──海軍本部、訓練場──
昼食を終えた海兵たちが次々と集まっていた。本来なら午後の訓練が始まるまでの休憩時間。だが今日は違う。訓練場の中央に立っているのは、二人の男。一人は、海軍本部の教官として多くの新人を鍛えてきた男。そしてもう一人は、海軍へ足を踏み入れたばかりの男だった。
「本当にやるんですか、ゼファー教官?」
「やる。俺が頼んだんだ。途中で口を挟むな。それから、お前たちはよく見ておけ。強者同士の戦いは、ただ殴り合うだけじゃない。相手が何を見て、何を考えているのか。それを見抜け。」
「強者同士…、でも……あの人、酒飲んでませんでした?」
「……そうだな。」
海兵たちの視線がヒグマへ集まる。ヒグマは訓練場の隅で、酒瓶を傾けながら大きく息を吐いた。
「なんだよ。見世物じゃねぇぞ。」
「いや、どう見ても見世物ですよ。」
「そうだなァ。じゃあ賭けるか?──おれが勝つか、あいつが勝つか。おれが勝ったら酒奢れよ。」
海兵たちから苦笑が漏れる。その様子を見ていたゼファーも、思わず言葉を漏らす。
「お前、本当に海軍に来た初日とは思えないな。普通はもう少し緊張するものだ。」
「緊張して強くなるなら、いくらでもするんだがな。」
ゼファーがゆっくりと前へ出る。先ほどまでの穏やかな表情が消えた。
「じゃあ、始めよう。」
「おう。」
ヒグマも酒瓶を地面へ置いた。その瞬間──。訓練場の空気が変わった。
風が吹いたわけでもない。誰かが声を上げたわけでもない。ただ酒瓶を置いただけ。それだけで、先程までとは様子の違うヒグマに、周囲の海兵たちは自然と口を閉ざしていた。ゼファーが拳を握る。
「ルールは簡単だ。どちらかが降参するか、戦えなくなった時点で終わり。殺し合いではない。そこだけは忘れるな。」
「あぁ。」
「それと──」
ゼファーがヒグマの置いた酒瓶へ目を向ける。
「酒を飲みながら戦うつもりじゃないだろうな?」
「へぇ。教官ってのは酒まで取り上げるのか。」
「戦いが終わったら好きに飲め。」
「じゃあ、さっさと終わらせるか。」
ヒグマが笑う。ゼファーも笑った。
「それはこっちの台詞だ。」
次の瞬間。ゼファーの姿が消えた。
「──ッ!」
踏み込んだ足が地面を叩く。巨体が一気に距離を詰める。速い。新人海兵たちには、ゼファーが一瞬で目の前まで移動したようにしか見えなかった。
「速ぇ……!見えなかったぞ!」
ゼファーの右拳がヒグマの顔面へ迫る。しかし、ヒグマは動かなかった。
拳が頬へ届く寸前。ほんの僅かに首を傾ける。ただそれだけ。そしてゼファーの拳が空を切った。
「……!」
ゼファーの目に動揺が走るが、そのまま左、続けて右、さらに下から拳を突き上げる。だが、ヒグマは身体を捻る、肩を引く、半歩だけ後ろへ下がる。それだけだった。ゼファーの拳は一発も届かない。
「どうした?」
ヒグマが笑う。
「……なるほど、覇気を使った様子もない。お前は──俺の身体を見ている。」
ゼファーは一度距離を取った。拳を構え直しながら、ヒグマを観察する。
「肩が動けば拳が来る。腰が回れば蹴りが来る。足の位置が変われば次の踏み込みが分かる。だから拳そのものを見る必要がない。……そういうことか?」
「ご名答だな。」
「だったら──」
体勢を深くし、ゼファーの足が沈む。
「身体の動きを読めないほど速くすればいい。」
「それが出来りゃいいけどなァ!」
再びゼファーが踏み込む。今度は先ほどとは違った。踏み込みの途中で攻撃の軌道を変え、フェイントを入れる。新人たちには何が起きているのか理解できない。
「動きが見えない…!」
だが──ヒグマには見えていた。ゼファーの拳がヒグマの顔目掛けて伸びる。しかし、ヒグマが身体を横へとずらすと、拳が空を切る。ゼファーが身体を回し、突き出した腕とは反対の腕を曲げ、肘でヒグマの顔面目掛けて振り下ろされる。ヒグマは難なく頭を下げる。その勢いのまま、蹴りを繰り出そうとする。
ヒグマは軽く後ろへと重心をズラすが、蹴りはフェイントだった。地面を踏み込み、腰の入ったゼファーの拳が、初めてヒグマの胸元へ届こうとする。
「もらった!」
拳が触れる直前、ゼファーの動きがピタリと止まった。
「なっ…!!」
ゼファーの拳が、ヒグマの胸に触れる事はないまま止まっている。その理由はゼファーの拳を、ヒグマが右手で受け止めていたからだ。ヒグマは自分の胸元を見下ろした。
「……今のは悪くねえなぁ。だが──おれを下すにはまだ足りねぇ。」
ゼファーの表情が変わった。グイッ、とヒグマの右手によって引き寄せられる。体勢を崩したゼファーに待っていたのは、眼前に迫った拳だった。
覇気も使っていない、単純な暴力、それだけだった。
「──ッ!?」
ゼファーの身体が吹き飛んだ。数メートル先まで地面を滑り、砂煙が舞い上がる。
「大丈夫ですか!?」
「…大丈夫だ。」
心配した海兵達が駆け寄ろうとするが、ゼファーが片膝をついたまま手を上げ制止する。ゆっくり立ち上がる。身体に大きな傷はない。そして、ゼファーは手を上げる。
「降参だ。」
「ゼファーさん!?どうして!?」
「今の一撃で分からないほど、おれはバカじゃない。お前は──今まであってきた強者とは次元が違う。」
ヒグマは何も答えなかった。ただ、少しだけ笑った。
「おれの勝ちって事で、お前ら酒奢れよ。」