魔法少女リリカルなのは ~コード・イレイザー~ 作:長谷川広軌
海鳴臨海特区の夜風が、不気味なほどの静寂を運んできた。
広域展開された魔力変換資質『消滅(イレイズ)』の絶対領域。その中では、高町なのはの桜色の魔力も、フェイト・テスタロッサの黄金の雷も、完全に息を潜めていた。
「バルディッシュの……魔力リンクが、繋がらない……?」
黒いマントを纏ったフェイトは、光を失い、ただの金属の塊と化した愛機を見つめて呆然と呟いた。傍らに立つ使い魔のアルフも、自らの身体を巡る魔力が一時的に完全に遮断されていることに気づき、戦慄の表情を浮かべる。
「なんてデタラメな魔法だい……! アタシらの魔力そのものを、空間ごと塗り潰すなんて……!」
「……これ以上は、やらせない」
二人の間に立ち塞がる芹葉紗雪が、かすれた声で告げる。
その姿は、歴戦の一等空尉としての威厳を保とうとしていたが、肉体の限界は誰の目にも明らかだった。
彼女の網膜では、ファイル「MOIRA網」のインターフェースが危険を示す真っ赤なエラーログを大量に吐き出している。広範囲の魔力事象を強制的に消去・維持するだけでなく、海鳴市全域の情報を処理するファイル「MOIRA網」を同時に稼働させ続けることは、未覚醒の9歳の脳神経にとって致死レベルのオーバーヒートを意味していた。
こめかみから流れる一筋の血。激しく上下する肩。
それでも紗雪は、白銀のデバイス『ノーブル・コレッジ』を杖代わりに地に突き立て、フェイトを鋭く睨み据えた。
「フェイト・テスタロッサ。……君が何のためにシードを集めているのか、私は知っている。だが、その先に君が望む『優しさ』はない。今すぐこの次元から手を引きなさい」
「……ッ!」
図星を突かれたフェイトの黄金の瞳が、激しく揺らぐ。
なぜ、会ったばかりのこの見知らぬ少女が、自分の目的を知っているのか。そしてなぜ、自分を倒すのではなく、こんなボロボロになりながら『止める』ためだけに力を使っているのか。
「母さんのために……私は、やらなきゃいけないのに……っ」
フェイトが魔力のないバルディッシュを握り直し、力なく一歩を踏み出そうとした、その時だった。
「……っ、ぁ……」
紗雪の視界が、唐突に明滅した。
『My Lord!! 脳内魔力処理領域、臨界点を突破! 生命維持機能に深刻なエラー——』
ノーブル・コレッジの悲痛な電子音声が途切れると同時に、紗雪の周囲を展開していた灰色のドーム(イレイズ結界)が、パリンッというガラスの割れるような音と共に霧散した。
限界だった。
分厚い軍人の仮面を被り、一人で全てを背負い込もうとした9歳の少女の糸が、完全に断ち切られた瞬間だった。
「あ……」
紗雪の身体から力が抜け、白銀のバリアジャケットが光の粒子となって解けていく。糸の切れた操り人形のように、冷たいコンクリートの地面へと倒れ込もうとする小さな身体。
ドンッ、という嫌な音が響く直前。
「紗雪ちゃんッ!!」
魔力の拘束から解放されたなのはが、全速力で駆け寄り、崩れ落ちる紗雪の身体を両腕でしっかりと受け止めた。
「紗雪ちゃん! しっかりして、紗雪ちゃん!!」
「……な、の……は……」
なのはの腕の中で、紗雪はうわ言のように呟く。
もはやそこに、冷徹な一等空尉の面影はなかった。熱を出し、ただ苦しそうに顔を歪める、年相応の幼い少女の顔。
「ユーノ君! 紗雪ちゃんが、すごく熱いよ! 治癒魔法、早くっ!」
「わ、わかってる! 今やるよ!」
フェレットの姿から少年の姿へと戻ったユーノが駆け寄り、紗雪の額に手を当てて柔らかな緑色の光を灯す。
その光景を、フェイトはただ立ち尽くして見ていた。
自分を魔法で圧倒した強敵が、自壊するように倒れ込んだ。今なら、シードを奪うことも、彼女たちを攻撃することも容易い。
アルフもフェイトを庇うように前に出て、威嚇の姿勢をとる。
「……フェイト。今のうちだよ。あいつらが隙だらけの間に……」
「アルフ」
フェイトは、静かに首を横に振った。
彼女の視線の先では、なのはが必死の形相で紗雪の手を握りしめている。
先ほどまで紗雪に魔法を消され、突き放され、敵対していたはずのなのはが、なぜ自分を傷つけた相手のためにあそこまで必死になれるのか。フェイトには全く理解できなかった。
「……どうして」
フェイトの口から、無意識に疑問が漏れる。
「どうして、あなたはその子を助けるの? その子は、あなたの魔法を消して、あなたを攻撃したのに」
その声に、なのはは顔を上げた。
涙目で、それでも真っ直ぐな、夜の星のように澄んだ瞳が、フェイトを正面から捉える。
「……そんなの、関係ないよ」
「え……?」
「紗雪ちゃんは、私を傷つけないように必死だった。今だって、あなたが悲しい顔をしてるから、あなたと私を戦わせないように……一人で無茶をしたんだよ」
なのはは、眠る紗雪の熱い額の汗を拭いながら、フェイトへ向けて優しく、けれど力強く言った。
「あなたも、戦いたいわけじゃないんでしょう?」
「ッ……!」
フェイトの胸の奥を、なのはの言葉が鋭く、温かく貫く。
『悲しい顔』。先ほどの紗雪の言葉と、目の前のなのはの言葉が重なり合い、フェイトの張り詰めていた心をグラグラと揺さぶった。
これ以上ここにいたら、自分が立っていられなくなる。
戦うための理由が、足元から崩れていく。
「……アルフ、帰るよ」
フェイトはそれだけを絞り出すように言うと、黒いマントを翻し、空間転移の魔法陣を展開した。
「フェイトちゃん! 待って、あなたともちゃんとお話し……っ!」
「……今日は、もういい。でも、シードは絶対に渡さない」
金色の光に包まれながら、フェイトは最後に一度だけ、なのはと、その腕の中で眠る紗雪の姿を強く瞳に焼き付けた。
敵。味方。そんな単純な言葉では測れない、未知の温かさと痛み。
「……高町、なのは」
初めてその名を口にし、フェイト・テスタロッサは夜の海鳴市から姿を消した。
残された港には、遠くから聞こえる波の音と、静かな月明かりだけがあった。
圧倒的な実力で全てを支配しようとした紗雪の孤独な戦いは終わり、ここから先は、誰もが傷つきながらも手を取り合う、本当の意味での『魔法少女たちの物語』が幕を開けようとしていた。