事が収まり、大嶽丸率いる百鬼が去った後も床に這いつくばったままの姿勢で、リクオは荒い息を整えていた。
全身を走る激痛、そして何よりも己の無力感に対する焼き付くような悔しさが、少年の内部でドロドロとした熱を生み出している。
――動け。立て……!
その必死な姿を、広間の端で固唾を飲んで見守っていた奴良組の幹部たち――氷麗や青田坊、黒田坊、首無らは、歯を食いしばりながらも、その場から一歩も動けずにいた。
それも当然だった。大嶽丸という圧倒的な鬼神の傍らには、千年の古強者である四鬼将――金鬼…いや紅丸をはじめとする化け物たちが控えていたのだ。さらに、大口真神の血を引く神獣・黒丸や雪女の氷華などの強者までもが静かなる殺気を纏って周囲を睥睨していた。
彼ら一匹一匹が、それぞれに独自の百鬼夜行を率い、国を一つ滅ぼしかねないほどの「畏」と武力を宿している。その格の違い、底知れぬ実力の差を本能で理解しているからこそ、奴良組の歴戦の幹部たちですら、軽々しく戦闘を開始することができなかったのだ。妖の社会における「圧倒的な力の序列」という残酷な現実が、そこに重くのしかかっていた。
「……っ……ふざけんな……!」
血にまみれた手を床に突き立て、リクオは震える膝をどうにか持ち上げた。
ふらつきながらも、その背筋をまっすぐに伸ばす。大嶽丸が投げかけた「その腐った甘えを捨て、妖としての真髄を知り、本当にすべてを呑み込む覚悟ができた時……テメェは妖として化けるだろうさ」という言葉が、少年の胸の奥で重く反響していた。
血筋の重み、半妖としての葛藤、そして仲間を守りたいという純粋な願い。それらすべてが未熟なまま、ただ「総大将だから」という看板だけで突っ走っていた自分を、大嶽丸は冷徹に見抜いていたのだ。
だからこそ大嶽丸は不敵に、しかしどこか満足げな笑みを浮かべ、リクオからすっと視線を外した。その紅い瞳には、もはや最初の侮蔑の色はなく、微かな期待の光が灯っている。
だが、今のリクオにとって、その評価がどうであれ、目指すべき場所は一つしかなかった。京の闇の底で蠢く羽衣狐、そしてこの国を呑み込もうとする途方もない悪意。それに立ち向かうためには、今の自分ではあまりにも無力すぎる。
リクオは荒い息を吐きながら、血に染まった拳を強く握り締め、上座にどっかと腰を据える己が祖父…奴良組初代総大将――ぬらりひょんの方へと、ゆっくりと言葉を向けた。
「良かったんですか?」
「あん?何が?」
奴良組の本山を後にし、夜空を覆い尽くすほどの漆黒の大雲に乗って、大嶽丸率いる百鬼たちは鈴鹿山へと帰還の途についていた。吹き抜ける冷たい夜風の中、大嶽丸の左脇にぴったりと寄り添うように陣取っていたのは、雪女の氷華だった。
氷華は艶やかな黒髪を揺らしながら、わずかに首を傾げて主を見上げる。その紫紺の瞳には、先ほどの大広間でのやり取りに対する疑問が色濃く浮かんでいた。
「奴良組の若頭ですよ。あの場で本気を出せば、そのまま叩き潰すことも、あるいは首を撥ねることも容易かったはずです。それなのに、あんなに意味深な言葉を残して生かして帰した。……あなたらしくもない。もしかして、あの半妖の小僧に何か特別な感情でもおありなんですか?」
「あ、それ僕も思った!あの子絶対殺されちゃうって思ったもん!」
今度は右側…大嶽丸の右腕を抱き寄せて嬉々として話すのは四鬼将でもあり氷華や静香と同じく大嶽丸の寵愛を受ける者、夜叉姫である。
その問いに、大嶽丸は低く腹の底で笑った。
「かっかっか! 特別な感情、ねぇ……」
「事実をお聞きしているだけです。初代の頃から変わらぬ強さと冷酷さを持つあなたが、あんな未熟な半妖に希望を持たせるような真似をするなんて、何か裏があるのではないかと気になったものですから」
氷華の言葉に、周囲に控えていた紅丸、そして黒丸といった強者たちも、それぞれの思惑を秘めた視線を主へと向ける。
大嶽丸は手にした徳利を傾け、冷えた酒を喉へと流し込むと、不敵な笑みを一層深くした。
「裏なんて大層なもんじゃねぇよ。単純な話さ……あいつの眼が、面白かったからだ」
「眼、ですか?」
「ああ。半妖として生まれ、自分の力不足に悩み、それでも泥を啜ってでも守りてぇものがあるって、あの小僧は全身で吠えてやがった。どれだけ圧倒的な力を突きつけられようとも、恐怖に屈せず、もう一度立ち上がろうとしたあの執念……。あれは、ただの甘ったれたガキの目じゃねぇ。修羅の道を歩む者の目だった」
大嶽丸の脳裏に、かつて激闘を繰り広げた二代目・奴良鯉伴の姿が重なって見えた。
強者とは何か。孤高とは何か。それを知る者だけが持つ、特別な光があの少年の奥底には眠っていた。
「殺すだけならいつでもできる。だがな、ぬらりひょんの血を引くあの小僧が、これから京の化け狐どもとどう渡り合い、どれほどの地獄を潜り抜けて化けていくか……それを見届けるのも、退屈しのぎにしちゃ悪くねぇだろ?」
「……相変わらず、食えないお方ですね」
「次は僕にもやらせておくれよ?」
2人の女傑はふっと艶やかに微笑むと、大嶽丸の腕にさらに身体を預けた。
大嶽丸は片手で徳利を持ちながら、その強靭な腕で氷華を左に引き寄せ、同時に右腕で夜叉姫の肩を力強く抱き寄せた。
己が女の体温を感じながら、大嶽丸は夜空の彼方、京の都へと続く闇の広がりを冷徹な瞳で見据えるのであった。
京の都、その華やかな表の顔の裏側に広がる、決して日の光が届かない深淵の闇。
そこは人間の眼には映らない、おぞましき妖たちの巣窟であり、百鬼夜行の血塗られた歴史が幾重にも折り重なった禁忌の領域であった。
ひんやりとした湿気を帯びた広間の中心。そこに鎮座するのは、千年の時を生き、幾度もの転生を繰り返してきた化け狐の頂点――羽衣狐であった。
今世の依代は歴代の中でも随一の相性を誇り、羽衣狐の妖怪としての力を存分に扱うには最適の肉体であった。
封印の枷を打ち破り、新たな肉体を得て完全に目覚めた彼女の身からは、周囲の空気を歪ませるほどの凄まじい妖気が立ち上っている。それはただの強大さではない。千年という圧倒的な時間、人間の生血、そして果てしない怨念を啜り続けてきた者にしか纏えない、世界そのものを呪うような濃厚な「死の気配」だった。
その羽衣狐を取り囲むように、京妖怪の重鎮たちが控えていた。
"400年前には存在しなかった"額に大きな目玉を持つ不気味な老人で不気味な笑みを張り付けた謀略の参謀・塵地蔵。
幼い少女の姿をしており羽衣狐の侍女のような役割を持ち、日頃から彼女の身の回りの世話を行い、彼女を崇拝する妖。狂骨。
そして大嶽丸や鈴鹿山の鬼達と最も因縁のある男達が存在する。
酒呑童子と人間の女性の間に生まれた半妖で、酒呑童子亡き後は京都の鬼妖怪の頭領を務めている鬼童丸。
更に酒呑童子の義理の息子であり顔半分を卒塔婆で覆い隠している青年… 茨木童子だ。
広間を支配する重苦しい沈黙を破ったのは、狂骨の湿った声だった。
「――ふふふ。お姉様のお目覚め、これ以上ないほどに素晴らしい。京の都は再び、我らが手中に収めるための準備が整いつつあります」
狂骨が嬉しそうに身をよじらせる。
だが、その場の空気が完全に緩むことはなかった。茨木童子が腕を組み、険しい顔のまま低い唸り声を漏らしたからだ。
「喜んでばかりもいられねぇな。……表の人間どもはともかく、問題は『邪魔者』どもだ」
茨木童子のその一言に、鬼童丸が鋭い視線を向けた。
「ほう。東の小僧どものことか?」
「ああ。憎き奴良組だ」
茨木童子は吐き捨てるように続ける。
「二代目のあの生意気な男が死んでから、三代目を継いだガキ――奴良リクオとかいう半妖め。最初はただのひよっこだと思っていたが、どうやら最近、妙な動きを見せている。四国の化け狸どもを片付けたと思ったら、今度は『遠野』へ赴いて修行を始めているという情報が入った」
「遠野の妖怪どもを味方に引き入れるつもりか。小賢しい真似を……」
鬼童丸が冷ややかに鼻を鳴らす。
奴良組は、人間と妖怪の共生を掲げる「仁の百鬼夜行」であり、京妖怪にとって長年の宿敵であった。四百年前の初代・ぬらりひょんの代から続く因縁は、世代が変わろうとも決して消えるものではない。
「奴良組ごとき、今の我らの敵ではありません。お姉様の完全復活、そしてお子がお生まれになれば、あんな温い群れなど一呑みです」
狂骨が勝ち誇ったように笑うが、塵地蔵はゆっくりと首を横に振った。
その乾いた表情に、わずかながら慎重の色が浮かんでいる。
「いや、狂骨よ。甘く見てはなりませぬ。奴良組そのものはともかく……問題は、最近東国の奥深くで観測された『もう一つのうねり』です」
「もう一つのうねり……?」
鏖地蔵が、初めてゆっくりと紅い瞳を開いた。その声には、底知れぬ威厳と冷酷な響きがあった。
塵地蔵は一礼すると、持っていた杖を床に突いて低い声で語り出した。
「羽衣狐様が眠りについておられた間、東国の山々――人間どもが鈴鹿山脈と呼ぶ深奥にて、静かに眠っていたはずの『悪鬼の都』が再び牙を剥き始めました」
「鈴鹿山……『悪鬼の都』に巣食う、二代目大嶽丸の一族め」
その名が出た瞬間、広間の空気が一段と重くなった。
大嶽丸。その名は、鬼という種族にとって絶対的な恐怖と、決して拭い去ることのでできない「敗北の歴史」の象徴であった。
茨木童子の表情が、引きつる。鬼という種族でありながら、京都の狂気とはまた異なる、純粋な「暴力と恐怖の頂点」を思い起こしたからだ。
「そうだ。かつて坂上田村麻呂と死闘を繰り広げたという伝説の鬼神――初代・大嶽丸。その血を引く『二代目・大嶽丸』が、今や鈴鹿山に君臨しておる」
広間の空気が、さらに一段階冷え込んだ。
大嶽丸。その名を聞いただけで、京妖怪の精鋭たちですら眉間に深いシワを寄せる。奴良組の「仁」とは対極に位置する、力こそが正義の「純度100%の力の百鬼夜行」。紅丸をはじめとする四鬼将や、大口真神の血を引く黒丸など、底の知れない化け物どもを従え、人間をも妖怪をも恐れさせない孤高の群れ。
鬼童丸は、静かに目を伏せ、遠い過去を思い起こすように語り出した。その声には、普段の冷静さの裏に、隠しきれない苦渋の色が滲んでいた。
「……我らの父君であられた大妖怪…酒呑童子。その強さは西日本において並ぶ者なき絶対的なものであり、誇り高き鬼の王であった。だが、その父君ですら、かつて東国より更に奥深く、鈴鹿山を支配していた初代・大嶽丸との縄張り争いに敗れ去った」
歴史の真実を語る鬼童丸の言葉に、周囲の妖怪たちが息を呑む。
酒呑童子といえば、京の都を震え上がらせ、数多の伝説を残した大妖怪である。その酒呑童子が、初代大嶽丸との戦いに敗北していたという事実は、京妖怪の一部にとっても衝撃的なものだった。
「…あぁ…そうだ」
茨木童子が、卒塔婆の下の口元を歪ませて引き継ぐ。
「大嶽丸の持つ力は、小細工や怨念が入り込む余地すら無い、まさに『暴君にして天災』そのものだった。山そのものを自らの領域とし、力こそが正義の理で無数の妖怪を従えるあの怪物と真っ向から衝突し、父君は敗北した。……圧倒的な武力と、理不尽なまでの破壊の前に、西の鬼たちはなすすべもなく叩き潰されたのさ」
父である酒呑童子からその凄惨な敗北の歴史を聞かされて育った鬼童丸と茨木童子にとって、大嶽丸という存在は、トラウマに近い恐怖と、越えられない絶壁のようだった。
暴虐の限りを尽くし、一国のすべてを更地にしかねない大嶽丸の存在を恐れた酒呑童子たちは、己の誇りを砕かれながらも、生き残るために一つの選択を迫られた。
それが、「魑魅魍魎の主」たる羽衣狐の傘下に下るという道だった。
「我ら西の鬼が、単独で生きる道を捨て、京の大妖怪である羽衣狐様の下に身を寄せたのは、生き残るため、そしていつの日か力を蓄えて打倒する目的もあったが……根本には、大嶽丸という『天災』から身を守るための庇護を求めたという側面があったことも事実だ」
鬼童丸は静かに頭を垂れる。それは羽衣狐に対する忠誠であると同時に、鬼という種族の誇りを捨てた者たちの、拭い去れぬ現実だった。
だが、その選択代償はあまりにも大きかった。
鈴鹿山の深奥に棲む同族たち――初代大嶽丸の意志を継ぎ、力こそがすべての理を貫く鬼たちにとって、「酒呑童子の一党が、狐ごときの傘下に下った」という事実は、決して許容しがたい最大の裏切りであり、恥辱であった。
「鬼とは、本来は孤高で最強の存在であるべきだ。群れることなかれ、他の種族に頭を下げることなど、鬼の誇りに対する冒涜に他ならない。……そう考える鈴鹿山の連中にとって、我ら西の鬼は『誇りを捨てた雑種』に映ったのさ」
茨木童子毒づくように言った。その顔半分を覆う卒塔婆の奥にある瞳には、かつて同族から向けられた侮蔑の視線への記憶が蘇っている。
「鈴鹿山に住む同族たちからの圧力や嘲笑は、数百年の間、途絶えたことがない。同じ『鬼』の血を引く者同士でありながら、我ら京の鬼と、鈴鹿山の鬼たちの間には、埋めることのできない深い溝――いや、断絶が存在している」
鬼童丸の言葉に、塵地蔵が乾いた笑声を漏らした。
「ふむ……。つまり、大嶽丸の一族にとって、我ら京妖怪は『誇り高き鬼の血を汚した下劣な眷属』であり、同時に、いつ何時牙を剥いてくるかもしれない鬱陶しい存在であると?」
「そういうことだ」
茨木童子が吐き捨てるように頷く。
「奴らは理屈で動かねぇ。我らが羽衣狐様の傘下にいることも、『狐の威を借る臆病者』としか見ていねぇよ。もし今、我らが下手に鈴鹿山の領域を刺激し、あるいはあちらの機嫌を損ねるような真似をすれば、大嶽丸の奴は『同族の恥を拭い去る』という名目で、容赦なくこの京都まで押し寄せてくるだろうよ」
その言葉に、広間の空気がさらに重く沈む。
奴良組との抗争だけでも手一杯という時に、あの鈴鹿山の鬼神を敵に回すことの恐ろしさは、京妖怪の幹部たち全員の背筋を凍らせるのに十分だった。暴君大嶽丸が本気を出せば、京の都が血の海と化すことは火を見るより明らかだったからだ。
「その鈴鹿山の鬼どもが、最近どう動いたか知っておるか?」
塵地蔵が周囲を見回すようにして言った。
「なんと、二代目大嶽丸自らが、関東の奴良組の本山へ直接乗り込み、かの三代目リクオと対面したというのです」
「なんだと……!? 鈴鹿山の鬼神が、奴良組の総本山にだと?」
茨木童子が目を見張り、声を荒げた。
「あいつらは気まぐれで、他所のいざこざになど興味を示さないはずじゃなかったのか! まさか、東の小僧と手を組んで、我らを挟撃するつもりか!?」
「その可能性は低い。密偵からの情報によれば、大嶽丸は奴良組と手を組むつもりなど毛頭なかったらしい。むしろ、半妖として未熟な三代目の尻を叩き、面白半分に発破をかけて去っていったとか……。だが、問題はそこではない」
塵地蔵の目が、いやらしく細められる。
「奴らがどう動こうと、もし我らが本格的に東を攻め、関東からさらに奥の鈴鹿山脈へと踏み込むようなことがあれば……あの狂った鬼どもが、面白半分に我らを叩き潰しにやってくる可能性が高い」
その言葉に、茨木童子は不快そうに舌打ちをした。
「ちっ……! 奴良組などどうにもでもなるが…あの鈴鹿山の鬼共を敵に回すのは、正直言って分が悪いな」
鬼童丸も否定しなかった。
京妖怪の目的は、あくまで羽衣狐の完全復活、そして「鵺」である安倍晴明をこの世に生み出すこと、そして都の完全掌握である。無駄に鈴鹿山という最大最悪の火薬庫に火をつけ、戦力を分散させるのは、戦略的におそろしく愚行だった。
「そうだ。今の段階で、あの鬼神を刺激するのは得策ではない。奴らは『力』の理で動く。理屈や怨念など関係なく、ただ自分たちの退屈を慰めるため、あるいは面白そうという理由だけで、一国を更地にしかねない連中だ」
広間に緊張が走る。
奴良組であれば、過去の因縁もあり、人間を守るという弱点(あるいは慈悲)を突くこともできた。しかし、鈴鹿山の大嶽丸とその一族には、そんな小賢しい策略が通用する余地すらない。彼らにとっての善悪は「強いか、弱いか」の二つのみなのだから。
一同が重い沈黙に包まれる中、上座に座る羽衣狐が、ふっと冷ややかな笑みを浮かべた。
「……恐れることはない」
その一言で、広間の空気がピタリと静まり返る。
すべての視線が、千年の大妖怪へと集中した。
「お姉様……」
狂骨が心配そうに見上げる中、羽衣狐はゆっくりと立ち上がり、冷徹な紅い瞳をゆっくりと巡らせた。
「鈴鹿山の鬼神がどれほど強大であれ、あやつらが動く理由はただ一つ。『退屈しのぎ』と『強者との戯れ』にすぎぬ。我らの本当の目的が何であるか、あのような狂人どもが理解しているはずもない」
「では、鈴鹿山がこちらへ牙を剥いてきたら……?」
鬼童丸が問うと、羽衣狐は小気味よく首を横に振った。
「剥かせぬよ。――『晴明』がお生まれになるまではな」
その名前が出た瞬間、広間の空気が熱を帯びたように震えた。
安倍晴明。京妖怪の悲願であり、この世のすべてを再構築するための絶対的な存在。
「我が愛し子、晴明がこの世に生を受け、完全なる力を手に入れた時……この日ノ本の覇権など、自然と我らの足元にひれ伏すことになる。鈴鹿山の鬼神とて例外ではない。すべては、晴明の誕生の後に決することだ」
羽衣狐の言葉には、揺るぎない確信と、千年の執念から裏打ちされた絶対的な重みがあった。
「それまでの間――奴良組がどう足掻こうと、鈴鹿山の鬼どもがどこで何を企んでいようと、我らは直接的な衝突を避ける。下手に東の化け物どもを刺激し、晴明の誕生を邪魔立てさせるような真似は許さぬ」
「お言葉ですが、羽衣狐様。それでは、我らはじっと機を伺うだけでよいと?」
塵地蔵が慎重に尋ねる。
「いいや、何もしないわけではないわ」
羽衣狐は冷たく、美しく微笑んだ。
「それまでの間は、別の者たちに相手をさせよう。京の周辺でうろつく人間や、奴良組の小間使いたちを牽制し、我らの足元を乱す者どもがいれば、容赦なくその首を撥ねるがいい。だが、本隊はあくまで晴明の降誕に全力を注ぐ」
「……御意のままに!」
茨木童子、鬼童丸、そして塵地蔵と狂骨が、一斉に深く頭を垂れた。
「奴良組め……奴等がどれほど力をつけようとも、妾の御前ではただの露と消える運命よ。そして大嶽丸……貴様も、我が愛し子が真の姿を現した時、その退屈な目を見開かせてやろう」
羽衣狐の冷酷な笑みが、京の闇の奥深くに溶けていく。
東の奴良組、西の鈴鹿山、そして京の妖怪たち。日本の妖怪社会の命運を握る三つの巨大な勢力が、それぞれの思惑と宿命を乗せながら、いよいよ激突の時へと向けて動き出そうとしていた。
静まり返る闇の中で、次なる嵐の気配が、音もなく胎動を始めていたのだった。