ーー平安の世。
人の世と妖の世、その境界が今より遥かに曖昧だった時代。京の都では、夜ごと怪異が起こり闇に潜む妖怪達は人の営みを嘲笑うように跋扈していた。
しかし、そんな妖達の間にも決して踏み入れてはならない領域が存在した。
それは東国より更に奥深く…幾重にも連なる山々の更に奥、その険しい峰々の一つーー"鈴鹿山"
其処は人の支配や侵入が及ばない…否…許されない領域
日が昇る日時でさえ深い霧に包まれ太陽は遮断され、夜になれば月明かりすら届かぬ深淵の闇が広がる。
古くから山に棲む妖怪達はその地を「悪鬼の都」と呼び人間達はその名を呼ぶ事すら躊躇い忌み嫌ったと言う。
ーー何故なら其処には1匹の大妖怪が存在したからに過ぎない
その妖怪はただの妖では無い。幾百、幾千の妖怪達の中でも気性が荒く武力に秀でた鬼達の中でも更に別格の存在。
酒呑童子、茨木童子、八瀬童子など日ノ本全土に名を轟かす大妖怪達…古強者である彼等を差し置いて鬼の頂点と呼ばれたーー"鬼神"
その姿を見た者は数少ない。其れこそ、かの三大鬼や羽衣狐…東のぬらりひょんなど大妖怪くらいのものであろう。
故にその容貌については、幾つもの伝承が残されている。
ある者は山よりも巨大な大鬼であったといい
ある者は人の姿をした恐ろしいほどに美しい男であったという
またある者はこの世で最も惨めで惨たらしい姿をした悍ましい鬼だった言った。
数ある伝承や言い伝えの中で唯一共通認識であった物が一つ存在した。
それはーー"奴1人で日ノ本を堕とせる程の強さ"
それだけである。数多くの力自慢の妖達が彼に挑み、砕け散った。彼は山そのものを己の領域とし、そこに棲む鬼や妖怪を次々と従えていった。
逆らう者には容赦がない。
力ある者には敬意を払い、弱き者には興味すら示さない。善悪という概念すら、彼には意味を成さなかった。
ただ己が強者であること。それだけが、彼にとっての理だった。やがて鈴鹿山には無数の妖怪が集まり始める。
妖に生まれ落ちた以上、性質というのか自らより格上とされる存在を負けると理解してなお挑まずにはいられない。彼自身もそんな妖達を好ましく思っていたこともまた事実であった。
朝廷へ向かう使者すら、その山を越えることを恐れた。
そして――
その噂は、ついに京へ届く。
「鈴鹿山に、人の力では討つことのできぬ悪鬼がいる」
朝廷は恐れた。妖怪が恐ろしいからではない。彼が、ただ人を襲う妖怪ではなかったからだ。
彼には――人間の国を脅かすほどの力があった。このまま放置すれば、鈴鹿山を中心とした妖怪の勢力が東へ、西へと広がっていく。
そうなれば、やがて京にもその牙が届く。朝廷は討伐を決意する。そして、その役目を託された男がいた。
彼の名は"坂上田村麻呂"
朝廷が誇る武人であり数多の戦場を駆け抜け、鬼や賊を討ち、その名を天下に轟かせた男である。
人の世において――最強と謳われた武人と呼ばれた彼はかの安倍晴明と比肩するほどの力を身につけていた。
そんな件の彼が鈴鹿山へ向かった。
そして、そこで始まった。それは即ちーー
人の中で最も強い者とと妖の中で最も強い者
決して交わるはずのなかった二つの存在による、壮絶な戦いが幕を上げた。幾度も刃が交わり山が裂け岩が砕け夜空を妖気と殺気が覆った。
田村麻呂が振るう神剣に対し、鬼は己の妖力のみで立ち向かった。
人の力では到底及ばぬ。そう思われた一戦であるが田村麻呂もまた、ただの人間ではなかった。
陰陽師では無い彼が何故これまで数多の妖怪を葬ってこれたのか…それには彼が持つ一刀の妖刀に隠されていた。
刀身は通常の刀よりも長く細身でありながら重厚な造りで出来ており炎が幾重にも重なったような刀文の奥に龍の牙を思わせる模様が彫られている。
【鬼哭(きこく)・"鬼丸国綱"】
特殊な合金と数多の陰陽師達が神力を練り込んだ至高の一振りである。
鬼丸国綱を所持した坂上田村麻呂は幾度倒されても立ち上がり、幾度傷を負っても大嶽丸へ挑み続けた。
それは戦いというより――意地のぶつかり合いだった。
人間が妖怪に屈するのか。妖怪が人間に討たれるのか。その答えを決めるための戦い。そして、その戦いには鈴鹿御前という一人の女も深く関わっていく。
妖と人、愛と裏切り、策略と力。…幾つもの因縁が絡み合い、長きに渡る戦いはついに終局を迎える。
最後に待っていたのは――
「…何故…何故避けなかった」
「…はっ…俺様に勝っといてなんて顔してやがる」
「…"大嶽丸"…貴様」
鬼の敗北だった。人の世に残された記録では、坂上田村麻呂が大嶽丸を討ち取った。鈴鹿山を支配していた鬼神は滅びた。
そう伝承には記された。
「…頼むぜ田村麻呂…アイツを護れるのは"人間である"テメェだけだ」
「…大嶽丸…俺は…俺はこんな結末など望んでいない」
「俺ぁ…惚れた女には弱いのさ」
英雄による悪鬼の討伐…人間達はこの一戦を訳した。
"大嶽丸"…鬼の頂点ても呼ばれた妖は皆が思うほど血も涙もない妖では無い。寧ろ彼をよく知る者達は知っているのさ。
あの鬼がーーどんな妖よりも"愛情"に飢えていた事を
己に牙を向ける者達には容赦しない…敵と定めた者には一切の躊躇もなく始末するだろう。だからこそ人間達は怯え妖達は畏怖の念を向ける。
その強大な力が振るわれる理由を知る者は少ない。彼が唯一愛した女がいた。伝承の中では妖でも人間とでも区別されていない美しき女性である。
彼女の名はーー"鈴鹿御前"
彼女と大嶽丸の間に何があったのか。それを正確に知る者は殆ど残ってはいない。ただ一つ…大嶽丸が坂上田村麻呂に敗れた背景にはこの女性が深く関与している。そして後世において吟遊詩人たちは、この戦いを歌にした。
絵師たちは、大嶽丸を恐ろしい鬼として描いた。物語を語る者たちは、彼を血も涙もない悪鬼として語った。
――それが、人間の知る大嶽丸だった。
だが――妖怪たちも知っていた。大嶽丸という存在が、ただ一度の敗北で消えるようなものではないことを。その名は恐怖として残りその力は伝説となった。
その生き様は、後世の妖怪たちに語り継がれた。
そして何より――大嶽丸には、血が残っていた。
討たれたのは一人の鬼。しかし、その血脈までは絶えることがなかった。大嶽丸の血を受け継ぐ者たちは、その後もひっそりと生き続けた。
だが、彼らは決して名乗らなかった。
"大嶽丸"と言うその誉の名を。なぜなら、それはただの名前ではなかったからだ。
大嶽丸という名を名乗ることは――
初代が築いた恐怖と伝説と無数の妖怪を従えた力。坂上田村麻呂と死闘を繰り広げた鬼神としての誇り。そして、最後には討たれた敗北さえも。その全てを背負うことを意味する。
だからこそ大嶽丸の鬼の一族は、長い年月の中でその名を封じた。
血だけを残し名だけを捨てた。何百年と言う年月の中その名は一族の中で禁忌となり、決して誰にも継がせてはならぬものとなった。
――だが時代が巡り再び妖怪たちが蠢き始めた頃。
一人の妖が生まれた。その子が産声を上げた瞬間一族の者たちは、言葉を失った。赤子でありながら、その身から溢れ出す妖気。
それは、他の誰とも違っていた。凄まじい…ただ凄まじいという言葉だけでは足りない。その妖気に触れた者は、本能的に理解した。
――この子供は、自分たちとは違う。
そして、一族の長はその子を見つめ――
遥か遠い過去にて鈴鹿山を支配した、一人の鬼の姿を思い出した。長い年月を経てなお、妖怪たちの記憶から消えることのなかった名前。
恐怖と畏敬の象徴であり日本の妖怪史に刻まれた、鬼神の名。そして一族の長は、禁じられていた言葉を口にする。
――大嶽丸…と
その瞬間封じられていた伝説が、再び動き始めた。初代大嶽丸が死んでから、幾星霜。誰一人として継ぐことを許されなかった、その名を。
ただ一人その子だけが許された。
血を継ぐだけではなく力を継ぐだけでもない。初代の名を背負う資格を持つ者として。
――彼は「大嶽丸」と名乗ることを許された。後に妖怪たちは、その男をこう呼ぶことになる。
二代目・大嶽丸。
それは、死んだ鬼の名を継いだだけの幼い妖ではない。かつて坂上田村麻呂と死闘を繰り広げた鬼神。
鈴鹿山を支配し、数多の妖怪を震え上がらせた怪物。そして――妖怪の歴史において、決して消えることのなかった伝説。
その名を再び世に刻む者。
これは――一度は終わったはずの大嶽丸の伝説が、再び始まる物語である。
時は流れ、平安の世から数百名の年月を超え人の世は幾度となく姿を変えた。刀が消え城が消え街道が変貌した。人々は山を切り開き道路を造り、鉄の道を敷き、空を飛ぶ術すら編み出したのだ。
かつては妖怪の存在を恐れ夜道を歩く事すら躊躇していた人間達は今や夜の闇を人口の光で照らし、山々にまでその生活感を広げている。
そして時代に倣うように妖怪達もその在り方を変えていった。人間の世に紛れ生きる者や、人間との共存を選んだ者、はたまた人間社会に馴染めず未だ対立している者など
妖怪の世界は人間の世界よりも遥かに広い。
表の歴史には決して記されることのない、もう一つの歴史。
その中で、今なお語り継がれている名がある。
――大嶽丸。
かつて鈴鹿山を支配した鬼神にひて酒呑童子、茨木童子、八瀬童子、羽衣狐、東の妖怪達を束ねるぬらりひょん。
それら数多の大妖怪達と並べてもなお、その名が持つ意味は特別だった。
古参の妖怪ほど、その名を軽々しく口にしない。何故なら――大嶽丸は、もう死んだ妖怪ではないからだ。
その血は今も続いている。
そして――その名を継ぐ者もまた、存在する。
場所は――現代の三重県。鈴鹿市や亀山市のさらに奥。人の生活圏を離れ、深い山々が幾重にも連なる場所…そこから滋賀県側へと伸びる鈴鹿山脈。
御在所岳、鎌ヶ岳、雨乞岳――人間達が観光地として訪れる山々の、そのさらに奥であり地図の上では確かに存在しているはずなのに、決して辿り着けない場所がある。
衛星写真にも登山地図にも人間の記録にも残されていない古き妖怪達だけが知る、鈴鹿山脈の深奥。
そこに――大嶽丸の領域は今も存在していた。
人間達は、その一帯をただの原生林だと思っている。
深い森と険しい岩山、濃い霧そして、時折響く雷鳴。だが妖怪達は知っている。あの山へ入ってはいけない。
正確には――大嶽丸の許しなく、その領域へ足を踏み入れてはならない。
山道から外れ、獣道すら消えた先にある巨大な岩壁を越え霧の中を進み幾つもの結界を抜けた、その先。
そこには――一つの巨大な屋敷が存在する。山そのものを削り出したような巨大な石垣とその上に築かれた、神木の門と門柱には古びた鬼瓦が据えられ、左右には巨大な灯籠が並んでいる。
だが、その屋敷は単なる古い日本家屋ではない。平安の建築様式を思わせる優雅な造りでありながら、戦国期の城郭を思わせる堅牢さを持ち、さらに現代の設備までもが自然に融合している。
広大な敷地には庭園が広がり、池には月が映る。樹齢数百年を越える桜と紅葉、竹林、そして屋敷の最奥には巨大な道場まで備えられている。
そこは住居であると同時に――大嶽丸一族の本拠地として古くから鈴鹿山に生きてきた鬼達と、その眷属達が暮らす場所であり屋敷の周囲には常に数多の妖気が漂い、夜になれば鬼火が灯る。
ーーしかしその日、そんな鈴鹿山の深奥へ、一人の少女が足を踏み入れていた。
人の手によって整備された登山道など、とっくに途切れている。舗装された道路もなく案内板もなければ、電波すら届かない。
ただ鬱蒼とした木々が生い茂り、巨大な岩々が行く手を阻む険しい山道が続いている。それでも少女は、迷うことなく"歩き慣れた"足取りで進んでいく。
少女の背中まで届く長い黒髪が、山から吹き抜ける風にさらさらと揺れる。
艶のある黒髪の長髪と切れ長の瞳。すっと通った鼻筋に、凛と結ばれた唇。女性にしては高い高身長と少女らしいあどけなさを残しながらも、その顔立ちは同年代の者達よりも遥かに大人びていた。
少女が身に纏っているのは、白い道着と濃紺の袴であり腰には一本の木刀が差されている。その姿は、現代という時代にはあまりにも古風だった。
少女の名は――坂上静香
かつて鬼神・大嶽丸を討った英雄、坂上田村麻呂。その血を受け継ぐ坂上家の一人娘である。坂上家は現代においても剣術道場を営んでおり、田村麻呂の時代から受け継がれてきた剣術を守り続けている。
当然、静香も幼い頃から剣を握りその腕前は、既に道場でも一目置かれるほど。
静香は慣れたように門を開け妖しい雰囲気のする屋敷を平然と進んでいく。広大な敷地内を奥奥と進んでゆきとある一室の前で立ち止まる。
静香は一度だけ息を整えた。
そして――
「……失礼します」
襖を開いた。 広い部屋には必要最低限の家具だけが置かれ、余計な装飾はほとんどない。
そして、その部屋の奥。大きな寝台の上に――一人の男が横たわっていた。
真紅と白が入り混じった長い髪と鋭く、それでいて恐ろしいほど整った顔立ち。人間離れした長身に鬼として鍛え上げられた巨大な体躯。その姿だけを見れば、妖怪というよりも神話に描かれた神そのもの。
だが――その美貌に惑わされてはならない。彼の身に宿る妖気は、見た者の本能に直接「死」を理解させるほどだった。
彼を見ても動じないどころか溜息すら吐いて見せた静香はゆっくりと彼へ近づいていく。
「……大嶽丸」
返事はない。静香は眉を僅かに寄せた。
「起きてください…もう…起きてーー」
そう言い寝息を立てる男…大嶽丸の頬に手を伸ばそうとした時
「え」
唐突に目を開いた大嶽丸が静香の手を取り寝具に彼女を押し倒した。
「久しぶりじゃねぇの"静香"」
「は、離してください大嶽丸!」
大嶽丸は静香の手首を掴んだまま口角を上げ嗤った
「一月ぶりにあった"旦那様"にその態度はねぇんじゃねぇのか?」
「誰が旦那様ですか!私は貴方の妻になった覚えはありません!良いから離してーー」
「つれねぇなぁ…俺ぁ…かの大妖怪…"大嶽丸様"だぜ…手に入れてぇもんは全部力尽くで手に入れる。」
「っ…」
静香の頬に手を当てて顔を近づける大嶽丸。いくら静香が武芸を勤しんでいるとはいえ人間の力は遥かに超えた妖怪…その中でも更に上澄中の上澄である大嶽丸を退かす程の力は静香には無かった。
目を閉じ2人の顔が重なる
ーーその瞬間
「主」
「「っ」」
襖の奥から新たな声が響いた。
「良いところで邪魔するじゃねぇか…"黒"」
「た、助かったわ"黒丸"」
「奥方も何時迄も戯れていないで早く起こしてくださいよ」
「だ、誰が奥方よ!?」
開いた襖の奥から現れたのは1匹の黒い子狼であった。 狼でありながら、その佇まいには獣特有の荒々しさよりも、長き年月を生きた者だけが持つ凛とした威厳があった。
その名は――"黒丸"
古き妖怪達の間では、別の名でも呼ばれている。
――"大口真神"
それは、日本の古い狼信仰に由来する名である。古来より日本では、狼は単なる野獣としてではなく、山を守る神聖な存在として畏れ敬われることがあった。
人間を襲う恐ろしい獣である一方で山中で人間を守り、悪しきものを退ける存在として語られることもあった。その狼に対する畏敬と恐怖が、やがて一つの神格として形を得たものこそ――
"大口真神"
人を喰らう獣ではなく悪を喰らう神。山を駆け、夜を見通し、邪なるものを嗅ぎ分ける神獣として伝承には記されている
だからこそ、古くから狼を祀る場所では、その姿を神の眷属として崇める風習も存在した。
だが――妖怪の世における黒丸は、それとは少し違う。
彼は神そのものではない。大口真神の血と性質を色濃く受け継いだ――狼妖怪
鈴鹿山という人の世から隔絶された土地で、遥か昔から生き続けてきた古き妖でありその寿命は人間の尺度では到底測れない。
そして長き年月の中で、彼の一族は幾度となく大嶽丸の一族に仕えてきた。
初代大嶽丸が鈴鹿山を支配していた時代から初代が死した後も。さらに時代が移り――二代目大嶽丸がその名を継いだ今も。
変わることなく、大口真神の子孫である黒丸はこの屋敷にいる。
ゆえに妖怪達からすれば――黒丸は単なる大嶽丸の部下ではない。
大嶽丸という鬼神の歴史そのものと生きる、相棒のような存在。
初代大嶽丸の姿を知りその最期を知りそして現在の大嶽丸が幼かった頃から、その成長を見届けてきた。
だからこそ彼は屋敷にいる妖怪達の中でも特別な立場にある。
主に対して遠慮がなく主を諫めることさえある。それを許されているのもまた――長い年月を共に過ごしてきたからに他ならない。
そもそも何故人間である…それも坂上田村麻呂の子孫である静香が大嶽丸の屋敷を訪れる事になったのか…それには先祖の時代から続く言い伝えによるものだった。
大嶽丸を討伐した英雄――坂上田村麻呂。
人の世に残された記録だけを見れば、それは一人の英雄が悪鬼を討ち取った、ただそれだけの出来事だった。
大嶽丸を討伐した坂上田村麻呂であったが本人を知る者達はあの一戦がどう言うものであったか十二分に理解していた。大嶽丸と坂上田村麻呂の間柄も伝承とは異なり決して悪くはなくどちらかと言うと愛した女を奪い合う好敵手のような立ち位置であった。
そして――地に伏したのは、大嶽丸だった。
それが意図した結果ではなかったとしても。田村麻呂にとって、大嶽丸を殺したという事実だけは変わらなかった。
しかし意図せぬ形で友を殺す事になった坂上田村麻呂はこの件を酷く悔い大嶽丸の死を決して喜ばなかった。
むしろ――その胸に残ったのは、深い後悔だった。
人の世では英雄として称えられ朝廷からもその功績を讃えられた。
だが、本人にとっては違った。 どれだけ人々から称賛されようとも。どれだけ「悪鬼を討った英雄」と呼ばれようとも。己が斬った男の顔だけは、決して忘れられなかった。
そして田村麻呂は、一つの決断を下す。
――せめてもの償いをしよう。
大嶽丸が残した一族を、絶やさせない。大嶽丸の血を受け継ぐ者達が、人間達から追われることのないよう陰ながら守る。
それが――友を奪った自分にできる、唯一の償いだと考えた。坂上家はその誓いを、代々受け継いでいくこととなった。表向きには、決して語られることのない一族の使命。
大嶽丸の血を継ぐ妖怪達が危機に瀕した時には、人の側から手を差し伸べる。
人間達が大嶽丸一族を討とうとした時には、その矛先を逸らす。 そして――もう一つ坂上家には、代々受け継がれる特殊な役目が存在した。
巫女を一人、選ぶこと。大嶽丸の魂と、その一族に対する贖罪の証として。
その巫女は、ただ祈りを捧げるだけではなく大嶽丸一族の傍に寄り添い彼らの存在を守り必要とあらば、妖怪と人間の間に立つ。
それは千年以上前に坂上田村麻呂が残した――
「友への償い」
そのものだった。長い年月の中で、坂上家の者達はその役目を受け継いできた。幾人もの娘が生まれ幾人もの巫女が、その役目を終えていった。
そして――今世の巫女が何を隠そう静香である。
今宵の巫女と大嶽丸は先祖に良く似ている。妖や人といった種族を偏見で見ない心を持っていた。そして初代に似て強欲・傲慢・天上天下唯我独尊を謳う大嶽丸は清い魂と女子でありながら武道を嗜なむ静香を好いた。
その結果が今のこの状況を表しているのである。
3人?は屋敷にある大広間の空間へと足を運んだ。そこに居るのは多数の妖達。皆が皆妖であり人間とは相反した風貌と雰囲気を漂わせている。
大嶽丸が上座に座りその隣に静香が居座り、黒丸は2人の背後に控えている。
「大嶽丸様」
鬼の1人が大嶽丸の前に跪き首を垂らし口を開く
「なんだ?」
「京より新たな報せが入りました」
「京?」
静香が僅かに眉を動かす。
鬼は頷いた。
「はい。近頃、京妖怪共の動きが妙に活発になっております」
その言葉に、広間の空気が僅かに変わる。
「京妖怪……」
静香が呟く。
すると黒丸が静かに口を開いた。
「今の京には、かつて羽衣狐が率いた妖怪達を中心とする勢力が残っております」
黒丸は淡々と続けた。
「古くから京都を根城とする妖怪達。奴らは人間社会の裏側に潜みながら、長きに渡って独自の勢力を築いてきた」
「……つまり、京を支配する妖怪達?」
静香が尋ねる。
「正確には、そう単純なものでもない」
答えたのは大嶽丸だった。
「京には京の秩序がある。妖怪の世界にも縄張りがあり、組織があり、古くから続くしきたりがある」
大嶽丸は頬杖をつきながら、退屈そうに言葉を続ける。
「そして――京だけが日本の妖怪社会ではない」
その言葉を受け、鬼が続けた。
「現在、東日本において最も大きな勢力を誇るのが――」
「"奴良組"…か」
静香はその名を聞いたことがある。妖怪達の間では、知らぬ者の方が少ない。
東の妖怪達を束ねる大組織でありその総大将は――"ぬらりひょん"
人の家へ勝手に上がり込み、食事を楽しみながら人間にはその存在を気取らせないという、妖怪の中でも異端とも言える存在。
しかし、その実態は違う。長き年月を生きた大妖怪であり、数多の妖怪を束ねる器を持つ男であり奴良組には、古くからぬらりひょんを慕ってきた妖怪達が数多く集まっている。
牛鬼に青田坊や黒田坊。首無や雪女や河童。
「奴良組は"あの半妖"が仕切ってるんだっけか?」
「「「…」」」
大嶽丸の言葉に配下の鬼達に緊張が走る。
「いえ…今は三代目…奴良リクオなる者が百鬼を率いているそうです」
大嶽丸の言葉に配下の鬼が応える
「あら?死んだのかあの半妖」
「なに?知り合いなのその人と」
「ん?知り合いってほどじゃあねぇんだが前に一度な」
大嶽丸は奴良組と遭ったことがある…いや厳密には奴良組の総大将である二代目"奴良鯉伴"と遭ったことがあるのだ。
ふらっとこの屋敷に現れたと思えば大嶽丸の酒を呑み、怒った配下達と大乱闘とやりたい放題してくれたのだ。
挙げ句の果てにはーー
『お前ら強いな。気に入ったぜ。俺の百鬼に入れよ』
大胆にも大嶽丸達を前に言い放つ鯉伴
「かっかっか!流石の俺様も笑っちまったぜ」
「笑い事じゃないですよ」
「その後はどうなったの?」
「あん?その後っていやぁもうーー」
『俺様に勝てたら考えてやるぜ?』
『その言葉忘れんなよ?』
言葉の通り大嶽丸と奴良鯉伴の火蓋が切って落とされた。鯉伴はぬらりくらりと大嶽丸の攻撃を交わし手に持つ刀を振るうものの、鋼鉄より硬い皮膚を持つ大嶽丸の皮膚を傷つける事は叶わず一進一退の攻防が続く。
「へぇ〜大嶽丸と戦えるなんてすごい強いのね。そのぬらりひょんって」
「バカ言うんじゃねぇよ静香。俺様が本気ならあんな奴屁でもねぇさ。」
「貴方とまともに戦えてる時点で十分化け物よ」
静香の言う通り、鯉伴は強かった。それこそ二代目大嶽丸がこの世に誕生して以来1番だったかもしれない程に
2人の戦闘は結局、大将を探しに現れた奴良組の傘下たちが押し寄せるまで続き完全決着とはならなかった。
「本当に凄いのね。一度見てみたいわ」
その言葉に反応するのは大嶽丸だ
「あん?」
「な、何よ?」
「随分と他の男を褒めるじゃねぇか」
静香が僅かに目を丸くする。
「だって気になるじゃない。貴方と引き分ける妖怪が居るなんて」
「そりゃ認めてやるさ。俺様とあそこまでやり合ったんだ。奴良鯉伴――あの男は確かに強ぇ」
そう言いながら、大嶽丸は静香の方へ身体を向ける。そして、口元に不敵な笑みを浮かべた。
「だがな――」
一歩、静香へ近づき頬に手を当て目線を交わす
「俺様の目の前で、他の男に色目を使うのは感心しねぇな」
「い、色目なんてーーんっ」
静香の言葉より先に大嶽丸が唇を奪った
「お前は俺様のものだ。ーー浮気は許さねぇぜ」
「……っ」
「俺様は欲張りなんでな」
大嶽丸はニヤリと笑う。
「一度手に入れたものを、他の奴にくれてやるほど物分かりのいい男じゃねぇんだ」
「…自分は私以外にも色目を使うくせに」
頬を赤くさせたまま拗ねるように呟く静香
「かっか!俺様は良いんだよ。男は女を侍らせる生き物だからな」
「なっ!貴方ーー」
痴話喧嘩を始めた2人を遮るように一際大きな配下の鬼が口を挟む。
「大嶽丸様」
立ち上がったのは巨大な体躯を持ち金色の角の鬼であり明らかに先ほどまでの鬼達とは雰囲気が違う。
「あん?"金鬼"か。どうした?」
鬼の名は"金鬼"と言い初代大嶽丸の時代から存在する「鬼神直属の四鬼将」でたる。ただし、初代が死んだ後も大嶽丸一族に仕え続け、二代目大嶽丸が誕生した際に改めて彼へ忠誠を誓った。
つまり――千年以上、大嶽丸の一族を守り続けている四体の鬼であり
そのため、妖怪社会では四鬼の名を聞くだけで警戒される。
酒呑童子や茨木童子のような大妖怪と比較しても、単純な妖力なら上位に位置する。
ただし、四鬼自身は自分達を「最強」とは考えていない。
何故なら――彼らには明確な基準があるから。
【四鬼全員で挑んでも、大嶽丸には勝てない】
それが彼らの共通認識であり彼等が大妖怪に匹敵しながらも大嶽丸を支え続けると誓った誇りと覚悟であるからだ。
「奴良組も"四国八十八鬼夜行"を倒し勢力を拡大しております」
「あん?あの化け狸、よりにもよって奴良組に喧嘩をふっかけたってのか」
「それだけではございません。先ほどそこの者が伝えた通り京妖怪共の動きも活発になってきております」
「…何が言いたい?」
「奴等の目的は恐らく"羽衣狐"の復活…総大将である奴を再び目覚めさせる事で百鬼を復活させようと動いているのかと」
「奴が復活しようが何しようがどうでも良い。所詮は化け狐…俺様に何かしようってんなら
ーーーー"消し炭にしてやるぜ"」
その瞬間、屋敷の背後に大きな落雷が発生する。
「ひっ」「「「っ!?」」」
大嶽丸から発せられる悍ましいほどの妖力に向けられていないはずの静香ですら歯を鳴らし体を震わせ、四鬼将と黒丸を除いた配下の鬼たちも同様の反応を示している
「…勿論我とて狐程度がどうこうできるとは考えておりません」
「…」
「…ですが見す見す奴ら(奴良組・京妖怪共)を見逃しておく必要も無いかと…ですのでお一つご提案を致します」
「…」
「我等と奴良組…一度邂逅のご機会をお作りになられませんか?」
「なに?」
「聞けば今は二代目奴良鯉伴が死んだとこでその息子の奴良リクオが総大将を勤めているそうです。何より奴には面白い噂がございます。」
「あん?」
「奴良組三代目…奴良リクオはぬらりひょんの血を四分の一しか受け継いでおらず日が沈み出す頃合いしか妖怪には成れないようです」
「「「…っ…わっはっは!!」」」
金鬼の言葉に配下の鬼を含めた妖怪たちは大笑いを始める。その笑みをは明らかに侮蔑を含んでいるのがわかる
「天下の奴良組も堕ちた者よのぉ!」「人間と餓鬼を拵えたツケだぜ!」「笑い話だぜこりゃあ!」
口々に侮蔑、嘲笑、軽蔑を孕んだ言葉を口にする
「…酷い」
人間である静香は顔を歪めてその光景を見つめる
『"おい"』
「「「っ!?」」」
大嶽丸の怒気を含んだ低い声が広大な屋敷に響き渡り、先程までとは違い明らかに"殺気"を含んだ妖気が笑っていた鬼達へと向けられる
「テメェらは俺様に喧嘩を売ってんのか」
「い、いえそんな!」「滅相も御座いません!」「な、何卒!?」
「俺様と静香の間に餓鬼が出来たらソイツは十中八九半妖として産まれるだろう…テメェらは俺の餓鬼も笑い者にする気か?」
「「「…」」」
誰一人、答えられない。大嶽丸はゆっくりと広間を見渡した。その眼差しには、先程までの愉快そうな笑みなど欠片も残っていない。
「人間の血が混じってようが、妖怪の血が混じってようが関係ねぇ。俺様が認めた者なら、それで十分だ」
大嶽丸は静香へ一瞬だけ視線を向ける。その瞳には、僅かながら優しさがあった。
だが――次に鬼達へ向けた視線には、凄まじい威圧が宿っている。
「それとも何か?」
口元が僅かに吊り上がる。
「テメェらは、俺様が人間を隣に置いてることに文句でもあんのか?」
「そ、そのような……!」
「なら二度と口にするんじゃねぇ」
奴良リクオが半妖だろうが、妖怪だろうが、人間だろうが――俺様にはどうでもいい」
大嶽丸は再び上座へ腰を下ろす。
「奴が自分の百鬼を率いるに相応しい器を持っているなら、それで十分だ」
そして、僅かに笑う。
「そもそも――」
大嶽丸は頬杖をついた。
「妖怪の血が少ねぇから何だってんだ?」
「……」
「血の濃さで強さが決まるなら、世の中は随分と楽だろうな」
その言葉に、金鬼の瞳が僅かに見開かれる。
「大嶽丸様……」
「俺様は強ぇ奴が好きだ」
その瞳に、いつもの傲慢な光が戻る。
「血筋も種族も関係ねぇ。俺様を楽しませてくれる奴なら、人間だろうが妖怪だろうが認めてやる」
そして――
「だからこそ、奴良リクオって男には興味が湧いてきた」
静香が顔を上げる。
「……会ってみたいの?」
「ああ」
大嶽丸は愉快そうに笑った。
「親父の鯉伴は、俺様と最後までやり合った馬鹿だ」
懐かしそうに目を細める。
「なら、その息子がどんな男なのか――この俺様自身の目で確かめてみるのも悪くねぇ」
「では……!」
金鬼が顔を上げる。
「奴良組との接触を?」
「ああ」
大嶽丸は立ち上がると、広間に集まった妖怪達を見渡した。
「ただし――」
その瞬間、凄まじい妖気が再び膨れ上がった。
「勘違いするなよ?」
誰もが息を呑む。
「俺様が奴良組と手を組むつまりは更々ねぇ…」
不敵な笑みを浮かべる
「だがーー俺の敵と判断した暁には」
大嶽丸の瞳が鋭く輝く。
「その日が奴等の命日となるだろうよ」
その言葉に誰もが一斉に頭を垂れた。
「「「……御意」」」
こうして――鈴鹿山を支配する鬼神と、東の妖怪達を束ねる奴良組。かつて二代目奴良鯉伴と拳を交えた大嶽丸と、その息子である三代目奴良リクオ。
二つの百鬼が――数十年の時を越え、再び交わろうとしていた。