法国が危険な国であることは分かった。
しかし、それだけで判断を下すには、まだ情報が足りない。
昨日の会議で決まった方針は単純だった。
――焦らず、少しずつこの世界の情報を集める。
そして情報を得ながら、自分たちの地盤を固めていく。
今の段階で大国との全面的な対立を招く必要はない。
モモンガはそう考えていた。
ナザリック地下大墳墓という絶対的な拠点を持っているとはいえ、この世界について何も知らないという事実は変わらない。
ならば、まずは知ることだ。
敵を知り、世界を知り、そして自分たちがどう動くべきなのかを決める。
そのためにも、新しく建国したアインズ・ウール・ゴウン国の基盤を整える必要があった。
ナザリック地下大墳墓。
その執務室で、モモンガは机に向かっていた。
机の上には大量の書類が並んでいる。
建国に伴って必要となる法制度、行政組織、税制、外交方針、領土管理――。
本来なら、一介のサラリーマンだったモモンガには到底扱いきれない量である。
しかし、そこはナザリック。
デミウルゴスをはじめとする優秀な知恵者たちが草案を作成し、それをモモンガが確認していくという形が取られていた。
「なるほど……こういう意味か」
書類を読み進めながら、モモンガは小さく呟く。
転移してから、どうも頭の回転が以前より良くなった気がする。
以前なら少し難しいと思っていた言い回しも、今では不思議なほどすんなりと理解できる。
とはいえ、全てが分かるわけではない。
「この言葉は……どういう意味だったかな」
そんなときに頼りになるのが――。
「アルベド、これはどういう意味だ?」
「はい。モモンガ様。こちらはですね――」
アルベドだった。
守護者統括。
そして今では、モモンガの王妃でもある。
アルベドの説明は非常に分かりやすかった。
言葉の意味だけではない。
その言葉が政治上どう使われるのか。
書類全体が何を意味しているのか。
アルベドは丁寧に説明してくれる。
そのおかげで、ここ数日だけでもモモンガの語彙量はかなり増えていた。
「……なるほど。そういうことか」
「はい。モモンガ様」
優秀な王妃に支えられながら、モモンガは少しずつ国王としての教養を身につけていった。
そんなところへ――。
「モモンガ様、ご機嫌麗しゅう存じんす」
「お前もな、シャルティア。それで、今日私の部屋に来た理由は何だ?」
シャルティアが入ってきた。
その表情はいつものようにどこか楽しげだ。
「もちろん、モモンガ様のお美しいお姿を目にするためでありんすぇ」
「シャルティア!」
即座にアルベドが反応した。
「このモモンガ様の王妃である私の前で、その発言! 己が分を弁えなさい!!」
「アルベドこそ、でありんす」
シャルティアも負けてはいない。
「わらわより早くモモンガ様と結ばれて、挙げ句の果てにはモモンガ様を唆して王妃になるなんて。いきなり円卓の間で発表された時は、目が飛び出るかと思いんした」
「それは――何かしら?」
アルベドの笑顔が固まった。
「王妃である私に不満があるのかしら?」
「いいえ」
シャルティアはあっさり答える。
「モモンガ様の言は絶対。不満なんてありんせん」
そして、にやりと笑った。
「ただし、モモンガ様は一国の王。妻が一人だけというのは、おかしいでありんしょう?」
「あなた……!」
アルベドの目が細くなる。
「まさか――側室を狙っているのね?」
「ふふふ」
シャルティアは楽しそうに笑った。
「モモンガ様がそうしろと言うなら、いつでも構わないでありんすよ」
「何を笑っているのかしら……」
アルベドはモモンガへ向き直る。
そして、静かに問いかけた。
「モモンガ様。側室なんて……取りませんよね?」
声音は優しい。
しかし――目が怖い。
圧が凄まじい。
「も、もちろんだ」
モモンガは即答した。
「……しばらくは取らんよ」
「だそうよ」
アルベドは満足げにシャルティアを見る。
「シャルティア。用がないなら、出て行ってくれないかしら?」
「ふふふ」
シャルティアは最後にモモンガへ意味深な視線を送る。
「モモンガ様。いつか試してみたいのでありんしょう?」
「――っ!」
モモンガが言葉を失っている間に、シャルティアは楽しげに退出していった。
「……」
「……」
部屋に残されたのはモモンガとアルベド。
モモンガは、シャルティアから会うたびに誘惑されていることを思い出す。
「……あいつ、本当に懲りないな」
そしてアルベドは、サキュバスとしての感知能力によってモモンガの微妙な変化を察知していた。
「シャルティア……!」
アルベドは悔しそうに拳を握る。
「あなた……くぅぅぅ……!」
モモンガは、なんとも言えない空気の中で再び書類へ視線を戻した。
――王としての仕事は、想像以上に大変だった。
それから数日後。
モモンガはカルネ村へと降り立った。
「三日ぶり……くらいだったか」
転移してから、それほど時間は経っていない。
護衛として配下を派遣しているとはいえ、実際に村へ足を運ぶのは久しぶりだった。
「モモンガ様!!」
村長が真っ先に気づいた。
満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
その声を聞きつけた村人たちも次々と集まってきた。
「モモンガ様!」
「我らの王!」
「救世主様!」
モモンガは少し照れながら村長を見る。
「少し遅くなったが、元気にしていたか?」
「はい、モモンガ様!」
村長は深々と頭を下げる。
「あなた様の支援のもと、村は無事に復興いたしました。本当にありがとうございます。このご恩を、どう返せばよいのか……」
「いや、それには及ばない」
モモンガは穏やかに答えた。
「王が民を救うのは当然のことだ」
その言葉に村人たちからどよめきが起きる。
「それでも恩を返したいというのなら――幸福を追求しろ」
モモンガは村全体を見渡した。
「我が国を幸福な国にするのだ」
「おお……!」
村長の目が潤んだ。
「本当に……良かった」
そして胸に手を当てる。
「私の判断は間違っていなかった」
村長はモモンガを見上げた。
「モモンガ様。私は――いや、カルネ村一同、あなた様に忠誠を誓います」
「それはありがたいな」
モモンガは笑う。
「だが、張り切りすぎるのもよくない。健康には気をつけるのだぞ、村長よ」
「――え?」
村長の顔が固まった。
「私の……健康を?」
「当然だろう」
「たかが村長の私を……心配してくださるのですか?」
声が震える。
「なんという……なんという……」
村長は涙を流しながら頭を下げた。
このお方こそ。
人々を幸福へ導く現人神。
いや――。
もはや自分にとっては、信仰を捧げるべき存在だった。
「モモンガ様……!」
一方その頃。
リ・エスティーゼ王国の都市、エ・ランテル。
帝国と王国、そしてスレイン法国へ通じる要所でもあるこの都市は、二重の城壁に囲まれた城塞都市である。
そんなエ・ランテルの大通りを、一人の老人が歩いていた。
純白の道着。
純白のグローブ。
白髪。
そして、老人とは思えないほど鍛え上げられた肉体。
ただ歩いているだけだというのに、周囲の空気が微妙に変化する。
「ここですかね」
老人――セバス・チャンは周囲を見渡した。
「さて……」
彼はナザリック地下大墳墓の執事。
そして今、モモンガから与えられた任務を遂行するため、エ・ランテルへ来ていた。
まずは冒険者組合。
扉を開ける。
「……」
騒がしかった室内が、一瞬で静かになった。
「なんだ……あのオーラ」
「強い……」
「あれはどれくらいの強さなんだ?」
「分からない……」
冒険者たちが口々に囁く。
セバスはそんな視線を意に介さず、カウンターへ向かう。
「さて、どうしたものか」
そして受付嬢へ告げた。
「冒険者登録をしたいのですが」
「は、はい! 少々お待ちください。ただいま!」
受付嬢は慌てて準備を始めた。
現在のセバスは、伝説級の道着とグローブを身につけた一流の拳士。
武者修行の旅を続け、世界を巡った末にエ・ランテルへ辿り着いた――という設定である。
その設定に説得力を持たせるかのように、セバスの立ち振る舞いには隙がない。
声音は優しげな老人。
だが、その内側に秘められた実力は、明らかに通常の冒険者の領域を超えている。
そして――。
「……」
受付嬢は密かにセバスを見つめる。
彫りの深い整った顔。
清潔感。
がっちりとした肉体。
威圧感があるのに、不思議と嫌悪感はない。
むしろ女性冒険者たちからも視線が集まっている。
「……渋い」
誰かが小さく呟いた。
エ・ランテルに、イケオジ冒険者が誕生しようとしていた。
リ・エスティーゼ王国の隣国、バハルス帝国。
その首都――帝都アーウィンタール。
中央には帝城。
そこから放射線状に様々な重要機関が配置されている。
現在の帝国は、皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エルニクスによって大きく変貌していた。
別名――鮮血帝。
彼の改革によってバハルス帝国は封建国家から専制君主制へと完全に移行。
国家権力は皇帝のもとへ集中している。
「無能はいらない」
それが皇帝の口癖だった。
中央集権化を進める過程で、多くの貴族が爵位を剥奪された。
反発もあった。
しかし、ジルクニフは圧倒的な才能によって次々と改革を成功させていく。
帝国は今、歴史上最も大きな繁栄を迎えようとしていた。
帝都の道路のほとんどはレンガや石で整備され、市民たちも活気に満ちている。
そんな帝都を――。
一人の老人が歩いていた。
白髪。
髭。
長いローブ。
一見すれば、どこにでもいる賢者のような老人。
だが、その正体は違う。
モモンガが中位アンデッド創造によって生み出した存在。
――スーパーリッチ。
レベルは44。
リッチの上位種にあたり、その魔法攻撃力は凄まじい。
今回、アインズ・ウール・ゴウン国の建国に伴い、帝国皇帝へ挨拶をするための使者として派遣されたのである。
デミウルゴスから得た情報によれば、皇帝の側近には宮廷魔術師フールーダ・パラダインがいる。
そしてフールーダは相手の魔法力を見ることができる。
だからこそ、モモンガはスーパーリッチを選んだ。
フールーダは第六位階魔法の使い手。
人類最高峰のマジックキャスターである。
ならば、第十位階魔法を使えるようなアンデッドを送り込めば、最初から過剰に警戒される可能性が高い。
だからこそ――。
「相手が萎縮しない程度」
「しかし、決して侮れない」
「そして、手を組んだ方がいいと思わせる程度」
その絶妙な強さとして、レベル44のスーパーリッチが選ばれた。
しかもスーパーリッチは、外見だけなら人間とほとんど変わらない。
人間の街へ入っても大騒ぎにはならない。
モモンガはそこまで考えた上で、隣国への先触れとしてスーパーリッチを送り出したのである。
――隣人への挨拶。
まずはそれだった。
そんな帝都の宿。
食事をしていた一団がいた。
ワーカーのチーム・フォーサイト。
ヘッケラン。
イミーナ。
ロバーデイク。
そしてアルシェ。
「――ううぇー」
突然、アルシェが食べたものを吐き出した。
「アルシェ!?」
イミーナが驚いて立ち上がる。
「どうしたの!?」
「ライオンズ・ハート!」
神官であるロバーデイクもすぐに魔法を使った。
「アルシェの精神を落ち着かせます!」
「どうしたんだ?」
リーダーのヘッケランは心配そうに尋ねる。
「喉でもつっかえたのか?」
しかし、原因は別にあった。
アルシェはたまたま窓の外を見ていた。
そして――。
そこにいた老人を見た。
白髪。
ローブ。
ただの老人にしか見えない。
だが、アルシェのタレントが反応した。
アルシェのタレント。
それは、帝国の宮廷魔術師フールーダと同じ――。
相手の魔法力を見ることができる力。
そして彼女の視界に映ったものは――。
「……」
第七位階魔法の輝き。
人間の限界を遥かに超える魔力。
フールーダの魔力量ですら、かつて見たときには恐ろしいと思った。
しかし。
今見えたものは――。
その百倍以上。
「化け物……」
思わず胃の中のものが逆流した。
「アルシェ、大丈夫?」
イミーナが背中をさする。
ロバーデイクの魔法によって、少しずつアルシェの精神は落ち着いていく。
しかし頭の中には、先ほど見た光景が焼き付いていた。
「……あれは、フールーダ様以上?」
あり得ない。
「第七位階魔法……?」
そんな存在がいるはずがない。
フールーダと会った時でさえ、その魔力量に当てられて恐怖を覚えた。
それなのに。
さっき見たものは、それを遥かに超えている。
「……きっと、見間違えたんだ」
アルシェはそう結論づけた。
疲れているのだ。
家族のことで悩み続けている。
だから、変なものを見た。
そうでなければ――。
あんな化け物が人間の街を歩いているはずがない。
エ・ランテル。
セバスは昼間、冒険者として活動していた。
しかし、それだけが任務ではない。
夜になると、別の仕事が始まる。
今回、モモンガから与えられた任務は複数あった。
まずは冒険者としてエ・ランテルの情報を集めること。
そして――。
この都市に存在する理不尽を調査し、必要であればそれを撲滅すること。
さらに重要なのが、犯罪組織の掌握である。
ただ潰すだけではない。
犯罪組織を掌握し、その組織を合法的な裏組織へと変える。
そして得られた資金を、アインズ・ウール・ゴウン国の財源として利用する。
モモンガの掲げる「理不尽の撲滅」。
そのためには、綺麗事だけでは国を維持できない。
だからこそ、セバスは動いていた。
そして、もう一つ。
――宗教。
ナザリック教をエ・ランテルへ広める。
ナザリック教では、高度なレベルの医療を受けられる。
病に苦しむ者。
治療を受けられない者。
そうした人々を救うことで、少しずつ信頼を積み上げる。
その後、冒険者としてセバス自身の名声を高め、自然な形でナザリック教を宣伝していく。
資金源には、掌握した犯罪組織が蓄えていた資金を利用する。
宗教部門には――。
ユリ・アルファ。
ルプスレギナ。
ソリュシャン。
彼女たちが神官として派遣されている。
補佐役として、顔をマスクで隠した白衣の人型モンスターを五体連れてきている。
すでに活動は始まっている。
エ・ランテルの各所で。
気づかれないように。
しかし、確実に。
ナザリックの手が広がっていく。
そして――。
「さて……」
夜のエ・ランテル。
セバスは静かに歩いていた。
「これもまた、モモンガ様の望まれる国のため」
その一方。
デミウルゴス率いる悪魔たちも、すでに犯罪組織の掌握へ動き始めていた。
アインズ・ウール・ゴウン国。
その建国はまだ始まったばかり。
だが、その裏ではすでに――。
新たな国家を支えるための無数の歯車が、静かに回り始めていた。