアから脱出した事で連絡線が回復したことを確認すると、ケリーは興味を失ったように背を向けた。排熱のイオン風を静かに纏い、彼女は朝焼けが描くビル街の影へと、まるで幻影のように飄々と溶けて消えていく。波の砕ける音と、荒廃したコンクリートの隙間を吹き抜ける塩くさい風の音だけが、倒れ伏すメグの耳奥に遠く響いていた。

 

 「……ッ、……ハッ……」

 

 呼吸を吐き出すたび、全身の悲鳴を上げていた筋肉が落ち着いていく、ケリーに神経系を強制駆動された背骨の節々は、今なお甘やかで恐ろしい痺れの熱を失っていなかった。限界の力を解放されながら、自壊しないように生道に制御された結果だと分かっていた。

 

 弄ばれた。

 

 最初から最後まで、自分はあの魔女の気まぐれな「お遊び」の盤上で、踊らされていたに過ぎない、自分自身の無意識の熱情すらも見透かされ、完膚なきまでに嘲笑われ、踏みにじられた。

 

 屈辱で、顔が灼けるように熱い。血の混じった唾を地面に吐き出し、メグは握りしめた拳でコンクリートを叩きつけようとした時、その腕が止まった。

 

 荒い呼吸の渦中、混濁した頭脳の奥底で、メグはふと「ある一つの異様な事実」に行き当たっていた。

 

 (……裏切られ、なかった……?)

 

 ドクン、と胸が跳ねる。

 

 散々嘲笑われた。モルモット扱いされた。全身の激痛と屈辱を与え尽くされた。けれど――ケリー・F・ハウンドは、命がけで自分を死線から庇ったその瞬間から、最後の最後まで、一度たりともメグを裏切らなかった。

 

 メグの唇から、かすかな呼気が漏れた。

 

胸の奥で渦巻いていた熱が、静かに変化していく。黒不浄刀の柄に、泥と血に汚れた指先がかかる。ギィ……と不吉な破砕音を立てて、膝が伸ばされた。砕けかけた足首に激痛が走る。だが、メグの顔に歪みはなかった。どうせ壊れない程度にしか使われてない。

 

 血の滲む和装の裾を正し、解けた帯を手繰り寄せると、メグは緩んだ腰元を力強く結び直す。刀を鞘へと収めるカチリという静かな金属音が、朝焼けの港に小さく響いた。立ち上がる。倒れ伏していた少女はもういない。

 

 

 朝日が照らし出す、荒廃した湾岸区画が目覚めるそのわずかな間だけ、二人の小さな影が朝焼けに残っていた。

 

 

 

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