ンフィーレアを護衛しながら薬草を採取した一行は、無事にエ・ランテルへと帰還しようとしていた。
リ・エスティーゼ王国とバハルス帝国。
二つの国家の間に位置し、その国土を分かつ境界線ともいえる巨大な山脈――アゼルリシア山脈。
その南端を包み込むように広がっているのが、トブの大森林である。
広大な森には、大きく分けて三つの勢力圏が存在する。
東側。
西側。
そして南側。
ンフィーレア、漆黒の剣の四人、そしてセバスが薬草採取を行っていたのは、その南側の領域だった。
本来ならば、この場所は決して安全な場所ではない。
森の中では数え切れないほどのモンスターたちが日々、縄張りを奪い合っている。
弱肉強食。
生きるために他者を殺し、殺されればそこで終わる。
そんな過酷な生存競争が、何百年、何千年と繰り返されてきた場所。
その一方で、トブの大森林には王国では簡単に手に入らない希少な薬草が数多く存在している。
薬師であるンフィーレアにとって、ここは宝の山だった。
だが、宝を手に入れるためには相応の危険が伴う。
だからこそ、ンフィーレアは護衛を雇ったのだ。
――しかし。
今回に限って言えば、その危険はほとんど存在していなかった。
一行の周囲には、モンスターの影がまったくない。
鳥の鳴き声すら妙に少なく、森の中は不自然なほど静まり返っている。
まるで森そのものが、彼らの存在を避けているかのようだった。
その原因は、一人の老人にあった。
セバス・チャン。
彼は自身のオーラを可能な限り抑えている。
それでも隠し切れない。
ただそこに立っているだけで、竜を思わせる圧倒的な力強さが滲み出ている。
それを感じ取ったモンスターたちは、本能的に理解していた。
――近づいてはいけない。
――あれは自分たちが戦っていい存在ではない。
だから彼らは逃げた。
姿を見せることすらなく、遠くへと離れていった。
それは、トブの大森林の支配者の一角と呼ばれる存在でさえ例外ではなかった。
トブの大森林南部。
そこに絶対的な縄張りを築いている一体の魔獣がいる。
南の大魔獣。
森の賢王。
そう恐れられる存在だ。
その姿は、一見すると巨大なハムスターそのものだった。
だが、普通のハムスターと同じだと思えば、その瞬間に命を失う。
その巨体から伸びる四肢には鋭利な爪が備わり、長い尻尾は鞭のようにしならせて敵を打ち据えることができる。
全身を覆う毛皮は恐ろしく硬く、まるで鎧のようだった。
身体そのものが武器。
それが、この巨大な魔獣だった。
そして何より恐ろしいのは、その小さな黒い瞳だった。
つぶらな瞳。
可愛らしいとも言えるその目の奥には、確かな知性が宿っている。
敵を見極め、相手との力の差を理解し、勝てない相手とは決して戦わない。
その知性と圧倒的な戦闘能力によって、彼は森の賢王と呼ばれていた。
アダマンタイト級冒険者を葬り去ることすら可能なほどの力。
もちろん、アダマンタイト級は人間側に存在する最高位の冒険者階級だ。
それ以上の区分がない以上、同じアダマンタイト級であっても実力には大きな差がある。
だから正確には――
「ほとんどのアダマンタイト級冒険者を倒せるほどの力を持つ魔獣」
それが、この巨大ハムスターを表現するのに最も近いだろう。
そんな森の賢王が。
今――
腹を見せていた。
完全なる降参のポーズである。
しかも、その目の前には誰もいない。
「……あの御仁、怖いでござる」
巨大な身体を地面に伏せ、腹を丸出しにしたまま、魔獣は小刻みに震えていた。
「強すぎるでござる……」
彼は、セバスの存在を誰よりも早く察知していた。
強者であるからこそ、相手の強さを理解できる。
一瞬だけ向けられた、竜のように鋭い視線。
それだけで全身の毛が逆立った。
――あれは駄目だ。
――戦ってはいけない。
――あの目で睨まれた瞬間、全身に風穴を開けられる。
そう、本能が叫んでいた。
「腹を見せて服従のポーズを取ったら、命を助けてくれるのでござるかね……?」
当然、セバスはそんなことを知る由もない。
しばらくすると、一行の気配が遠ざかっていく。
巨大ハムスターは、ピクピクと震えながらその気配を確認した。
「……行ったでござるか?」
恐る恐る頭を上げる。
何度も周囲を確認し、もうセバスの気配がないことを理解すると、ようやく身体に鞭を打つようにして立ち上がった。
そして森の奥へ。
自分の寝ぐらへと、一目散に帰っていった。
森の賢王ですら逃げ出すほどの存在。
それが、セバスだった。
⸻
やがて一行は、何事もなくエ・ランテルへと帰還した。
街の門をくぐった瞬間、ンフィーレアはようやく緊張を解いた。
薬草採取は無事に終了。
護衛任務も問題なく完了。
漆黒の剣の四人とセバスは、ンフィーレアを自宅まで送り届ける。
そして、そのままンフィーレアの家へと上がることになった。
「今日は本当にありがとうございました」
ンフィーレアが頭を下げる。
漆黒の剣の面々も、それぞれ疲労を感じながら家の中へと入っていった。
セバスも静かにその後へ続く。
――その瞬間だった。
「もらったよ~~!」
声と同時に、一つの影が弾丸のように飛び出した。
時速百キロを超える速度。
人間の目では捉えることすら難しい。
狙いはセバスの片目。
手に握られているのは、鋭利なスティレットだった。
奇襲を仕掛けた女――クレマンティーヌは、完全に不意を突いたと思っていた。
だが。
「……」
セバスは反応した。
あまりにも自然に。
まるで、最初からそこに攻撃が来ることを知っていたかのように。
伸ばされた拳がスティレットを正面から捉える。
――バキンッ!
金属が砕け散った。
クレマンティーヌの表情が凍る。
「……え?」
次の瞬間。
セバスの拳が、クレマンティーヌの顔面へと迫った。
「ちょっと!! はやっ!!」
クレマンティーヌは慌てて身体を捻る。
「武技――流水加速!」
彼女の身体が滑るように動いた。
セバスの拳が頬を掠める。
あと僅か。
ほんの数センチでも遅ければ、顔面を完全に粉砕されていただろう。
着地したクレマンティーヌの額から、冷たい汗が流れ落ちる。
今まで感じたことのない感覚。
恐怖。
「……なんだ、あの老人は?」
クレマンティーヌはセバスを見つめた。
強い。
それは分かる。
だが、強いなどという言葉では足りない。
自分が今まで戦ってきた強者とは、何かが違う。
セバスは静かに拳を下ろした。
「ほう。外してしまいましたか」
穏やかな声。
その声音には、怒りすらなかった。
だからこそ恐ろしい。
「ならば――」
セバスが一歩踏み出す。
その時だった。
「待て」
低い声が響いた。
姿を現したのは、一人の魔法使いの老人。
そして、その手には禍々しい宝珠が握られていた。
セバスの視線が、その宝珠へ向く。
クレマンティーヌよりも強い危険な気配。
いや。
正確には、宝珠そのものから異様な力を感じる。
「……ん?」
セバスの目が細くなる。
「あの宝珠は危険な気配がしますね。早めに割っておきますか」
その言葉に――
死の宝珠が焦った。
『やばい』
意思を持つ宝珠。
インテリジェンスアイテムである死の宝珠は、目の前の老人の危険性を本能的に理解した。
『あの老人は強者だ。どうして私の真の力に気づいた?』
普通ならば、クレマンティーヌを攻撃するはずだ。
なのに。
この老人は自分を見ている。
『どうして私を狙う? 私はただのアイテムだろう!』
いや。
違う。
この男には、見抜かれている。
『このままだと……私が消滅してしまう』
ならば。
蓄えてきた力を使うしかない。
死の宝珠には、一つの切り札があった。
『カジット!』
所有者であるカジットとは、死の宝珠を介して意思を通わせることができる。
「なんだ?」
カジットは焦っていた。
目の前には化け物がいる。
クレマンティーヌの攻撃を、素手で止めた老人。
あれほどの存在を相手に、どうやって逃げ切るのか。
そんな絶望的な状況の中で、相棒の声が頭に響いた。
『提案がある』
「何?」
『このままだと、私共々死んでしまう』
カジットは息を呑んだ。
『ならば、私の力を全てお前に託す』
「……何だと?」
『それでお前はエルダーリッチとなり、さらなる力を手に入れろ。そうすれば、ここから逃げ切る算段もつくかもしれない』
「そんなことができるのか?」
『ああ。私はインテリジェンスアイテムだ。私を信じろ。私の全ての力を受け入れるんだ』
カジットは迷った。
だが、ここで死ぬわけにはいかない。
まだ目的を果たしていない。
まだ死ぬことはできない。
「……恩に着るぞ。死の宝珠よ」
カジットは目を閉じた。
そして、抵抗することなく死の宝珠の力を受け入れる。
「ぐっ……!」
瞬間。
身体が大きく震えた。
「うわぁああああああああっ!!」
凄まじい苦痛。
全身の存在そのものが引き裂かれていくような感覚。
「苦しい……! この痛みは……どういうことだ!」
カジットは叫んだ。
「死の宝珠……お前……何を――!」
その瞬間。
死の宝珠から発せられていた気配が変化した。
禍々しい。
そして――愉悦に満ちている。
『ギギギギ……!』
『馬鹿が!』
死の宝珠の声が笑う。
『お前ごときに、私の全てを託すわけがないだろう』
「な……に……?」
『お前に協力していたのは、私が力を蓄えるためだ』
『お前を利用して、力を蓄えた』
『そして、いつか――』
そこで死の宝珠は笑った。
『まあ、いい』
『お前はここで終わりだ』
『私の踏み台となってくれたな』
『感謝するぞ』
『なかなかにいい余興だった。退屈しなかったぞ!』
「貴様――――ぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
カジットの絶叫が響き渡る。
だが、その声は途中で途切れた。
カジットの魂は、完全に消滅した。
そして――
「ふむ」
その場に立っていたのは、もはやカジットではなかった。
「無事にアンデッドになれたか」
骨の身体。
禍々しい魔力。
以前とは比較にならないほど濃密な死の気配。
「エルダーリッチとしての器を得るとはな」
自分自身の新たな身体を眺めながら、死の宝珠は満足そうに呟いた。
「私はスーパーリッチを目指していたんだが……まあ、しょうがない」
口元に笑みが浮かぶ。
「だが、これだけの生贄があれば、スーパーリッチにもなれるだろう」
そして、かつての所有者へ向けて。
「カジット。お前の数年の努力は、私が有効活用するから安心しろ」
⸻
一同は、呆然としていた。
あまりにも突然の出来事だった。
クレマンティーヌは、すでにいない。
セバスと一度相対し、剣と拳を交えたことで理解していた。
――勝てない。
あれは、自分が戦っていい相手ではない。
だからクレマンティーヌは、セバスから気配を消し、一目散に逃走していた。
セバスにとっては、クレマンティーヌよりも死の宝珠のほうが危険だった。
もし、死の宝珠が強力な魔法を放てばどうなる?
背後には、ンフィーレアと漆黒の剣の面々がいる。
護衛対象を守らなければならない。
だからこそ、最初に危険度の高い宝珠を破壊し、その後で術者を仕留める。
それがセバスの判断だった。
だが――
カジットが突然苦しみ始めた。
何事かと判断を迷った一瞬。
セバスは反射的に、ンフィーレアと漆黒の剣の面々を守るため、防御姿勢に入った。
その一瞬が、決定的だった。
死の宝珠はカジットの身体を奪い、エルダーリッチへと変貌した。
そのレベルは――40。
人間の冒険者たちからすれば、圧倒的な存在だった。
「……っ」
漆黒の剣の面々の身体が震える。
足に力が入らない。
膝が笑う。
歯がカチカチと鳴る。
頭では逃げろと理解しているのに、身体が言うことを聞かない。
それは単純な恐怖ではなかった。
もっと根源的なもの。
魂の奥底。
生物としての本能そのものに刻み込まれる、絶対的な格の差。
目の前にいる存在は、自分たちより遥かに上位の存在なのだと、身体そのものが理解してしまっている。
セバスもまた、目の前の存在を見据えていた。
「……これは不味いですね」
いつもの穏やかな表情。
だが、その瞳には僅かな警戒が浮かんでいる。
「私一人で対処できるのでしょうか」
セバスは考える。
逃げたクレマンティーヌの気配は、すでに遠ざかっている。
このまま追えば、捕捉することが難しくなる。
一方で、目の前の死の宝珠を宿したエルダーリッチを倒すのであれば、方法はある。
ンフィーレアたちの安全を無視して動くことができるのなら――
一瞬で距離を詰め、相手を倒す。
それは可能だ。
しかし、背後には動くことすらできないンフィーレアと漆黒の剣の面々がいる。
彼らを置いて動くことはできない。
それに。
短い間とはいえ、一緒に旅をした。
セバスの中には、彼らに対する少なからぬ情が芽生えていた。
だからこそ、迂闊には動けない。
両者が睨み合う。
沈黙。
緊張。
そして――
先に動いたのは、死の宝珠だった。
「禁呪――発動!」
膨大な魔力が周囲を震わせる。
「第七位階魔法!」
「遅い!」
セバスの姿が消えた。
否。
あまりの速度によって、視界から消えたように見えただけだった。
次の瞬間。
セバスの拳が、死の宝珠の顔面を捉える。
――だが。
「……!」
かわされた。
拳は頬を掠めただけだった。
セバスの瞳が僅かに見開かれる。
クレマンティーヌとの戦闘で、一度拳をかわされた。
そのためセバスは、すでに気を引き締めている。
今度はそれなりの速度で攻撃した。
それを――
かわされた。
「これは……」
セバスは相手を観察する。
「魔法の効果でしょうか?」
相手の能力が測れない。
一方。
死の宝珠は舌打ちをしていた。
「ちっ!」
想像以上だ。
強い。
あまりにも強い。
このままでは、予定していた作戦を実行することすら難しい。
ならば――
撤退するしかない。
「グレーター・テレポーテーション!」
魔法が発動する。
死の宝珠は、その場から姿を消した。
次の瞬間。
そこにあったのは、カッツェ平野だった。
「危なかった……」
死の宝珠は周囲を見回す。
「相手が油断してくれていたから、運良く逃げられた」
もし相手が本気で追ってきていたら。
もしあの一撃が完全に直撃していたら。
そう考えるだけで、背筋に嫌なものが走る。
「相手は戦士だ」
ならば。
「追ってこれる確率は低いだろう」
とはいえ、念には念を入れる必要がある。
もっと遠くへ逃げなければならない。
その前に――
「ここで第七位階魔法の儀式をしてからだな」
さらなる強さを求めて。
かつて失った力を取り戻すために。
死の宝珠は、禍々しい儀式を開始した。
⸻
一方。
クレマンティーヌは、エ・ランテルの街中を駆け抜けていた。
「なんだ、あんなの……聞いてないぞ!」
息を切らしながら、必死に走る。
「どこから湧いてきた、あの化け物!」
先ほどの老人の姿が脳裏に焼き付いている。
セバス。
あれは化け物だ。
逃げなければ。
絶対に勝てない。
クレマンティーヌは、自分の知る強者たちと比較していた。
「……あれは、最奥にいる隊長を超えた、あの女と同じ強さ……」
いや。
違う。
「……それ以上だ」
背後を振り返る。
当然、誰もいない。
だが、それでも恐怖が消えない。
「逃げないと……」
幸いにも、カジットが最後の力を振り絞って死の宝珠の力を暴走させた。
その影響で大量のアンデッドが湧き出したはずだ。
あの怪物も、今頃はそちらの対処で手一杯になっているだろう。
そうでなければ困る。
そんなことを考えながら走っていると――
「止まれ!」
王国の治安維持隊が姿を現した。
異変を察知した兵士たちが集まり始めている。
「殺傷沙汰だ! 包囲しろ!」
クレマンティーヌの顔が歪む。
「遅い!」
自分の速度に自信がある。
漆黒聖典の中でも上位に位置する身体能力。
普通の兵士程度なら、捕まるはずがない。
「私を捕まえられると思うなよ!」
クレマンティーヌは加速する。
進路を塞ぐ十人ほどの王国兵士。
彼女は迷わなかった。
左右に逃げるのではない。
正面突破。
「邪魔だ!」
スティレットが閃く。
一人。
二人。
三人。
次々と兵士たちの首筋が切り裂かれる。
十人の兵士たちは、反応する間もなく倒れていった。
クレマンティーヌはそのまま走り続ける。
だが、焦りは消えない。
「このままだと……!」
どうすればいい。
高位の冒険者が来れば。
あるいは――
「ガゼフ・ストロノーフが来たら……?」
それだけではない。
この騒ぎが本国に伝われば、逃亡中の自分が犯人だと気づかれる。
そして、追手が来る。
風花聖典。
自分が所属していた特殊部隊。
「……時間の問題だ」
逃げ続ければ逃げ続けるほど、自分で居場所を教えているようなものだ。
このままでは追い詰められる。
「どこで間違った……」
クレマンティーヌは歯を食いしばる。
「あんな化け物が潜んでいるなんて、聞いてないぞ……!」
握り締めた拳が震える。
「クソォー!」
薄暗くなり始めたエ・ランテルの街路。
夕暮れの光が建物の隙間から差し込み、長い影を地面へと伸ばしている。
その中を、クレマンティーヌはひたすら駆け抜けていった。
逃げるために。
生き残るために。