魔法少女リリカルなのは ~コード・イレイザー~   作:長谷川広軌

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第一部 無印編 ―― 白銀と桜色、そして金色の星
プロローグ


目覚めは、微かな耳鳴りと共に訪れた。

カーテンの隙間から差し込む、海鳴市の穏やかな朝の光。ベッドの上で上体を起こした芹葉紗雪は、小さく華奢な両手を目の前にかざし、ゆっくりと何度か開閉した。

(……跳躍は、成功した)

声に出さず、心中でそっと呟く。その内面にあるのは、紛れもなく未来の時空管理局で幾多の死線を潜り抜けてきた、歴戦の「一等空尉」の魂であった。

彼女はすぐさま、自身の体内の深淵へと意識を向ける。9歳という未成熟な肉体には本来あり得ない、完全に覚醒しきった強靭なリンカーコアが、静かに、しかし絶大な魔力を脈打たせていた。未来で培った空間戦闘の技能、強固な結界魔法、そして精密な魔力運用能力。その全てが、単なる知識としてだけでなく「技術」として、この小さな体に十全に引き継がれている。

傍らのサイドテーブルには、白銀の輝きを放つデバイス『ノーブル・コレッジ』が静かに待機していた。紗雪は脳内で密かに「統合作戦情報網」へアクセスし、情報の海を構築するMOIRA網へリンクを試みる。視界の隅に、海鳴市のあらゆる事象を演算する莫大なデータストリームが展開された。情報の流動は正常。単独での戦闘行動を支えるシステムは、完璧に機能している。

(戦力は整っている。これなら……あの絶望の連鎖を、全て未然に叩き潰せる)

冷徹な軍人としての論理的思考が、状況の最適化を完了する。準備は万端だった。

ベッドから降り、冷たいフローリングに素足を下ろす。これから始まるのは、誰にも知られてはならない孤独な暗躍だ。時空管理局情報部の准将である両親にさえ、この異常な魔力と未来の記憶を悟られるわけにはいかない。表向きは「ただの9歳の少女」として日常に溶け込みながら、裏では圧倒的な実力と知略をもって悲劇の芽を摘み取る。それが、紗雪の選んだ「救済」の形だった。

決意を胸に秘め、一等空尉としての鉄の意志を纏って、彼女は自室の扉を開けた。

階段を降りるにつれて、一階から微かな物音が聞こえてくる。朝食の準備をする食器の触れ合う音。ベーコンが焼ける香ばしい匂い。そして、穏やかなハミング。

その音と匂いが、紗雪の歩みを不自然に鈍らせた。

リビングの扉を押し開ける。

キッチンに立つその背中を見た瞬間、紗雪の思考は完全に停止した。

「あ、紗雪。おはよう。今日は随分と早起きね」

振り返り、優しく微笑みかける女性。時空管理局情報部准将という厳格な立場にありながら、家庭では常に娘に深い愛情を注いでくれた、愛する母。

――未来において、紗雪が永遠に失ってしまった存在。

(ああ……)

一等空尉としての分厚く冷徹な仮面が、音を立てて崩れ落ちていく。

どれほどの地獄を這いずり回り、どれほどの血と涙を流してきたことか。もう二度と会えないと、あの温もりを感じることは永遠にないと、とうの昔に絶望していた。その母が今、確かな命の灯火を宿して、目の前で朝食を作りながら微笑んでいる。

「お母、さん……っ」

無意識のうちに足が動き、紗雪は小さな体で母の腰に勢いよくしがみついた。

「きゃっ、ちょっと紗雪? どうしたの、急に……」

母の体温。微かに香る、懐かしくて優しい匂い。エプロン越しに伝わる、確かな心臓の鼓動。

それは、未来の記憶が作り出した都合の良い幻影でも、デバイスに残された過去のログでもない。本物の、生きた母のぬくもりだった。

「うぁ……ぁああ……っ! ああぁぁぁっ!!」

気づけば、紗雪は声を上げて泣き崩れていた。

大人としての理性も、軍人としての規律も、圧倒的な魔力も、今の彼女には何の役にも立たなかった。ただの9歳の少女として、限界まで張り詰めていた心の糸が完全に切れ、とめどない涙があふれ出した。

「えっ、紗雪!? 怖い夢でも見たの? 大丈夫、お母さんはここにいるわよ」

母は驚きながらもすぐにコンロの火を止め、しゃがみ込んで紗雪の小さな体を強く抱きしめ返してくれた。その背中を、温かい手で何度も何度も撫でてくれる。その無償の愛情に包まれながら、紗雪は母の胸に顔を埋め、幼子のように大声でしゃくり上げた。

(守る……絶対に、私が守り抜いてみせる……!!)

嗚咽を漏らし、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、紗雪は母の腕の中で、静かに、しかし熱い誓いを立てる。

この温もりを二度と奪わせはしない。あの悲しい未来は、私が全て叩き壊す。

そのために私は帰ってきたのだ。一等空尉としての誇りと、未来で培ったすべての魔法技術を懸けて、この優しい日常を完璧に護り抜く。

「……うん、もう大丈夫だよ、お母さん」

やがて紗雪はゆっくりと顔を上げ、袖で涙を乱暴に拭った。赤く腫れた目を細め、心配そうに覗き込む母へ、とびきり無邪気で、けれどどこか頼もしさを感じさせる笑顔を向ける。

「ちょっと怖い夢を見ちゃっただけ。……お腹空いた! 今日のご飯、なぁに?」

「もう、びっくりさせないでよ。今日は紗雪の好きなフレンチトーストよ」

ほっと胸を撫でおろす母の笑顔を見つめながら、紗雪は心の中で相棒たる白銀のデバイス『ノーブル・コレッジ』に呼びかけた。

さあ、始めよう。誰も悲しまない、誰一人欠けることのない「救済」の物語を。

朝陽に優しく照らされたダイニングキッチン。

それは、一人の歴戦のエースが愛する家族の温もりを取り戻した瞬間であり、同時に、小さな魔法少女が希望の未来を切り拓くための、輝かしい幕開けであった。

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