魔法少女リリカルなのは ~コード・イレイザー~ 作:長谷川広軌
目を覚ますと、そこは戦場の冷たいコンクリートの上ではなく、ふかふかのベッドの上だった。
(……ここは?)
芹葉紗雪は、重い瞼をゆっくりと開けた。
見慣れない天井。微かに漂ってくるのは、硝煙の匂いではなく、甘い焼き菓子とコーヒーの優しい香り。
「あ、起きた?」
横から聞こえた明るい声に、紗雪は弾かれたように上体を起こそうとした。しかし、全身の筋肉が悲鳴を上げ、激しい頭痛が襲いかかってくる。
「だ、ダメだよ急に起き上がっちゃ! まだ熱があるんだから!」
「……高町、なのは……」
ベッドの脇で心配そうに覗き込んでいたのは、私服姿の高町なのはだった。ここは彼女の自宅であり、喫茶店『翠屋』の二階にある彼女の自室だ。
紗雪は現状を把握しようと、無意識に脳内の戦術情報支援システムへアクセスを試みる。
(ファイル「MOIRA網」 、状況報告を……)
『……My Lord. 演算領域の修復率は現在40%。ファイル「MOIRA網」の広域リンクは一時的に制限されています。……マスター、今はただ、休息を』
枕元に置かれていた白銀のデバイス『ノーブル・コレッジ』から、ひどく労わるような電子音声が微かに響いた。
どうやら、自分は魔力変換資質『消滅』の広域展開によるオーバーヒートで完全に気を失い、なのはとユーノによってここまで運ばれたらしい。
「君は……馬鹿か。正体不明の、しかも君に攻撃を仕掛けた相手を、自分の家に運び込むなど……どんな罠があるか分からないだろう……!」
紗雪は軍人としての防衛本能から、あえて厳しい言葉を投げかけた。
しかし、なのはは全く気にする様子もなく、ホットミルクの入ったマグカップを紗雪の手に優しく握らせた。
「罠なんてないよ。だって紗雪ちゃん、私を庇ってあんなにボロボロになったじゃない」
「あれは庇ったわけではない! ただの戦術的な判断で……!」
「ふふっ、そっか。でも、ありがとうね」
とびきりの笑顔で返され、紗雪は完全に言葉に詰まってしまった。
未来の時空管理局でどれほど過酷な尋問訓練を受けても、この『高町なのは』という9歳の少女が放つ、無防備で純粋な光属性の圧力には、全く対抗できる気がしなかった。
紗雪は諦めたようにため息をつき、温かいミルクに口をつけた。甘くて優しい味が、限界まで張り詰めていた神経に染み渡っていく。
「……それで、あの金髪の少女はどうなった。空間転移で逃げたところまでは覚えているが」
「うん。あの後、ユーノ君と一緒に探査魔法をかけてみたんだけど、海鳴市の外側に反応が消えちゃってて……」
なのはは少し俯き、マグカップの縁を指でなぞりながら、ポツリと呟いた。
「あのね、私……フェイトちゃんのこと、もっと知りたいな」
ブフォッ!!
紗雪は思わず、口に含んだホットミルクを吹き出しそうになった。
むせ返りながら、信じられないものを見るような目でなのはを見つめる。
「……フェイト、ちゃん?」
「うん。フェイト・テスタロッサちゃんって言ってたから」
「いや、そう名乗ってはいたが! 君、自分がつい先ほどまで彼女に何をされていたか覚えているか!? 斧のようなデバイスで真っ二つにされかけたんだぞ! なぜ命を狙ってきた相手に『ちゃん』付けで呼べるんだ!?」
未来の記憶を持つ紗雪からすれば、フェイトがいずれ仲間になることは知っている。しかし、現時点のなのはにとっては「得体の知れない危険な敵」以外の何者でもないはずだ。
「だって、フェイトちゃん……すっごく悲しそうな目をしてたから」
なのはは、紗雪の剣幕にも全く動じることなく、ただ真っ直ぐに窓の外の青空を見つめていた。
「『母さんのために』って言ってた。誰かのためにあんなに悲しい顔をして戦う女の子が、本当の『悪い子』だなんて、私には思えないよ。……それにね」
なのははクルリと振り返り、ベッドに座る紗雪の小さな両手を、自分の両手でギュッと包み込んだ。
「紗雪ちゃんだって、同じだよ」
「……え?」
「一人で無茶して、誰にも頼らないで……あのフェイトちゃんとお話しする時も、自分が傷つくことばっかり選んでた」
温かいなのはの手のひらから、言葉以上の想いが伝わってくる。
「私は、魔法のことはまだよく分からないけど。でも、紗雪ちゃんやフェイトちゃんが、一人で泣きそうな顔をしてるのだけは分かるよ。だから……」
なのはの瞳に、不屈の星の光が宿る。
「私にも手伝わせて。紗雪ちゃんが護りたいもの、一緒に護るから。そして、フェイトちゃんの悲しいお顔も、二人で一緒に止めに行こう?」
未来の知識。圧倒的な魔力消去の力。一人で全てを解決するという「最適解」。
紗雪が絶対だと信じていたそれらの武器は、高町なのはの「対話と優しさ」という最強の魔法の前に、完全に武装解除されてしまった。
「……君は、本当に」
紗雪は包み込まれた両手を見つめながら、ポロリと、一筋の涙をこぼした。
それは、朝のキッチンで母の温もりに触れて号泣した時以来の、張り詰めた糸が解けた涙だった。
「……君のような規格外の馬鹿は、時空管理局の歴史書(ログ)をいくら探しても、どこにも載っていない」
「えへへ、褒め言葉として受け取っておくね!」
照れ笑いするなのはの前で、紗雪は小さく息を吐き、そして、不器用に微笑み返した。
「……分かった。私の負けだ、高町なのは」
ここから先は、一人で背負う修羅の道ではない。
ファイル「MOIRA網」 の演算結果にも存在しなかった新しい未来。孤独な空の先導者が、初めて誰かの手を取り、「仲間」と共に歩み始めた瞬間であった。