「……あの男を」
虚の玉座に座るイムが、静かに呟いた。サターンを通じたその視線の先。ゴッドバレーの戦場を悠然と歩く、一人の男、ヒグマ。先程まで金獅子のシキと激突していた男だった。
「……」
イムは黙ってヒグマを見つめている。その姿は、先程シキを圧倒した男とは思えないほど無防備だった。黒刀を腰に携え、肩の力は抜けている。歩幅も一定で、周囲で繰り広げられている殺し合いなど、まるで意に介していない。
やがてイムは、ゆっくりと視線を外した。遠くには、一人の男が立っている。ロックス。かつて世界を獲ろうとしていた怪物は、今やイムによって意識を奪われ、その身体を傀儡として操られている。
「……」
イムはロックスを見つめる。もはや、ロックスに用はない。意思を奪い、支配下に置いた時点でロックスという存在は役目を終えている。だからこそ、再び視線をヒグマへ戻す。
「……あれは……」
脳裏に蘇る。先程の一閃。ヒグマが放った斬撃。金獅子のシキを真正面から撃ち落とし、その背後に浮かんでいた軍艦すら両断した一撃。単純な破壊力だけではない。あの瞬間、ヒグマが纏っていた覇気。あまりにも強大だった。戦場にいた者なら誰もが感じ取れただろう。あれは、ただの覇気ではない。世界そのものを威圧するかのような、異質な力。それほどのものを纏っていた男が今は──
「……」
微塵も覇気を感じさせない。先程までの凄まじい気配が嘘だったかのように、完全に消えている。
「……異常だ」
力を隠している。それも、覇気を感じさせないほどに。イムの瞳が細くなる。
「支配下に落ちたロックスは、もういい…だが、奴は危険だ」
イムの声に、迷いはなかった。
「承知しました」
サターンが静かに頭を下げる。
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「……さて」
ヒグマは歩いていた。周囲では未だに海賊と海兵がぶつかり合っている。
砲弾が飛び交い、大地が震え、ゴッドバレーそのものが崩壊へと向かっている。それでも、この男だけは違った。
まるで散歩でもしているかのような足取り。
「……酒、飲み損ねちまった」
ヒグマは小さく呟いた。
「シキの野郎……」
眉間に皺が寄る。楽しみにしていた酒が二本。それも、今日という日のためにわざわざ取っておいた酒だった。
「……二本とも飲みやがって、次会ったら……」
そこまで呟いたところで──
「――……?」
ヒグマの足が止まった。戦場に満ちている殺気とは違う。もっと異質な敵意。自分だけを狙っている何か。ヒグマはゆっくりと振り返った。
「…………」
戦場の向こう。砂煙の中を、一つの巨大な影が近づいてくる。
「……へぇ」
ヒグマの目が細くなる。
「今度は何だ?」
右手が黒刀の柄へ伸びる。
次の瞬間──大地が爆ぜた。巨大な影が、ヒグマの目の前へと降り立つ。地面が陥没し、土煙が舞い上がる。その向こうから姿を現したのは、巨大な蜘蛛の脚。異形の身体。そして、人ならざる禍々しい姿。ヒグマはそれを見た瞬間、僅かに目を細めた。
「……」
ヒグマは知っている。この姿を、前世の記憶にある。
世界政府最高権力──五老星。その一人。
「……ジェイガルシア・サターン聖、か」
「……ッ、なぜ……」
サターンの動きが止まった。低い声が漏れる。
「お前が……私の名を知っている?」
ヒグマは答えない。
「……おれになんか用か?」
ヒグマは何事もなかったように問いかける。サターンの目が細くなる。
「お前を……消す」
「……」
その言葉を聞いた瞬間。ヒグマの目が僅かに鋭くなった。
「……イム様の命令でか?」
「──ッ!?」
サターンの表情が更に変わった。
「貴様……」
ヒグマは笑っている。だが、内心では冷静に状況を整理していた。
(やっぱりか)
五老星の一人、サターン聖。そして──イム様。
(まさか……このタイミングで出てくるとはな)
知識として知っている。だが、実際に目の前にいるとなれば話は別だ。
(……原作とは違う)
ゴッドバレーで、まだ世界の歴史が大きく動き始めたばかりのこの場所で。自分はすでに、イムに目を付けられている。
「……ッ、貴様は何者だ」
サターンの声が低くなる。
「なぜ、その名を知っている?」
ヒグマは答えない。ただ、黒刀をゆっくりと抜いた。刀身が姿を現す。
「さぁな」
そして、切っ先をサターンへ向ける。
「それより──おれを消しに来たんだろ?」
ヒグマの口元が吊り上がった。
「だったら、さっさとやろうぜ。」
サターンの身体が低く沈む。
「……後悔するぞ」
「どうだかな。」
ヒグマも腰を落とす。その瞬間。周囲の喧騒が、二人の間だけ消えた。風が止まる。砂煙が静かに流れる。互いの視線だけが交差する。そして──
「――!!」
サターンが大地を蹴った。地面が爆ぜる。異形の巨体が一瞬で間合いを潰す。
「来いよ」
ヒグマも同時に踏み込んだ。黒刀が振り上げられる。爪と刃。異形と人間。二つの怪物が真正面から激突した。ゴッドバレー全域を揺るがす轟音が響き渡った。
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