数十年に一度と言われる嵐に見舞われた日。
幼いビビ様は外の様子を窓から眺め、唇を尖らせていた。
「見てよ、物凄い嵐だわ。
これじゃ一日中、ここから出られない」
外で駆け回る方が性に合っているビビ様としては、屋内に閉じ込められるのが不服だったのだろう。
「嵐が収まるまでは仕方ないですね」
「つまんない」
そんな話をしていた時だ。
窓硝子越しに、何か大きな物体がこちらに飛んで来るのが見えた。
咄嗟に駆け出して、身体でビビ様を庇う。
ガシャン、と耳をつんざく様な音がして窓硝子が砕け散った。
その破片が周囲にばらばらと散乱する。
見ると、尖った木の枝が室内に飛び込んでいた。
突風でどこからか飛ばされた木の枝が、窓を突き破ったのだ。
「ビビ様、大丈夫ですか?」
ビビ様は頷いたが、急に青ざめた顔になり、指を差した。
「ペル、血が出てる」
気付くと俺の左手の甲がざっくり切れて、床に血が滴っていた。
飛んで来た硝子の破片で切った様だった。
「どうしよう」
ビビ様はおろおろとする。
「大丈夫ですよ」
俺はすぐに手巾を取り出し傷口に当てたが、その間もビビ様はひどく深刻な顔をしていた。
この事故の為に一時、宮殿内は騒然とした。
全ては偶然の出来事で、俺が負った怪我もそう大したものではなかった。
しかし、それからもビビ様はじっと何かを考え込んでいる様子だった。
やがて事態が収まった後で、ビビ様は俺に尋ねた。
「ねえ、ペルは護衛兵でしょ」
「……そうですが?」
「ペルは私の事、守ってくれるのよね」」
「はい、それが役目ですから」
何故そんな当たり前の事を聞くのかと不思議に思ったその時、ビビ様は言った。
「じゃあ、ペルの事は? 誰が守ってくれるの?」
その一言に胸を突かれた。
まさかそんな事を言われるとは、予想もしなかった。
「私は……自分の身は自分で守れます」
そう答えてから、ビビ様が言った意味に気付く。
ビビ様の視線は、包帯が巻かれた俺の左手に注がれていた。
この怪我を心配しての事だろう。
「お優しいんですね。私なら大丈夫ですよ」
するとビビ様はこくりと頷いた。
「分かってる。ペルは強いもん。でもね、私も守ってあげたいの」
「それでは立場が逆になってしまいます」
そう言って俺は笑ったが、ビビ様は真面目な顔で繰り返した。
「守ってあげたいのよ」と。
ビビ様は遠い目をしていた。
その時の事を思い出しているのだろう。
「あの時、初めて気が付いたの。
ペルが私を守ってくれる時は、ペルが傷付く時でもあるんだ、って。
あなたは血を流してでも私を守ってくれるのに、私は守られるだけ。
私にはそれがどうしても嫌だった。
そう言うものだと言われても、納得出来なかった。
その時から大きくなっても、ずっとその気持ちは消えなかった」
俺もその時の事を思い返す。
本気で守りたい、と言ったビビ様の顔を。
「あの事は覚えています。
幼い身でありながら人を思いやれる。そんな方にお仕え出来て誇らしいと、あの時私も自覚しましたから」
昔からビビ様はそうだった。
どうしてそう、あなたは人の痛みに気付けるのだろう。その相手に寄り添えるのだろう。
「それからダンスパウダーの事件が起こった時、裏にバロック・ワークスが関わっていると聞いて、きっとこの国は大きな戦いに巻き込まれるって予感がしたの。
この国で戦いが起きるとしたら、ペルは真っ先に戦いに出る。
そうしたらあなたは血を流してでも戦う事になる。……ううん、今度はそれだけじゃ済まないかも。そう考えたら、怖くて堪らなかった」
ビビ様は自分が傷付けられでもしたかの様に、眉を顰める。
そんな表情をさせない為に、俺が居ると言うのに。
「私が国を出てバロックロークに潜入したのは、そうそればみんなを救う事が出来ると思ったからよ。
私は誰にも死んで欲しくなかった。だけど……もっと言うと、あなたに死んで欲しくなかった。
何よりも、ペルに生きていて欲しかった」
俺は目を見開いた。
まさか。
信じられない思いで、俺はその言葉を聞いていた。
……それでは、ビビ様がこの国を出たのは、俺の為だったと言うのか?
その為に危険に身を晒したと?
「結局あなたは傷だらけになってしまったけど」
そう言ってビビ様は俺の左手を握る手に力を込めた。
「ペルが守ってくれた様に、私だってあなたを守りたかったの」
それを聞いた時、急に目が開かれた思いがした。
俺はずっと思い違いをしていた。
ビビ様を守れるのは自分だけで、そう思っているのも俺一人だけだと。
しかし……
守りたいと思い続けていたのは、俺だけではなかった。
ビビ様も同じ思いでいてくれたのだ。
ビビ様を守っているつもりで俺もまた、守られていた。
そう気付いた時、胸の中が温もりで満たされ、押し留めていた感情が溢れ出した。
愛しいと言う気持ちが、止められなかった。
王女や主と言う意識はなく、ただ、誰よりも大事な人だとしか考えられなかった。
いつの間にか、俺はビビ様を抱き締めていた。
ビビ様は一瞬身体を強張らせたが、俺の背中に腕を回し、抱き締め返した。
腕の中に温かな体温と鼓動を感じる。
その鼓動に、俺の鼓動が重なる。
もう一度ビビ様を抱き締める事など、望んではならないとずっと思っていた。
しかし今は彼女を手放したくないと、強く思う。
「私は、あなたが好きです」
二年前に言えなかった言葉、仕舞い込んでいた言葉が、心の奥から零れ出た。
「私も……誰よりあなたが一番好き」
ビビ様がそう言った。
顔を上げたビビ様の視線と、俺の視線がぶつかった。
吸い込まれそうに澄んだ、綺麗な瞳だった。
その瞳に引き寄せられる。
頰が紅い。
ビビ様が目を閉じた。
俺は背を屈め、ぎこちない口づけをした。
その後ではたと気付いた。
今のはまずかったかも知れない。
ビビ様が望んでいたかどうかも分からないのに、俺の感情だけで動いてしまった。
「ペル?」
「申し訳ありません。勝手な事を……」
「何で謝るの? 私とのキスが嫌だった?」
「いえ、決してそんな事は……」
そこまで言いかけて、俺は口をつぐんだ。
何を言ってるんだ、俺は。
今の発言も、それはそれで問題だろうが。
顔が熱くなるのが分かる。
思わず片手で顔を覆うと、ふうん、とビビ様が
「嫌じゃなかったんだ」
それから安心した様に呟いた。
「……良かった」
もう心の内を全て知られているのだから、隠していても仕方がない。
「いつも冷静でいようと自分に言い聞かせているのに、ビビ様の前ではそうではいられない様です……私は未熟者ですね」
この所、動揺してばかりいる。
今だって顔から火が出そうだ。
傍目から見たら、さぞみっともない事だろう。
「砂海の如き熱き血をもて、されど心は冷涼であれ。大地を潤す泉の如く……ね?」
ビビ様がすらすらと
驚いていると、ビビ様は当然の様に答えた。
「護衛隊の心得なら、子どもの頃から何度も聞いてるもの。
言おうと思えば、この先も全部言えるわよ」
それからこう続けた。
「私はいつも正しくあろうとしているペルが好きよ。
未熟者なんかじゃないわ。
熱き砂でも、冷涼なる泉でも、どっちもあなただもの」
ビビ様は興味深げに告げる。
「今日のペルはいつもと違う顔を見せてくれるから嬉しいわ。
もっと色んなあなたの顔を見てみたい」
「……揶揄わないで下さい」
そんな事を言われたら、まともに目を合わせる事も出来なくなる。
「揶揄ってないわ。本当にあなたの顔を見ていたいの。だから、ずっと私と一緒にいて」
そう言って俺の目を覗き込む。
もう悪戯な表情は鳴りを潜めていた。
そこにあったのは、真剣な眼差し。
「あなたがいてくれるなら、私には怖いものなんてないから」
その眼差しが真っ直ぐに届き、心が凪いでいく。
そう、あなたが居てくれるなら、俺にも怖いものはない。
俺もビビ様の目を見つめ返して言った。
「ビビ様、先程護衛隊の心得を全て覚えていると仰いましたか?」
「ええ、そうだけど。それがどうかした?」
「では私は、その言葉通りに生きていこうと思います……ビビ様と共に」
そう告げるとビビ様は一瞬考え込んだ。
だがすぐにその意味に気付いたらしく、嬉しそうに頷いた。
俺は手を伸ばし、ビビ様の手を握った。
この手を守る為に、強くあろうと心に誓う。
ビビ様は微笑んで、ぎゅっと俺の手を握り返した。
“……熱き砂、冷涼なる泉を胸に宿し者
汝ら、我らが祖国の礎とならん
国ある限り、強く生きよ
生ある限り、国を愛せよ”
熱き砂 冷涼なる泉 完
これにて『熱き砂 冷涼なる泉』は完結です。
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