「彩葉ぁ! きしめん食べたい!」
「は!? なんできしめん?!」
「いいじゃぁん! きしめんめっちゃ美味しいよ!」
「知ってるよ! でもめっちゃ美味しいのと今ここで食べるのとはめっちゃ別!」
「せっかく店目の前にあんのにぃ!」
「なんでここにあるの……」
「そりゃリニアの駅だしぃ?」
「ここは愛知じゃなくて神奈川だし名古屋じゃなくて橋本なんだけどなぁ!?」
「あ、ほうとうでもいいよ!」
「同じ
「ねぇ彩葉ぁ〜」
「はぁぁぁああ……どうして私がこんなため息をついているかわかりますか? 七村陽香さん」
「え、そろそろかぐやさんがしつこいから?」
「そう。それでしつこく食べ物のことばっか考えるとね、気づいたらきしめんとかほうとうの舌になってて食べたくなるの」
「かぐや98連勝!」
「仁義なき
「?」
今日は私達3人で橋本に来ている。何故にと思うかもしれない。それはそうとやっと最近リニアが出来たので、それ関連の地域の食べ物屋があっちゃこっちゃ
サクッと食べられるきしめん屋にひとまず入る。荷物要員の芦花さんには申し訳ないけどここまで来てもらうか。本来芦花が住むべき家で車を用意してスタンバってて貰ってたけど。
『なんかかぐやのゴリ押しできしめん食べることなったんだけど、芦花も来る? 一応4人分席取ってるけど』
『www
私は良いや。チョロ葉』
『私にはチョロ花のクセに』
『言ったなこの! てか20年チョロ葉と一緒いて初めて言われたわそんなん』
『時は来て、機は熟した』
『……でよ、私はいつごろこの蒸し人間機から出りゃいいの』
『それはちゃんと出て()
分からん。食べ終わったらまた連絡するわ』
『おっけ
陽香ちゃんにもよろ言っといてね』
『さっき別れてすぐ逢うのに、あ、ラストかぐやの分届いた。
ちょ、ま、なんなのこのかき揚げの量!!!』
『食欲深怪獣だ』
『陽香ちゃんヒーコラわろてるからもう良いや()』
『ツボは案外浅かったか』
『んじゃ、後で』
────────
今日がいくら光のどけき春の日といえど、自分の家の駐車場に止まってる車の中でずっと待機してれば流石に暑くて化粧が崩れる。一旦部屋に戻ろう。今のなんの時間だったんだ? 一流美容インフルエンサーROKAとして、外に出掛けている時はなるべく化粧を保っておきたい。別に私がなんでもないただの一般女性だったらこんなこと考えないでも良いんだろうけどね。この道を進み続けると決めたのは私だし。
家の中に入ってもう一度洗面台に向かう。これは……一回全部リセットした方が早いな。そんな暑かったっけ車の中。にしても、もう一回同じメイクをやり直すのか。ちょっとだけ
彩葉のいるお酒の席でついうっかり
お、通知? あぁ〜ね……さっき正式に契約解除申請した事務所から、突然のことすぎて動揺のメールが。いや、あのね、横暴な振る舞いをなさってたのは
あ、なんだコイツ。
あの人、最近社労士の資格と児童心理士の資格取ったって言ってたっけ。*1テテテさんも結構歴長いよねぇ。最初はワインソムリエだけだったのに、目を離した隙にエスペラント語の資格まで取ってんの。何それ。テテテさんは資格取得は自己防衛と自己理解の手段だとよく言ってる。だけどメジャーマイナー問わずあらゆる資格の合格者の名前欄に、同姓同名の女性の名前が載ってたことで本名バレしたのは自己防衛できてなくて流石に笑ったし他人ごとじゃなさすぎて
ふむ……児童心理士の……資格……? いやいや、いくら知人だからって、無関係の他人を巻き込むのは私は違うと思う。あれ、そもそも昨日かぐやちゃんが連れて来ちゃっただけで、昨日まで陽香ちゃんと私たちは全くの無関係だね。それなら私たちは、陽香ちゃんの、なんなんだ……?
ん……? 私は、彩葉の、なんなんだ?
グルチャで彩葉から届いた2枚の写真。1枚目は満面の笑みのかぐやちゃんと共に写る大量のかき揚げが乗っかったきしめん、2枚目には無惨にもチリ一つなく綺麗さっぱり底までつるっぱげにされた
こっちも準備ができたのでもう一回外に出て、車の鍵を開ける。今度はちゃんとエンジンをかけて冷風を顔にやる。さて、どこに行くんだっけ私。
彩葉はきっとこの件に関して、楽観的な見方をしていない。常に最悪の想定を思考し続けている。それを前提として、法と倫理と思想と感情と尊厳それぞれのラインが客観的に見ても重なり合う奇跡そのものな一点をなんとか見つけ出そうとしている。そういうふうに見える。もちろんそれは子供を導く大人のあるべき姿勢として尊敬する。だけどそんな点Pは果たしてあるの? 月見ヤチヨの8000年を耐え抜き、完璧な全身義体を作り上げ、数十ものブレイクスルーをあらゆる学術界隈で積み上げ続けている酒寄彩葉。奇跡を起こしすぎて、もしかして、奇跡が完璧なフォーミングで歩いてくるものだと思ってるんじゃ。その奇跡が歩いてきたぞ。かぐやちゃんが2人を引き連れてお腹を
「」
ごめん。車の窓閉めてて聞こえなかった。窓を開けると春風に乗って桜の花びらがひとひら舞い入ってきた。そういえば卒業式の時期の桜といえば葉桜とかいう風情0のしょうもない気候になってからしばらく経つね。私はその花びらを拾い上げ、太陽に
これが奇跡と言い張れるなら、しかし私は両方の扉の窓を開けていたため、風に煽られ花びらは向こうへ飛んでいってしまった。
「かぐやがめっちゃ叫んでても、アンニュイを崩さない芦花もサマになってるね」
「それは普通に騒音だからやめて……てかなんで大挙してうちに来てるの?」
「やっぱ芦花も一緒がいい!」
「あたし達が陽香ちゃんのおうちに行くの、結局良かったの? 駅で待ってるんじゃなかったっけ」
「私も本当に車に乗せちゃって良いのか何度も聞いたけど、ね」
「てか私たちが陽香ちゃんの実家知っちゃって行っちゃって良いの?」
矢継ぎ早に疑問を投げつけられて陽香ちゃんは後部座席でたじろいでるように見える。いや見えちゃダメじゃん。運転中だからよそ見はできない。
「私たちに合わせようと無理してたらすぐに言ってよ。私たち、大切な人に我慢させるの一番嫌いなんだから」
「……私、ご飯中に笑ったの、初めてかもしれなくて」
その声には少しの
「そんなことを私にさせてくれる人たちなら、少しなら私を預けてみても良いかもしれないって」
「初めてのこと多すぎて疲れてなぁい?」
「ただ暮らしててこんなに可笑しく疲れたの初めて。かぐやさんのおかげです」
あーやばい。こっちが泣きそう。
「てか実家に訪問する許可父親にとってないじゃん!」
涙枯らしてくれてありがとう彩葉。
「毎月毎月七村家を抱えてた
「ほんとほんと〜あ、もう着くよ〜。ウチからそれなりに近いな……なんかあったら走りでも助け行けるよ」
「ありがとうございます……」
「でっけぇマンション。オートロックで良かったよ本当」
オートロックで良かったとかそんなレベルじゃない。なんなのこの高級感しかないロビー……私たちの住む立川駅目の前に
なんならツクヨミトップライバーもそこら辺にゴロゴロいそうな感じ。なぜならこんなとこでも彩葉は浮いていないから。さすがかぐやいろPの理性担当。情動担当のかぐやちゃんは……あれ、圧巻されてる。というより、
「なんでこれで陽香ちゃんの事情誰も知らないの?」
陽香ちゃんの手を強く握り静かに訴えるかぐやちゃん。
「回覧板とかないのかな」と空気を和らげるつもりで言ってみるけど、そんな
「みんな自分のことしか興味ないの?」
「それはもう現代日本の病理だよ。みんなね、相手の事情に首を突っ込んで損をしたくないの。誰かが意識して変えられることじゃないし」
私たちだってそんな
「かぐや、私たちも高級マンションに住んでるから空気感はわかるんじゃないかな。みんなが自分と同じ状況だと思ってるんだよ。高収入世帯しか集まっていないのに、不幸せな人が存在するはずがないって」
「隣近所の部屋の人は誰も様子を観に来ないの? かぐやは毎週両隣のお部屋に突撃してるよ? そんなことすらやろうとしないの?」
「毎週は迷惑な気がするけど」
「少ないよ。少ない。昔は毎日互いを気にかけてたよ? それがガッツリ裏目に出たこともあったけど」
「昔? な、なんの話?」
陽香ちゃん、多分これは隣組の話だと思う。と心の中で思う。戦争になって
悲しそうな顔でかぐやちゃんが呟く。
「この建物の。どこかの部屋で誰かが、子供が独りで死んでても、みんな知らんぷりするのかな」
かぐやちゃん、誰を指してるかが明確すぎるよ。
「ずっと独りの子どもが、どんな気持ちで毎日の登下校でこのロビーを通ってたか、わかる人はいるのかな」
かぐやちゃん?
「少なくともそれはかぐやには
彩葉がピシャリと
「案内して。陽香さん」
ぽん。心地よい音がシックなエレベーターホールに響く。
「一応お父さんには留守電で、お友達のお家に数日泊まりに行くって伝えてます」
「用意周到で凄く偉いよ」
入ってみたらホテルですかこのエレベーターは。壁は木目調でいい匂いもする。お父さんが行政に頼れなかったのなら、その気持ちには頷ける。それこそ恥やプライドの
「いつ頃越したん?」
「私が小学校上がるくらいかな」
「お母さんも居たんだね」
「まだ弟も居た」
「父親が著名ピアニストで外国でも連日コンサートできるほど人気なら、このグレードの家は射程圏内ではあるよね」
「ん? なんでそれを……?」
やっ……
らかした……
「一応あのあと“七村”“ピアニスト”でヤチヨに……検索してもらったの。2週間後に日本で公演することも知ってる。私たちで勝手に調べてごめんなさい」
フォローありがとう彩葉……
「私からも申し訳ないです」
「謝んなくていいですよ。そりゃ気にもなりましょうし……」
本当に高いな、まだ着かないの。
ぴろぽん。音までロスレスなの。音質のこた知らんけど。
「ただ……」
玄関を開ける陽香ちゃんは帰宅の挨拶を言い淀む。私は
「父親だね」
酒寄家の皆で陽香ちゃんに対し覚悟の頷きをする。もうここまで来たら自他共に認める不審者軍団でしかないけど、マンションがデカすぎて廊下の人通りが0だったため幸か不幸か見つからずに済んだ。見つかってりゃこんなことにはなってないんだよね。かぐやちゃんの言わんとしてたことを身を
「ちょっと防音室借りていい?」
トイレじゃないの?! 大抵他人の家に訪問して最初に入る部屋はトイレと相場が決まってるじゃん。かぐやちゃん、防音室で何をするの……なんで防音室があるとわかってる……?
「親が音楽家ならあるでしょ。うちにもあるし」
「良いですけど……何をするので……?」
「叫ぶ」
防音室の重い扉を閉める直前にそっけなくそう言ったかぐやちゃんは、はち切れんばかりの野太い声で宣言通り叫び出す。いつもの歌枠やライブの明るく元気な声とは似ても似つかないドス黒い声。ある意味……
「はぁ……かぐヤッホー!! 月からやってきたかぐやだよぉ〜ん!」
それを目の前にした彩葉は途端に涙を溜めてすぐにハンカチで拭く。
「昨日から彩葉も私たちも、ほんと泣きすぎ」
「はぁ、泣けなくなるのが一番やばいから」
「彩葉……ほんとヤバいよ。モニターが存在していない……」
さっき自分に
「ここまでとはね……」
「ヤチヨの入り込む隙どころか、ヤチヨが
日差しが差し込みとても明るい室内。緑も
かぐやちゃんが陽香ちゃんに耳打ちする。
「あんなこと口走っちゃうのも納得だよ……」
聞こえてしまった。
「かぐや?」
「こんなソファ座ったってつまんないでしょって!」
「私は結構気になる」
彩葉、結構とか遠慮しちゃって目輝かせてやんの。私はクラシック音楽は
「陽香ちゃん、他の部屋を覗くことは難しそう?」
「全部大丈夫です」
「無理しないでよ?」
「ここまで来たら、全部見てもらった方がいい気がするんです……」
あれ、陽香ちゃんもクラシックに詳しいのかな。彩葉との会話が弾んでいる。なんだ、バロックが大嫌いで古典派はつまんない……音楽のことになると
「音楽は物語じゃないの……?」
「どしたの?」
「あ、芦花! 陽香ちゃんが来ないと見て良いのかわかんない!」
「オタクら!
「ここは? 無理に教えなくて良いけど」
「私の部屋」
「良いの?」
「……うん」
「迷っているなら私たちにプライベートを覗く権利はないし、あなたはそれを迷い続ける権利があるよ」
「見て欲しいの!」
未だに留守電がなっている。もう誰も気に留めていないっぽい。慣れって怖いね。
陽香ちゃんのお部屋には、なにも、なかった。あるのは、布団と、教科書、カバン、それらがしまってある棚付き机と椅子。あとは少しの、フレグランス。これは、なにかがあるとは、言わないよ。
「本とか漫画はどこ……? ぬいぐるみとかのふかふかもないよ……」
「勝手に買っていいのか、わかんなくって」
やっぱりフレグランスが気になる。まさか娘をこのまま放置してる父親が、フレグランスという概念を知ってる訳がない。
「これは?」
「部屋臭くなっちゃって、対策。そのためなら少しは良いかなって」
「この環境下でちゃんとその判断ができたのすごいな……」
「はぁ。勝手に買っていいのかわかんない、かぁ。明言されなきゃわかんないよねぇ」
彩葉が腕を組みながらウムウム頷く。20年前にかぐやちゃんが帰ったあたりから、彩葉は言葉での対話を重要視するようになった。何を言って何を言わないか。その選択の重さを、彩葉はきっと常人以上に感じている。
「買っていいのかもしれないけど、私が勝手に思い込んでるだけかも……」
「それでもその状態で今もあるってことは、購入許可を下せる権限の所在を
「その大人って本当にお父さんなの?」
「かぐや……?」
「陽香ちゃん」
「……」
「聞かれたくないなら、首を振って欲しいかも」
昨日より優しい口調で彩葉が
彩葉が意を決してスピーカーに切り替え、留守電ボタンを押す。皆で
少し後に流れてきたのは、優しそうな男の声だった。
『……陽香か、わざわざ留守電くれてありがとうな。友達の家に4日間泊まるって聞こえたよ』
『今はポーランドのワルシャワで公演を終えたところだ。ショパンを
「それで陽香ちゃんは言うんだね。平気だよって……」
「うん……」
「久々の再会でスケルツォを選ぶセンスがまた……」
「……」
「言いたいこと言いな」
「なんでスケルツォ……」
彩葉と陽香ちゃんでヒヒヒと笑い合う。何が起こったんだ……?
「あなたは、あの父親のこと、好みに思ってる?」
「……なんとも思ってないかも」
「質問を変えてみるね。あなたはクラシック音楽は好き?」
「……なんとも思ってないかも。ただ知識として知ってるし、たくさん聴いたから覚えてるだけ……」
「曲を聴いて感動したとか、そういう経験はある?」
「昔はあったかもしれないけど、もう覚えてないし、最近はそもそも何も聞かなくなってて」
後ろの方でかぐやちゃんがなるほどと呟いた。何がどう
「……とりあえず、この孤独を強制する状況を継続している父親に罪がないとは言えない。ただこの状況が生まれた経緯を陽香ちゃんに訊くのは、私たちがもっと仲良くなってからでいい」
「いろはぁ! お父さんになんか伝えないの?」
「もちろん! 伝えなきゃいけないことがある。陽香さん」
「はい」
「あなたを酒寄家で一時保護してると伝えます」
「はい」
「私たちの住所や電話番号も伝えるので、彼がこの留守電の内容を受け取れば、私たちとあなたの父親とのホットラインが開通します」
「ホットライン?」
「この固定電話からじゃなくても、私酒寄彩葉の携帯電話からお父さんへ連絡ができるってこと、そして私からお父さんへ、お父さんから私へ直接電話できるってこと」
「わかりました」
「そして住所も送るので、私の家にお父さんが来るかもしれません」
「大丈夫です」
「場合によっては警察も呼ばれて貴女が私たちと、お父さんと逢いにくくなる可能性があります」
「大丈夫……とは言えないです」
「本音を話してくれてありがとう。その上で陽香さんは、私があなたのお父さんに連絡を取ることを了承しますか? 拒否しますか?」
「……了承します」
「……来週またこの家に私が来て、もう一度選択することも」
「了承します」
「突然失礼致します。現在お宅の七村陽香さんを自宅にて保護しています、東京大学酒寄研究室室長の酒寄彩葉と申します。先日私の……娘が友達の陽香さんの様子に異変を認め……」
かぐやちゃんを”娘“と呼んだ彩葉。そうか、かぐやちゃんにとって彩葉はもう、そんな年齢なんだ。かぐやちゃんが彩葉と同い年だった時に、かぐやちゃんは彩葉との結婚を考え、その彩葉は自分の全てを投げ打ってかぐやちゃんとの生活を
かぐやちゃんは全てを察したような、ヤチヨみたいな淡い笑顔。
「ついにこの時が、来ちゃったね」
「うん」
「怖い?」
「……うん」
かぐやちゃんと陽香ちゃんの問答は、きっと自問自答の意も、兼ねている。かぐやちゃんはもう、彩葉にとっての恋人から、娘に戻ってしまった。
「……私の電話番号は……もう一度繰り返します……そして私の住所は東京都立川市……」
彩葉、本当に自分の住所も包み隠さず……
「まぁけじめだよね。彩葉なりの。お前を殺して自分も死ぬってやつ」
言い方物騒だね……でも彩葉にとっちゃそのレベルだ。ほんと覚悟決まってるなぁ。
「留守電録音終わったよ。後ろの声も聞こえてるかも」
「「え」」
一言も発さなかった私の独り勝ちだ。
これで、やるべきことは終わったかな。さて、みんなでか
「陽香ちゃん! やりたいことある?」
ぐやちゃんはそう言ってくれると思ってた。
「え! いや、えぇっと……」
「私はある」
そう断言した彩葉が向かったのは、私たちがまだ見ていない部屋。その部屋のドアには“音楽室”と書かれてある。
「入っていいですよ。お父さんの部屋です」
「きっとここに……」
お父さんの許可取らんでいいのかい。
これまた木目調の部屋には大きなグランドピアノ、部屋の三面を囲む棚にはたくさんの楽譜。そのなかに一際目立つ楽譜が表紙を向けて飾られている。
「私が好きって言った曲です」
「いつ頃?」
「お母さんの一周
「今は好き? ラヴェル」
「最初の“眠れる森の美女のパヴァーヌ”なら私でも簡単に弾けるから好きって言っただけで、本当は別に」
マ・メール・ロワ*2。多分そう書いてある。
「鍵盤、触っていい?」
「弾けるんですか?」
「多少ね」
「多少どころじゃないでしょ彩葉。めっちゃ凄いから」
「かぐや、ハードル上げんといて……」
そうこぼした彩葉は、その中の曲の一節であろう部分をゆっくり弾き始めた。楽譜も見ず空で。あの、本当にエグくてビビる。そんでもってめっちゃ綺麗。多分フルで演奏してて、音が止んで3人で拍手。
「最終幕より、妖精の園でした。子どもの時散々練習したから感情の入れ方まで覚えてる」
「ねぇ……楽譜にこれ、連弾って書いてあるんだけど……今一人でやってたよね……彩葉って……カワイイ上に……天才が過ぎる……」
「音数は楽譜からそれなりに減らしたよ。ギリ成り立ってるでしょ? 引き算の美学」
ちょ、エグいって……
「私のやりたいことはこれとは違うんだよね。かぐや、歌って欲しい曲があるの」
「さぁ耳の穴かっぽじってよ〜く聴け! 歌枠で鍛えたこの喉から出るかわゆいキュン声と滑舌を!」
「ごめんそういうんじゃないんだ。いやその声で歌ってもいいけど、今送ったこの曲歌ってくれない? CMAのリンクも送るね」
「CMAって何?」
「
暇だぁっつってパソコンいじってた時、そんなことしてたんかあなた。
「いいな。ネット。そんなのも見れるんだ」
「そうだよ。夜さ、私のパソコンで一緒に見てみる?」
「うん」
「ねぇ彩葉……この曲を、かぐやに歌えと?」
「そう。陽香ちゃんの好みがどんなのかわかんなかったけど、バロックとか古典派とかの昔のがめっちゃ嫌なら、好みは自然と絞られるからねぇ」
「難易度激ヤバおかしいって!!」
「無理そ?」
「やってやんよ!」
「煽られると火がつくかぐやちゃんでした」
「歌う時に好きにアレンジしていいよ」
「彩葉ができるからってかぐやにできるって思ってる??」
「無理そ?」
「……やって……やんよ……」
「ピキって黒焦げなってない? 大丈夫?」
この人たちやっぱ面白過ぎる。何もかもが規格外で意味不明。
「で、かぐやちゃん、何歌うの?」
「チャイコフスキー交響曲第5番第2楽章*3」
「「ピアノは?!」」
彩葉の指が動き始める直前、かぐやちゃんが聴衆の2人にこっそり伝える。
「ねぇ、これ14分あるから。一応ね」
「私はテンポ遅めが好きだから20分かかるよ。一応ね?」
「は!? いろ……楽譜無視正気!?」
「はぁ……行くよ、せーの」
それからの演奏は、多分凄まじいものだった。無知かつ
「これさ、何が凄いの?」
「元はたくさんの楽器で演奏してて、どこがそこかも分からない曖昧な主旋律をかぐやさんに全部任せて、彩葉さんがちゃんとそこ弾いてないの。被ってもユニゾンで完璧……というか、歌えてるかぐやさんが、異次元……これ、2人とも一発で……?」
なんか途中でQweenのWe Will Rock Youが混ざり込んだり、サビで勝手に歌詞付け加えたり、それはもうめちゃくちゃな改造がかぐやちゃんに施されて尚も威厳を一切崩さないこの曲は本当に名曲なのだろう。
静かに落ち着いたかぐやちゃんのウィスパーボイスで締めを迎え、20分越しの静寂が訪れる。私たち2人は拍手をすることすら出来ずただ
「彩葉ピアノいつ練習してたの?」
「ツクヨミで今度音楽祭やるでしょ? もしそんなことあったら何
「2人は最強!」
そう言って2人はいつもの仲良しのやつを交わす。こりゃ、私勝ち目なさ過ぎるな。もう何度も思ったその想いを新たにする。無理だわこれは。2人とも、次元が、違う。途端に涙が……また……
「めっちゃ感動してくれてる〜!! 芦花ぁ〜大好き!!」
「初披露が2人で良かったよほんと。あとかぐやはこれで
「そもそもボカロを生声で歌うイベントでこれ繰り出すのやば過ぎるって彩葉!」
「既存曲で歌えればいいんでしょ?」
「オタ公の反応どうだったのさ!」
「ドン引き」
あの忠犬オタ公さんを、何度もドン引きさせる彩葉のヤバさよ……
「この曲が好きなのはね。人間を感じるからなんだ」
「人間?」
「そう。陽香ちゃんなら知ってると思うけど、それこそバロックとか古典派の音楽家達は王族や神様のために曲を書いてた。だけど1800年代、それこそチャイコフスキーとかの時代に、そんなことよりも本当に自分の表現したいことを沢山たくさん詰め込めるようになったの。観客のため他人のためよりも、仲のいい誰かのため、何より自分のために、自由に曲を書くようになった」
そうなんだ。歴史長いもんね。クラシックって言ってるくらいだし。
彩葉は陽香ちゃんの前で立膝をついて話し始める。
「この一日陽香ちゃんのことを見てきてね、今の陽香ちゃんに必要なのは、自分のための自由と、それを許せる自分なのかなって思った」
「自分なのに?」
「そうだよ。自分自身だからこそ。他人が何を言ったってやったって、嫌だったら怒っていい、辛かったら泣いていい、何も感じなかったら、何も感じなかったなと思っていい。自分が居るということを、許してあげてほしい」
「陽香ちゃんはここに居るよ。それで良い」
これ私も何か言った方が良さげだな。言いたいことは決まってる。
「私たちはさ、陽香ちゃんが生きてれば良いから」
かぐやちゃんが帰って一人で
「そう。生きていることに、許しは要らない。生かされてることに有り難がる相手は、自分ただ一人でいい」
「私に……そこまでの価値があるとは思えない……」
「もし生きることに価値が必要だというのなら、私たちが、あなたには存在する価値があることを
「だからかぐやはウチに連れてきたし!」
「私とあなた達は、他人……なのに?」
全くおんなじこと考えてて思わず笑いが出る。
「ふふっ! 確かに私たちと陽香ちゃんは無関係の他人だ!」
「芦花!!」
「どしたん芦花?」
「だけどね、全ての大人は全ての子どもが生き続けているって事実を認めて、そのための環境を生涯保障して支え続けなきゃいけない。たまたまその関係が他人同士の私たちとあなたに当てはまっただけ」
「何を言い出すかとヒヤヒヤしたけど、実際そうだね。子どものSOSを無視してるのは大人の方。子どもに落ち度は無いし、もし落ち度があるなら、それを作らせた大人の責任」
待って、彩葉みたいに長台詞喋ったらめっちゃ疲れてお腹空いてきた。思わずお腹が鳴ってしまう。
グ〜。
私のグ〜が昼の鐘を告げると、やっと始業時間だ。みんなで陽香ちゃんの必要な荷物を車に運びに行く。だ、断じてガサ入れじゃ無いから。とりあえず荷物を
かぐやちゃんがなぜか橋本駅に行きたいそうなので、ついでに4人でほうとうを食べに行く。春の陽気漂う中のほうとうはだいぶ季節外れな感じがしたものの、美味しいことに変わりはなかった。
真実が住む諌山一家が山梨の大月にいるので、酒寄家のみんなで行けば毎回振る舞われるのだけど、向こうは向こうで家庭的なビストロでの調理、ここは本格的な土鍋での提供、どちらも味があって美味しい味。
店員さんもターミナル駅の地方チェーン店にしてはとても親切で、私たち4人の写真を撮りましょうかと提案してくれた。彩葉はきちんと肖像権侵害の許可を陽香ちゃんに取り、テーブルの周りに集まる。私のスマホにヤチヨちゃんを映して5人で記念撮影。そういえば陽香パパの部屋になってる音楽室にも、陽香ちゃんの写真がたくさん飾ってあったな。きっと娘のことが大好きだからだと思いたいけど。
「リニアの駅でリニア見えないのほんとなんでなん?!」
かぐやちゃんの動画撮影のために入場券を買ってリニアのホームに入る。確かに全面分厚い壁に阻まれてるよなぁ。
「リニア見る前に線路の磁石でスマホ引っ付くよ?」
「なんでかぐや平気なのさ?」
「えっと……っとっと……っぶねぇ……」
彩葉がギリギリのところで言い留まったのは、陽香ちゃんにかぐやちゃんが全身機械義体であることをまだ明かしたく無いからなのだろう。でもほんと、いつ言うんだろう。隠すのはガチで無理ゲーだよ。
「音声は後付けね。こんなとこでかぐやっほーしたら絶対オタク共にバレるやーつ」
多分この場に陽香ちゃんが居るのを知られたく無いんだろうな。バレたら絶対ヘイト向くし。
「用事終わり! ささ、みんなで帰ろ!」
次の日の朝、私は陽香ちゃんのお家で一人かぐやちゃんのショートを観ていた。昨日のリニアの動画だ。
『かぐやっほ〜かぐやだよぉん! 今日はリニア新幹線を見に駅に来ました〜って、リニアどこぉ〜!? 分厚い壁に阻まれて、ドアが開いたっぽくてもなーんもわからん! よし! かぐや理解! リニア新幹線は、ドゥルルルル、ダン! 存在しない!』
コメント欄ではオタク達が“乗れよ”とか“見えないものは知らないから存在しない(真理)”とか、好き勝手やいのやいの言っている。私は、かぐやちゃんが裏に込めたメッセージをちゃんと受け取れている、たった二人のうちの一人だ。電話の受話器を耳に押さえている陽香ちゃんを見やる。陽香ちゃんに許可を貰い留守電の内容を書き取り、それを彩葉に送る。朝早くにここに来たのはそのため。
陽香パパ、見えないものでも知ろうとしてよね。存在を認めてね。頼むよ。
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