ぬらりひょんの孫 ―鬼神の末裔―   作:心ここにあらず

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 奴良組の長い歴史が紡いできた関東一円の百鬼夜行、そして鈴鹿山の深奥に眠る鬼の頂点・大嶽丸率いる一族。

  この二つの異なる性質を持つ百鬼夜行の在り方と、大嶽丸がなぜ自ら奴良組の総本山へ足を運んだのか、その背景にある因縁と思惑が交錯する。

 

 

 

 

 

 

 日本の妖怪社会において、百鬼夜行という言葉が持つ意味は一様ではない。群れを成すことそのものが妖怪の本能であり、強大な力を誇示するための手段である場合がほとんどだ。

 しかし、その頂点に立つ者たちの思想や、群れを束ねる理念によって、百鬼夜行の形は大きく姿を変える。関東を牛耳る「奴良組」と、東国より更に奥深くの山々を統べる鈴鹿山の「鬼の百鬼夜行」。この二つは、日本の妖怪史において対極でありながら、どこか共鳴し合う特殊な在り方を持っていた。

 

 まず、東日本全域をその傘下に収める大組織――奴良組。

 

 その本質を語る上で欠かせないのは、彼らが単なる「恐怖による支配」を行っていないという点だ。一般的に、妖怪とは人間を脅かし、その畏れを糧として生きる存在である。

 しかし、奴良組の初代総大将であるぬらりひょんは、その常識を軽々と飛び越えてみせた。人間の家へ勝手に上がり込み、馳走を勝手に食べ、主人のように振る舞いながらも、その家の人間には決して本当の恐怖を与えず、むしろどこか滑稽ですらある振る舞いで妖怪たちを率いた。

 恐怖で縛るのではなく、情と絆で結ぶ。仲間を仲間として扱い、己の縄張りに暮らす者たちを守る。そして、必要とあらば同じ妖怪でさえ救うという「仁」の気風。それこそが、奴良組が他のどのような百鬼夜行とも一線を画す理由であった。

 

 そしてそれは二代目である奴良鯉伴の代になっても、その気風は変わらなかった。

 

 人間を嫌わず、むしろ人間という種族の儚さや強さを知る血筋が、奴良組の圧倒的な求心力の源となっていた。そして現在、三代目を継ぐべき立場にある奴良リクオは、人間としての優しさと、妖怪としての鋭い「畏」の二面性を持ちながら、未熟さにもがきつつも仲間を守るための道を歩んでいる。奴良組の百鬼夜行とは、つまり「人間と妖怪の共生、あるいは調和」を内包した、温もりと強さが同居する巨大な群れなのだ。

 

 

 これに対し、大嶽丸が率いる鈴鹿山の百鬼夜行は、まったく異なる理の元に成り立っている。

 

 鈴鹿山は、人間の支配や侵入が一切許されない、日ノ本でも随一の「悪鬼の都」と呼ばれた領域である。そこに集う者たちは、かつて坂上田村麻呂と死闘を繰り広げた初代大嶽丸の伝説を受け継ぎ、力こそが正義であるという絶対的な強者の理に縛られている。善悪の概念はなく、ただ己が強者であること、そしてその強大な主である大嶽丸に絶対的な忠誠を誓う者だけが許される世界だ。

 

 大嶽丸自身、他者をいたずらに慈しむような甘さを持ってはいない。気に入らぬ者は容赦なく叩き潰し、敵と定めた者は一分の迷いもなく始末する。冷酷無比でありながら、圧倒的な武力と、どこか底抜けの傲慢さを併せ持つ鬼神。その周りに集まるのは、金鬼をはじめとする千年の古強者や、大口真神の血を引く黒丸など、妖怪社会の底が知れない上澄み中の上澄みばかりである。

 

 鈴鹿山の百鬼夜行は、情ではなく「絶対的な力と、魂の共鳴」によって結ばれた、剥き出しの純度を誇る最強の群れであった。

 

 

 

 この「仁の関東」と「力の鈴鹿」。

 

 水と油のようでありながら、どちらも一世代前の当主同士(二代目奴良鯉伴と二代目大嶽丸)が拳を交え、互いの実力を認め合ったという因縁を持つ。だからこそ、この二つの百鬼夜行が再び交わるとき、それはただの挨拶では済まされない空気を纏っていたのである。

 

 

 鈴鹿山の深奥から、二代目大嶽丸が自ら足を運び、奴良組の総本山へ乗り込んできた理由。それは、単なる縄張りの不可侵条約の確認でもなければ、東西の覇権を争うための宣戦布告でもなかった。

 

 第一の理由は、やはり「血の記憶と宿命」にある。

 

 かつて初代大嶽丸が坂上田村麻呂と戦い、散り際に見せた想いや、人間である坂上家との間に結ばれた千年の契り。そして、現代に生きる坂上家の巫女・静香が、大嶽丸の許に寄り添っているという奇妙な縁。人間の血と妖怪の血が交わることの意味を、大嶽丸は誰よりも深く理解していた。だからこそ、同じように人間の血を四分の一受け継ぎ、半妖として生まれながらも東の総大将として百鬼夜行を率いる奴良リクオという存在は、大嶽丸にとって無視できない興味の対象だったのだ。

 

「人間の血が混じってようが、妖怪の血が混じってようが関係ねぇ。俺様が認めた者なら、それで十分だ」

 

 かつて配下の鬼たちがリクオの半妖としての側面を嘲笑ったとき、大嶽丸が激昂した理由がそこにある。自分自身、人間の血を引く静香を伴侶の如く傍らに置き、種族の垣根を超えた強さを知る彼にとって、血の濃さだけで格を測るような器の小さい物言い許すわけにはいかなかった。

 

 と同時に、親父である奴良鯉伴と死闘を演じたあの男の息子が、今どのような顔をして百鬼夜行を背負っているのか。それを自分の目で確かめなければ気が済まなかったのである。

 

 第二の理由は、妖怪社会全体を揺るがす「不穏な気配」に対する、大嶽丸なりの探りであった。

 

 鈴鹿山の奥深く、人間たちの目を欺きながらも、大嶽丸は全国の妖怪たちの動きを敏感に察知していた。東西の均衡が崩れ始め、闇の中で何かが蠢き始めているという予感。それを確かめるために、ただの伝聞ではなく、自ら足を運んで東の総大将の器を測る必要があったのだ。

 

 

 奴良組の本拠地、その大広間に席を移した二つの百鬼夜行の頭首たち。上座に座る初代・ぬらりひょんと、その隣に構える大嶽丸。そして、対面には緊張の面持ちを崩さない三代目のリクオ、さらにその側には静香や氷麗、氷華、幹部たちの姿があった。

 

重苦しい沈黙を破ったのは、大嶽丸の隣に控える金鬼、あるいは屋敷の空気を敏感に察知した者たちの報告だった。

 

「――奴良組の皆様。事の次第をお耳に入れたほうがよろしいかと」

 

 金鬼が低く、しかし響く声で口を開いた。その表情には、普段の荒々しさとは異なる、冷徹な警戒の色が浮かんでいる。

 

「…ようやく本題に入ったか」

 

 ぬらりひょんが片肘をつき、煙草の煙を見つめるような気だるげな視線を向ける。

 

「はい。――京の都の動きが、尋常ではありません」

 

 その一言に、広間の空気が一気に凍りついた。

 

「京妖怪じゃと……?」

 

 ぬらりひょんが眉をひそめる。かつて奴良組が死闘を繰り広げ、羽衣狐を頭首として京都を恐怖のどん底に陥れたあの京妖怪たちの名前が、再びこの場に持ち出されたからだ。

 

「…どうやらお前は知らねぇようだな。…」

 

 引き継ぐように、大嶽丸が鋭い紅の目をリクオに向ける。

 

「お前たちの父親の代、いや、それよりも昔から、奴らは人間の世の裏側に張り付き、腐った血脈と底知れぬ怨念を糧に生き延びてきた。そして今、京の闇の底で、再び不気味な脈動が始まっている」

「脈動、って……」

 

 氷麗がゴクリと唾を呑み込む。

 

「奴等らの目的は一つしかねぇよ」

 

 大嶽丸は冷ややかに笑った。

 

「…もしや…」

「――"羽衣狐"…あの化け狐の完全復活、そして、かつて奴らが成し得なかった『都の完全掌握』だ。あいつらはな、長い眠りから覚め、再び百鬼夜行を組織し、今度は関東にまでその牙を剥こうと企んでいる」

「羽衣狐だと?」

「……」

 

 何も知らぬリクオは首を傾げぬらりひょんが煙管を置き、細められた眼光の奥に凄まじい歴戦の殺気を宿らせる。

 

「京の化け狐どもめ。あの時、わしらが引導を渡してやったというのに、懲りない連中じゃのう」

「オメェが甘い顔をして見逃したからだぜ、ぬらりひょん」

 

 大嶽丸は鼻で笑うが、その表情に油断の色はない。

 

「だが、今回はただの厄介事じゃ済まねぇ。奴らは単独で動いているわけではない。四国の化け狸どもを片付けたお前たちの隙を突くように、全国の反主流派の妖怪たちを裏で手玉に取り、大きなうねりを作ろうとしている」

「ちょっと待ちやがれ」

 

 大嶽丸とぬらりひょんの会話にリクオが割って入る

 

「さっきから何を話してやがる」

「あん?」

「その羽衣狐ってのは何者だ?俺や奴良組とどんな関係があるってんだ」

 

 リクオの疑問は当然だ。何せ奴良組と京妖怪…ないし羽衣狐や安倍晴明との因縁はリクオが生まれる遥か昔の話である

 

「箱入りにもほどがあんだろ…」

 

 リクオの表情や言動に大嶽丸率いる百鬼は呆れの表情を浮かべている

 

「…なんだってんだ」

「おい黒」

 

 ため息を吐いた大嶽丸は黒丸を呼び出し、中央に大狼が現れる

 

「はっ」

「この甘ちゃんに色々と教えてやんな」

「…承知いたしました」

 

 黒丸の鋭い黄金色の瞳が、リクオの全身を捉える。その佇まいは、数多の修羅場を潜り抜けてきた古き神獣の威厳そのものだった。

 

「お前の父親――奴良鯉伴は、自らの血筋と宿命に抗いながらも、奴良組の『仁』を貫いた。だが、お前たちの前に立ちはだかる闇は、そんな生易しいものじゃない」

 

 黒丸の言葉が、広間の空気をさらに凍りつかせる。

 

 そして語られる四百年前の原点

 

 四百年前、京の都を血の海に沈め、人間を喰らい尽くそうとした羽衣狐。

 

――羽衣狐。それは、千年の時を生きる大妖怪であり古来より、人の世に姿を現しては、ひとりの人間を依代としてその身に宿り、そして時が来れば別の肉体へと移り変わる転生体である。

 

 そしてその度に喰らうのは――人間の「生き肝」。人が生きることで生み出す生命力。その肉体に宿る命。そして、人間が抱く欲望や執念、怨念であり羽衣狐は、それらを喰らい、自らの妖力へと変えていった。

 

 故に――彼女にとって「時間」とは、老いを意味しない。千年という歳月そのものが、彼女を強くしひとつの肉体が滅びても、羽衣狐という存在は滅びない。

新たな依代を得て蘇り、また人の命を喰らい、さらに力を蓄える。

 

 

――転生――捕食――蓄積…それを幾度となく繰り返してきた。そして長き年月の果て、彼女はついに九尾の狐へと至った。

 幾度もの転生を繰り返し、千年にわたって蓄え続けてきた妖力、その象徴。

 

 すなわち――羽衣狐の九尾とは、千年という時間そのものが形を得た姿なのである。ゆえに、その妖力は桁違いであり一撃一撃に込められる妖力と圧倒的な生命力。幾千もの命を喰らって得た力。そして、幾度もの転生によって培われた経験。

 

 それらすべてが、ひとつの妖怪へと凝縮されている。

 

 羽衣狐とは――ただ強大な妖怪なのではない。

「生きた年月そのものを力へと変える妖怪」であり一人の人間が一生をかけて積み上げるものを、彼女は千年という歳月をかけて積み上げてきた。

 

 だからこそ――彼女と相対するということは、単なる一匹の妖怪と戦うことではない。千年という時間そのものと、戦うことに等しいのである。

 

 そしてそれを阻んだのが、若き日の初代総大将・ぬらりひょんだった。人間の姫を巡る因縁から始まったその戦いは、妖怪の頂点同士による凄絶な潰し合いであり、奴良組の「人間を守る百鬼夜行」という理念の原点となった。

 

 そして訪れた二代目・奴良鯉伴の悲劇。かつて大嶽丸と拳を交えた二代目・奴良鯉伴。彼と羽衣狐の間には、ただの敵対以上に残酷な因縁が存在した。妖怪と人間、そして転生を繰り返す化け狐の呪縛。鯉伴が歩んだ数奇で切ない運命の裏には、常に羽衣狐、そしてその背後に潜む「真の黒幕」の影があった。

 

「羽衣狐の執念は一代で消えるような生易しいものではない。奴らは今、人間の生血と怨念を啜り、完全なる復活――『鵺』の誕生を目論んでいる。お前がいくら逃げようとも、その血脈と『百鬼の主』という座は、京の化け狐どもとの決着を許さない」

 

 黒丸の語る言葉の重さに、氷麗たちは息を呑み、リクオは悔しそうに拳を握り締めた。

 

「それが……俺たち奴良組が背負ってきた戦いってわけか」

「そうだ。奴らは今、四国の化け狸どもを片付けたお前たちの隙を突くように、全国の反主流派の妖怪たちを裏で手玉に取り、大きなうねりを作ろうとしている。京妖怪の目的はただ一つ――羽衣狐の復活、そして都の完全掌握だ」

「……羽衣狐、か」

 

 リクオが歯をくいしばる。自分が直面している戦いのスケールの大きさに圧倒されながらも、その瞳に宿る光は消えていなかった。

 

「……人間社会にも影響が出るということ?」

「かもな」

 

 大嶽丸は氷麗を一瞥し、すぐにリクオへと視線を戻す。

 

「妖怪が動けば、いずれ人の世の理も歪む。人間の血を引くお前なら、その不気味さが身にしみて分かるはずだ」

 

 リクオは拳を強く握りしめた。四国八十八鬼夜行との戦いを経て、ようやく「奴良組三代目」としての自覚を持ち、仲間たちを守ると誓った矢先。その背後で、より強大で、より禍々しい京妖怪の影が忍び寄っているという現実。

 

「俺たちを……奴良組を潰すために、奴らは動いてるってことか」

「潰す?…んな緩ぃことで終わるかよ」

 

 大嶽丸は立ち上がり、その巨躯から放たれる圧倒的な「畏」で広間全体を圧倒した。

 

「奴らは、お前たちが築いたこの『仁の百鬼夜行』そのものを否定しに来る。恐怖と血の支配こそが妖怪の真の姿だと証明するためにな」

 

 静寂が支配する広間の中で、リクオはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、昼間の温和な少年の面影はなく、夜の総大将としての冷徹な光と、仲間を守るという揺るぎない決意が宿っている。

 

「……上等じゃねぇか」

 

 リクオの声が、静かに、しかし力強く響いた。

 

「京妖怪がどう動こうと、奴良組を…俺の仲間を脅かす奴は、大妖怪だろうが魑魅魍魎だろうが俺が叩き潰す」

 

 そのリクオの返答を聞いた瞬間、大嶽丸はこれまでにないほど深く、そして不敵に口角を吊り上げた。

 

「言うじゃねぇか…」

「…大嶽丸」

「だが…お前に羽衣狐は殺せねぇ」

「…なに?」

 

 大嶽丸の言葉にリクオは眉間に皺を寄せ怒気を募らせる。

 

「…何だとテメェ…もう一度言ってみやがれ」

 

 リクオの喉の奥から絞り出されたような声は、怒気と悔恨で微かに震えていた。

 三代目としての誇り、仲間を守ると誓った覚悟、そしてつい先ほど胸に宿したばかりの決意。そのすべてを鼻で笑われたかのような侮辱に、少年の瞳孔が怒りで収縮する。

 

「聞こえなかったか?お前に羽衣狐は倒せねぇって言ってんだ。」

「っ…」

 

 大嶽丸はあろうことか、呆れたような、あるいは心の底から興味を失ったような冷ややかな眼差しでリクオを見下ろした。

 

「それどころか、その辺の道端に転がってるような雑魚の京妖怪にすら、今のままじゃ勝てるか怪しいな」

「っ……ふざけんな……!」 

 

 これ以上の侮辱はあるまい。

 大嶽丸の放つ言葉は、ただの悪口ではない。リクオが心のどこかで感じていた自身の「未熟さ」という図星を、冷酷なまでに突き立てる刃そのものだった。

 

 怒りに任せてリクオの右手が一瞬で腰の刀へと伸びる。

 抜刀された刃が、夜の帳を映したような鈍い光を放ちながら、大広間の空気を切り裂いた。

 

「若!」

「総大将!」

 

 氷麗や青田坊、黒田坊など周囲の奴良組幹部たちが悲鳴のような声をあげる。

 

 相手は鈴鹿山を支配し、かつて二代目・鯉伴とすら互角に渡り合ったとされる本物の鬼神。そんな化け物に真正面から斬りかかるなど、無謀を通り越して自殺行為に他ならなかった。

 

「おっと、いい面構えだ」

 

 大嶽丸は微動だにしない。ただ、腰掛けた上座から、面白そうに片方の口角を吊り上げるだけだった。

 

 リクオの身体から、半妖としての、そして「畏」を纏おうとする若き総大将としての気が爆発的に溢れ出す。

 

「――てめぇのその傲慢な態度を、俺がへし折る!」

 

 踏み込んだ床板がバキリと悲鳴を上げ、リクオの姿がかき消えた。

 

 人間と妖怪の狭間に生きる者が絞り出した全霊の一閃。それは間違いなく、今のリクオが放てる最大最強の攻撃だった。風を切り裂き、大嶽丸の首筋を狙って真っ直ぐに振り下ろされる刃。

 

 だが――。

 

「期待外れだ」

 

 その一言が落ちた瞬間、世界から音が消えた。

 リクオの視界の中で、大嶽丸の指一本が動いたように見えた。いや、動いたかすら分からない。

 ただ、気づいた時には、リクオの振るった刀の軌道は完全に制圧されていた。大嶽丸の素手が、リクオの握る刀の刀身を、指先だけで、まるで紙屑でもつまむかのようにガッチリと受け止めていたのだ。

 

「なっ……!?」

 

 血の気が引くとはこのことだった。

 鋼鉄をも両断するはずの刀が、びくともしない。押し返そうとどれだけ腕に力を込めても、大嶽丸の指先は岩盤のように微動だにしなかった。

 

「妖の戦いは"畏れたら負け"だぜ」

 

 大嶽丸の顔が、恐ろしいほどの近さまで迫る。その紅い瞳の奥に宿るのは、怒りでも歓喜でもない。ただの「現実」を教え諭すような、圧倒的な冷徹さだった。

 

「お前は『畏』というものを、どこかで綺麗事だと思ってやがる。仲間がいるから強い、皆がいるから負けない……そんな温い絆の物語だけで、何百年も人間の生血を啜り、怨念を喰らい続けてきた化け狐の群れに勝てると思い込んでやがる」

 

 妖怪の強さを語る上で、決して切り離すことのできないものがある。

 

 それが――「畏」である。

 

「畏」とは、単なる恐怖ではない。それは、人間が未知なる存在を前にしたときに抱く「恐れ」。あるいは、強大な存在に対する「威圧」や「畏敬」。

時には「信仰」や「尊敬」、さらには「憧れ」さえも含む。

 

 つまり――「畏」とは、その妖怪がこの世においてどれほど強く認識されているかを示す、妖怪そのものの存在力なのである。

 

 妖怪はもともと、人間を驚かせ、恐怖させる存在として生まれてきた。

 

 だからこそ、妖怪にとって「畏」は力そのものであり妖怪同士の戦いとは、ただ相手の肉体を傷つけるだけのものではない。

 

 己の「畏」を相手に叩きつけ、相手の「畏」を打ち破り、最後には――相手より強い存在であることを認めさせる。

 

 それこそが妖怪同士の戦いなのである。ゆえに、妖怪の世界では「気圧された者が敗れる」という考え方が存在する。どれほど強靭な肉体を持っていようとも、相手の畏に飲まれ、自分自身の畏を失えば、その時点で戦いの主導権を奪われる。

 

逆に言えば――圧倒的な存在感を放つ妖怪は、それだけで相手の戦意を削ぐことができる。

 

 これが「畏」の第一段階と呼ばれ妖怪が己の存在そのものを力として放つ――「鬼發(はつ)」である。鬼發とは、己の「畏」を発動させること。その妖怪が持つ本質や特徴が、周囲の空気そのものを変えていく。

 

雪女ならば冷気。牛鬼ならば巨大な怪物としての威圧。そしてぬらりひょんであれば――気配を消し、相手の認識から己の存在を滑り落とす「明鏡止水」のようにそれぞれの妖怪が持つ「畏」は、その妖怪自身の性質によって異なる。

 

だからこそ――「畏」は、妖怪ごとに異なる。そして、妖怪たちは己の「畏」をさらに一段上の領域へと昇華させる

 

「ぐっ……離せ……!」

「甘い。甘すぎるんだよ、青二才が」

 

 次の瞬間、大嶽丸の身体から膨れ上がったのは、文字通りの「死の気配」だった。

 ドッと押し寄せた圧倒的な『畏』の質量は、物理的な衝撃波となって広間全体を叩きつける。奴良組の精鋭たちですら、その重圧に耐え切れず膝をつき、息を呑んだ。

 その中心にいるリクオは、直撃を受けた。

 

「がはっ……!」

 

 肺の空気がすべて押し出され、視界が真っ白に染まる。

 大嶽丸がほんのわずかに圧力を強めただけで、リクオの身体は糸の切れた人形のように宙を舞い、広間の床へと激しく叩きつけられた。

 

「ぐっ……は……ぁ……」

 

 床に這いつくばり、呼吸すらままならないリクオの頭上に、大嶽丸の足音が近づいてくる。

 カツ、カツ、と静寂に響くその足音は、まるで死神の足取りのようだった。

 

「立てねぇか? 威勢のいい口を叩いておいて、そのザマか?」

 

 大嶽丸は倒れるリクオを見下ろしながら、冷たく吐き捨てる。

 

「恐怖とは何か。力とは何か。そして、頂点に立つ者が背負う『孤独と狂気』とは何か。お前はまだ、その片鱗すら知っちゃいねぇ。そんな半端な覚悟で京へ乗り込み、羽衣狐の前に立った瞬間、お前の首は胴体から綺麗に切り離されて終わりだ」

「若!」

 

 氷麗がたまらず飛び出そうとしたが、その前に一妖の黒い影が立ち塞がった。

 

 その妖は真紅の髪と瞳が特徴で、髪はやや長めに流した容姿をしており額からは漆黒の大きな角が左右一対伸びている。整った顔立ちに鋭い目つきを持ち、普段から凛々しく落ち着いた雰囲気を漂わせている。

 

 大妖は"金鬼"と呼ばれ大嶽丸の右腕たり得る大妖怪であり大嶽丸より【紅丸】の名を授かった妖である

 

 紅丸は氷麗の足元の床を抉り、これ以上の一歩を許さない。

 

「動くな、小娘。主の御前だ」

「どいてよ……! 若が……!」

 

 氷麗の目に涙が浮かぶ。広間全体が、鈴鹿山の圧倒的な「力の理」の前に沈黙していた。

 

「「「若っ!!」」」「三代目!」

 

 氷麗とほぼ同時に助け出そうと試みた他の奴良組の仲間たちの前にも鈴鹿山の妖達が立ちはだかる

 

「どけ!」「若っ!」

「ダメだよ!僕もあの子とやってみたいけど我慢してるんだからね!」

 

 首なしや毛倡妓の前に立ちはだかるは白銀の長髪に青緑色のグラデーションが入った、美しい女妖怪。頭には大きく湾曲した真紅の角が一対生えており、青灰色の切れ長の瞳と整った顔立ちが印象的であり大ぶりな金色の耳飾りを身につけ、妖艶さと凛々しさを併せ持っている。「鬼神直属の四鬼将」が1人"水鬼"であり【夜叉姫】の名を授かった妖である

 

 

 更に

 

「「っ!?」」

「…そう死に急ぐ事もなかろう」

 

 青田坊や黒田坊の前に立ち塞がるは銀白色の長い髪と黄金色の鋭い瞳を持つ、気品漂う同じく大妖怪であり額には青紫色の妖怪紋様が浮かび、頬には左右対称の赤い三日月模様が刻まれている。長身で細身ながら鍛えられた体躯をしており、冷徹さと圧倒的な威厳を感じさせる美貌を持つ「鬼神直属の四鬼将」の1人…風鬼であり【白夜】の名を授かった妖だ

 

 

 更にこの状況に黙っていられないのは三代目だけでなく

 

「貴様らっ!」「舐めやがって!」「これ以上奴良組で勝手はさせぬ!」

 

 初代幹部達…牛鬼を筆頭に一ツ目や木魚達磨など大幹部達の怒りもこの現状に頂点に達する。

 

 しかし

 

「面白ぇ…テメェら全員纏めて俺様が相手してやる」

「「「っ!?」」」

 

 その言葉と同時に、幹部達の目の前に雷鳴と共に妖が現れる。異常な殺気と口元が獰猛に吊り上がり青白い髪の隙間から覗くのは、額から天を穿つように伸びた二本の黒い角。鋭い青の瞳には一切の怯えはなく、むしろ目の前に並ぶ奴良組の大幹部達を前にして、愉しげな光すら宿していた男は「鬼神直属の四鬼将」最後の大妖である"怨京鬼"…かつて大嶽丸と最後まで争った鬼…【蒼牙】である。

 

 

 4妖それぞれが百鬼夜行を率いていてもおかしくない程の畏と力を持つ大妖怪であり彼等を前にしてそう易々と戦闘を開始出来るほど妖の戦闘を理解していない者は奴良組には存在しなかった。

 

 配下を取り押さえられ地面に這いつくばり、土埃と冷や汗にまみれながら、リクオはギリッと歯を食いしばった。

 

 悔しさが、怒りが、そして自分自身の無力感に対する絶望が、脳裏を焼き尽くす。

 ――立てない。体が言うことを聞かない。これが、大妖怪の力。これが、妖怪の頂点に君臨する者の「畏」の本質。

 

「……くそ……っ」

 

 リクオが震える手を地面につき、這い上がろうと必死に身体を持ち上げる。

 その姿を見た大嶽丸の瞳が、わずかに、本当に一瞬だけ、色を変えた。

 

「……ほう」

 

 大嶽丸は低く呟く。どれほど叩きのめされようとも、恐怖に屈して目を逸らすのではなく、その泥臭い執念で再び前を睨み据えるリクオの姿に、かつて自らと死闘を繰り広げた二代目・鯉伴の面影、そして数多の強者たちが見せてきた「意地」を見たからだ。

 

「まだその眼をしてやがるか」

 

 大嶽丸はふっと、どこか面白そうに口角を緩め、リクオから一歩身を引いた。

 そして、床に這うリクオを見下ろしたまま、こう告げたのだった。

 

「いいか、クソ餓鬼。俺様は慈悲深くいやしねぇし、テメェを甘やかしてやる気もねぇ。だが――」

 

 鬼神の紅い瞳が、不敵な光を帯びて東の空、そして京の闇を見据えるように細められる。

 

「その腐った甘えを捨て、妖としての真髄を知り、本当にすべてを呑み込む覚悟ができた時……テメェは妖として化けるだろうさ。少なくともテメェにはそれだけの血が流れてやがるんだからな」

 

 

 

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