今日、雨季に入って初めての雨が降った。
さわさわと降りしきる雨の中、宮殿の中庭に誰かが立っていたので、俺は足を止めた。
「何をしているんですか、そんな所で」
振り返ったのはビビ様だった。
裾の長い白の寝衣のまま、ずぶ濡れになるのもお構いなしに、雨に打たれている。
「あ、ペル。おはよう。雨が降ったから嬉しくって」
「だからと言って、そんな所に居たら濡れますよ」
「ちょっとだけだもの、平気よ」
そう言ってビビ様は空を見上げる。
「やっぱり久しぶりの雨って良いわね」
アラバスタでは雨の季節は歓喜の季節だ。
雨は大地を潤し、緑や作物の恵みをもたらす使者でもある。
確かに雨の匂いには、何か良い事が起こりそうな予感に心が躍るものだ。
子どもの頃は誰だってそうだ。
尤も、ビビ様は今もその頃と変わらないが。
ビビ様の髪に、頬に、雨粒が降りかかる。
その眺めは雨に打たれている、咲きかけの花を思い起こさせた。
恐らく起き抜けで化粧などしていないだろうが、ビビ様は飾らないままでも目を瞠るほど美しい。
そんな事は口に出せはしないが、俺は心の中でそう思う。
思えばビビ様に想いを告げられたのも、この場所だった。
今となっては月明かりの下で想いを告げたビビ様の事も、ビビ様をこの腕で抱き締めた事も、自分の記憶ではない様に遠いものと感じられた。
そう考えると胸の奥がざわめくが、きっとそう感じるのも俺一人だけなのだろう。
一心に空を見上げるビビ様を見ていると、まるで俺たちの間には何もなかったかの様に思えた。
もの想いに浸るより、差し当たって必要なのは何か拭くものだ。
「もうよろしいのでは? お風邪を召しますよ」
後で他にも拭くものを取って来ましょう、と伝えるとビビ様は「ありがとう」と微笑む。
こんな他愛の無いやり取りをしていられるのも、クロコダイルからこの国を取り戻した今だから出来る事だ。
全てが、とまでは言わないが、俺たちは反乱が起きる前と変わらない日々を過ごしている。
俺たちの身に起きた事は、全てあの状況下だからこそ生じた事態なのだ。
事が収まる所に収まった今となっては、元の状態に戻るのが道理と言うものなのだろう。
俺たちの間柄は、あれから何も変わらない。
気が付けば、反乱終結からもう一年半が経とうとしていた。
王国を根底から揺るがした反乱。
そこから生還出来た俺だが、身体には深い傷跡が残った。
それは何も俺だけに限った話ではない。
あの反乱がこの国と国民に残した傷は大きい。
目に見えるものにしろ、見えないものにしろーーその影響は今日にまで及んでいる。
反乱直後、俺は死んだものと思われ、知らぬ間に墓まで建てられていた。
……無理もない。あの状況で生きているとは誰も思わないだろう。
俺の生還は、再会を果たした全員に驚かれた事だった。
しかし驚いたのは俺も同じだった。
死んだものと思っていたイガラムさんが、生きていたのだ。
国王、ビビ様、イガラムさん、チャカ、そして俺。
あの混乱の中で、王族と俺たち臣下が生き延びられた事は奇跡的な幸運だった。
そして、それは決して犠牲が少なかったと言う意味ではない。
あの日、アラバスタでは
護衛隊でもツメゲリ部隊を始めとして、優秀な人材を何人も失った。
俺たちは良き友人たちと貴重な戦力を、一度に無くしたのだ。
破壊されたものは修復出来るが、失われた命はもう二度と帰らない。
もっと力があれば。
その後、俺はそんな思いに囚われた。
あの時俺には、取るべき道は一つしかなかった。
自分で選び取ったのではなく、強制された選択肢。
もっと俺に力があれば、選択肢は他にもあった筈だ。
みすみす、目の前で人を死なせる事もなかっただろう。
弱ければ何かを選び取る事さえ、許されない。
ただ死を強いられるだけだ。
それが嫌なら強くなる他ない。
もっと強くならなければ。
それから俺は使える時間の全てを費やして、鍛錬に励んだ。
これまで以上に基礎的な体力と剣技の向上の修練を積み、ファルコンの能力を使った模擬訓練を身体が動かなくなるまで繰り返す。
周囲の兵士でその鍛錬について来られる者は間もなく居なくなり、自然と最後まで付き合うのはチャカ一人となる。
そのチャカでさえ「その辺にしておけ」と苦い顔をする様になった。
「お前、やっと怪我が治ったのにまた身体を壊す気か」と。
それでも、俺は身体を休めようとは思わなかった。
まだ足りない。こんなものではまだ。
身体にはまた傷が増えていったが、俺は気に留めなかった。
自分を追い込む様に、がむしゃらに身体を動かす。
そうしていないと不安で仕方なかったのだ。
そんなある日、ビビ様が突然「皆で温泉に行きたい」と言い出した。
俺は辞退したが、ビビ様は許してくれない。
「ペルは一人だけ宴会の機会も逃しちゃったんだし、絶対来なきゃ駄目よ」
そう押し切られて、結局同行する事になる。
温泉に浸かりながら、ふと考える。
こんな所でゆっくり過ごすのはいつ以来だろう。
すぐには思い出せないくらい、前の事だ。
そう思っていると、チャカが隣に来て言った。
「お前の事をビビ様が心配していたぞ。
この所、無理をしていないかとな」
「ビビ様が?」
「そうだ、だからこうして強制的に休みを取らせたんだろうが、余り心配を掛けるなよ。
お前は何でも一人で背負い込み過ぎるからな」
いつの間にかイガラムさんも隣に来ていた。
「そうだな、お前の気持ちも分かるが、焦りは禁物だ。何より身体を壊しては元も子もない。
国を守るのであれば、自身の身体を大事にするのも役目のうちだ」
耳が痛かった。
少し前には、国王からも同じ様な事を言われたばかりなのだ。
こうして皆が口を揃えると言う事は、思った以上に周囲に心配を掛けていたのだろう。
その日、ビビ様と顔を合わせた時に話をした。
「ご心配をお掛けしていた様で、何とお詫びしたら良いか……」
そう告げると、ビビ様はこちらを見て言った。
「ねえペル。
あなたを見ていると、反乱を止めようとしてた時の私を思い出すの。
あの時の私も、反乱を止めるには私が何とかしなきゃ、命を投げ打ってでもどうにかしなきゃって、それしか頭になかった。
でも、ルフィさんのお陰で気が付いたの。
私には仲間がいるんだって。そう気付いたらとても心が楽になれた。
あなたも同じよ。一人じゃないわ。
だから全部一人で抱え込まないで」
ビビ様は焦ったそうな、それでいて悲しい様な表情になる。
「ペルは私の話は聞いてくれるのに、自分の事は何も話してくれないんだから。
自分さえ犠牲になれば良いとは思わないで。
私はペルに、もっと自分を大事にして欲しいの」
それは静かな口調だったが、有無を言わせない真剣さがあった。
ああ、そうか。俺はあの時とまた同じ心配を掛けている。
ビビ様の表情から、心配の度合いが相当なものだと分かった。
恐れ入ります、と答えながら考えていた。
気付かないうちに、精神的に自分を追い詰めていたらしい。
自分の事は分かっている様で、案外気付かない事もあるものだ。
そんな時に気付いてくれる人が居ると言う有り難みを知る。
この頃は肩に力が入り過ぎていたのだろう。
今でも鍛錬は続けているが、身体が続かない様な方法は改めた。
気に掛けてくれる人が居てくれる。誰よりもビビ様の顔を思い出す。
あんな悲しげな表情はさせるものではない。
心の痛みを抱えているのはビビ様も同じだ。その中で心配を掛けた事を申し訳なく思う。
俺は一人ではないのだ。
ビビ様の言う通り、そう思うだけで心が楽になった。
ここがアラバスタで……大事な人と仲間たちが居る、俺たちの国であって良かった。
俺は恵まれているな、とその時つくづく思った。
この頃になってようやく、周りの状況に目を配る余裕が生まれた。
破壊された町には
再建が進んでいる事は頭では分かっていたが、町の些細な変化に意識が行き届かなかったのだから、どれほど視野が狭くなっていたのかと思う。
アラバスタは再び立ち上がり、自らの力で歩き出したのだ。
ようやく訪れた穏やかな日々を、誰もが疑わなかった。
しかしその矢先、国王の病が発覚した。
初めは国の復興の為の激務が祟ったものだと思われたが、医師からは肺に腫瘍があるとの診断が下された。
手術も受けたが、予後は思わしくない。
一度咳をし出すとなかなか止まらず、移動にも車椅子を使う事が多くなった。
髪もこの間に随分白くなってしまった。
反乱終結後の際は壮健であった事を思うと、この僅かな間の変化に心が痛んだ。
この国にはこの方こそなくてはならない。
君主としても人としても、この方を置いて他に尊敬出来る存在はないだろう。
クロコダイルと対峙した際には、自らの命と引き換えにこの国の民を守り切ろうとした気概のある方だ。
傷付き疲弊したこの国を纏め上げるには、この方の力がこれからも必要なのだ。
今でも体力こそ落ちているものの、気力も判断力も全く衰えていない。
恐らく国王ならこの病も克服するだろうと、俺は信じている。
ある朝の事だった。
「お加減はいかがでしょうか」
そう声を掛けると、国王は床から身体を起こした。
「今日は幾分良い様だ」
国王は答えると、ゆっくり立ち上がる。
「そろそろ手をつけねばならん事もある」
「余りご無理はなさらない方が……」
療養が優先だと言うのに、国王は放っておくといつまでも仕事にかかりきりになってしまう。
慌てて止めようとすると、国王は笑った。
「いや、仕事ではなく、ビビの見合いの件だ」
その言葉に、思わず身体の動きが止まる。
病が発覚した頃から、国王はしきりとビビ様の見合い話を進めようとしていた。
自らの今後に不安があれば、残される一人娘の行く末を案じるのは父親として当然の事だ。
こうなる事は必然的な流れだろう。
しかし、実際耳にしたその言葉は、やけにざらりとした感触を残して胸の内を通り過ぎて行った。
国王は優しい父親の顔をしていた。
「ビビには早く良き相手を見つけて貰わねば。
あの子には随分と大変な思いをさせた。
その分、これからは幸せになって貰いたいのだ」
表情と言葉の端々から、娘を思う気持ちがひしひしと伝わってくる。
ネフェルタリ家の安寧を願う者として、異論を差し挟む余地はない。
「……そうですね」
俺はそう返事をする。
「私も、そう願っています」
ビビ様には幸せになって貰いたい。
それは心からの本音だ。
ビビ様もいずれは誰かと婚姻する。
そんな当たり前の事実に
あの夜、月明かりの下でビビ様に想いを打ち明けられたのは、四年近くも前の事だ。
ビビ様はその後、あの夜の出来事に触れようとはしなかった。
考えてみれば、それも当然の事かも知れない。
あの時俺はビビ様を「主として」好きだ、と伝えた。
異性として見ていない、と告げたも同じなのだから、あの返答はビビ様をひどく傷付けた事だろう。
そんな苦い思い出を、わざわざ自分から口にする訳がないのだ。
そしてその後ビビ様は国を出て、新しい世界を目にしている。
果てしなく広がる海を行き、見た事のない国々を巡り、新しい仲間と出会った。
その中で誰かに想いを寄せる事があったとしても、何の不思議もない。
十台の多感な年頃なら、
麦わらの一味との冒険がビビ様の口の
ビビ様が国を離れていた二年間と俺にとっての二年間は、完全に事情が異なるのだ。
俺にとっては想いを募らせる日々だったが、ビビ様にとっては俺から遠ざかる事を意味しただろう。
その二年と言う歳月は、あの夜の出来事を忘れるのに十分な時間だった筈だ。
実際の所は、俺にも分からない。
ビビ様がその事に触れない以上、俺の方からビビ様の本心を知る術はない。
しかし、「一時的な熱も冷めれば、やがて他の誰かに関心も移る」ものだ。
今のビビ様には、その「誰か」が居るのだろう。
かつてのその予測が現実になった、そう言う事だ。
そしてビビ様は、あの日の事は無かった事にしたいと思っている。
つまりは、そう言う事なのだと思う。
それだから俺も表面上はこれまで通り王家に仕える、以前と何ら変わらない毎日を送っている。
ただ一つ以前と違っているのは、俺自身の方だった。
以前の俺なら有り得ないと断言した筈だ。
仕えるべき王女に……特別な感情を抱くなど。
王家は一生を懸けて守り、尽くすもの。
そう教えられて生きて来た俺がこんな事態に陥るとは、考えられない事だった。
しかし一度気付いてしまった気持ちは、どうしても消す事が出来なかった。
あの日、時計台で本心を伝えていたら、どうなっただろうか。
そう思った事もあった。
しかし現実はそうではない。
随分と自分勝手な夢想だと思う。
ビビ様を拒んでおきながら、その後になって想いを寄せるとは。
今のビビ様に想う相手が居るなら、これほど迷惑な話はないだろう。
何より、あの時ビビ様を守れなかった俺に、気持ちを伝える資格などない。
ある筈がない。
頼りにされておきながら、力になれなかった。
拭い去れないその事実は、いつまでも俺の心に重くのしかかっている。
このままでいい、と俺は思う。
やはりお互いの立場を思えば、これで良かったのだ。
いつかはビビ様も誰かと婚姻する日が来る。
それでも俺は王家に仕え、支えていくだろう。
俺の気持ちは変わらないが、これは俺だけの問題だ。
誰にも知られる事なく心の中に留めておけば、問題になる事もない。
ただ一つ、確かな事は。
いつか、どこかの時点で、俺はビビ様を思い切らなければならない時が来るだろう、と言う事だ。
それがいつになるかは分からないが……手の届かないものを望むなど、それほど愚かしい事はないのだから。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございます。毎日投稿(全10話)の予定ですので、今後もよろしくお願いします。もし気に入って頂けましたら【お気に入り登録】や【評価】で応援して頂けますと、大変励みになります。