魔法少女リリカルなのは ~コード・イレイザー~ 作:長谷川広軌
深夜の芹葉家。
自室の窓から音もなく滑り込んだ紗雪は、小さく息を吐きながらバリアジャケットを解除した。
「……ふぅっ」
光の粒子が散り、普段のパジャマ姿に戻った瞬間、9歳の幼い肉体に強烈な疲労感がのしかかってきた。ベッドに倒れ込むように腰を下ろし、紗雪はジンジンと熱を持つこめかみを指で揉みほぐす。
『My Lord. バイタルに軽微な低下を確認。魔力変換資質「消滅」の行使による、演算領域のオーバーヒートです。速やかな休息を推奨します』
「分かっている。……やはり、大規模な魔力事象のデリートは、ノーブル・コレッジだけでなく私の脳にも相当な負荷がかかるな」
白銀のデバイスをサイドテーブルに置きながら、紗雪は自嘲気味に呟いた。
彼女が放った「イレイズ・シュート」は、決して無敵の魔法ではない。相手の魔力構造を瞬時に読み取り、それと完全に相反する消去の術式を構築・衝突させるという、狂気じみた高度な演算(プロセス)を要する技だ。
未来の時空管理局で3万時間にも及ぶ地獄の訓練を耐え抜いた彼女の精神だからこそ制御できているが、未成熟な9歳の脳神経には物理的な限界がある。連続使用は愚か、一回の行使だけでも頭が割れるような痛みを伴うのだ。
「しかし、無駄な消耗ではなかった。あの子……高町なのはには、これで魔法の恐ろしさと、圧倒的な実力差が刻み込まれたはずだ」
紗雪は目を閉じ、ファイル「MOIRA網」のインターフェースを脳内に呼び出す。
海鳴市の魔力動態マップ。高町なのはの生体波長は、彼女の自宅である『翠屋』へと無事に帰還していることを示していた。
(もう二度と、あの子が戦いの場に出てくることはない。……出させない)
紗雪はそう固く信じ、痛む頭を抱えながら深い眠りへと落ちていった。
だが、歴戦の一等空尉である彼女は、この時代の「高町なのは」という少女の、本質的な恐ろしさをまだ理解していなかった。
◇ ◇ ◇
同じ頃。高町家のなのはの自室。
ベッドの上に座り込んだなのはの横で、フェレットの姿をしたユーノが、彼女の頬についた煤を治癒魔法で丁寧に拭き取っていた。
「……ごめんね、なのは。僕が巻き込んだせいで、あんな怖い思いをさせて」
ユーノの声は震えていた。
異世界の魔導師である彼から見ても、芹葉紗雪の放った魔法は異常だった。魔力を相殺するのではなく、事象そのものを問答無用で消し去る術式。あんな規格外のバケモノに、平和な世界で育った普通の女の子を立ち向かわせるわけにはいかない。
「もう君は手を出さなくていい。あのシードは僕がなんとか――」
「止まったんだよ」
ユーノの言葉を遮るように、なのはがポツリと呟いた。
俯いていた彼女がゆっくりと顔を上げると、その瞳には恐怖の涙など一切浮かんでいなかった。あるのは、夜空の星のように真っ直ぐで、強い光。
「え……?」
「あの凄く冷たい光……私の魔法を全部消しちゃった、灰色の光。あれね、私の顔のすっごく近くで、ピタッて止まったの」
なのはは、自分の胸元で赤い光を明滅させている『レイジングハート』を両手でギュッと握りしめる。
「あの人は、私を傷つけるつもりはなかった。ただ『帰れ』って、それだけを伝えるためにあんな凄い魔法を使ったんだと思う。……すごく悲しそうな顔をして」
「なのは……君、まさか……」
ユーノは息を呑んだ。
圧倒的な力で心を折られたはずの少女が、魔法の恐怖よりも先に、相手の『心』を読み取ろうとしている。
「あんなに強い力を持ってるのに、全然楽しそうじゃなかった。一人で全部背負って、誰も近づけさせないようにしてるみたいだった」
なのははベッドから立ち上がり、窓の外、紗雪が消えていった夜空を見上げた。
「私ね、あの人のこと、もっと知りたい。どうして一人で戦おうとするのか、お話ししたい」
「ダメだよ! 会話なんて成立しなかったじゃないか! 君の魔法も全然通じなかったし……っ」
「うん。今の私の魔法じゃ、全然届かないってわかった」
なのははクルリと振り返り、ユーノへ向けて、そして自分自身へ向けて力強く宣言した。
「大きな魔法を一回撃つだけじゃ、全部消されちゃう。だったら……消しきれないくらい、もっとたくさん同時に魔法を撃てるようになればいいのかな。それか、あの子が魔法を消すよりも早く、いろんな方向から攻撃するとか……」
「……え?」
ユーノは我が耳を疑った。
たった一度、手も足も出ない完全敗北を喫した直後だというのに。この9歳の少女は、絶望するどころか『どうすればあの理不尽な消去魔法を掻い潜り、彼女に一撃を届かせることができるか』という戦術(アプローチ)を、無意識のうちに構築し始めていたのだ。
「そのためには、もっと魔法のこと、知らなきゃいけないよね」
なのははニコリと笑い、ユーノの前にしゃがみ込んだ。
「だからユーノ君。私に魔法の使い方、ちゃんと教えて? あの人と、本当の意味で『お話し』をするために」
決して折れない心。そして、相手を理解するために、相手の盤上(ステージ)まで泥臭く這い上がろうとする強烈な意志。
未来の知識と圧倒的な演算能力を持つ孤独な空の先導者。
彼女が「最適解」だと信じて下した手加減は、図らずも、未来の『不屈のエース』を最速で覚醒させるための、最も強烈な劇薬となってしまっていた。