TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
淑女への第一歩
朝日がカーテンの隙間から差し込み、寝室を柔らかな光で満たしていた。
いつものように目を覚まし、ゆっくりと身体を起こす。
「……ん?」
何か違和感があった。下腹部に鈍い重さがある。
体調が悪いわけではないが、痛みというほどでもない、不思議な感覚。
(何だ……?)
首を傾げながら寝具へ視線を落とした瞬間、思考が止まる。
白いシーツに、小さな赤い染みがあった。
「……っ!」
心臓が大きく跳ねる。
一瞬だけ、本当に一瞬だけ頭が真っ白になった。
(怪我……?いや、違う)
次の瞬間には前世と今世、双方の知識が答えを導き出していた。
(そうか……)
俺はゆっくりと息を吐く。
(ついに来たか)
初潮。
女性なら誰もが迎える、身体の変化。
知識としてはもちろん知っていた。
前世でも学校で習ったし、ロザモリアとしても淑女教育で習っていた。
だから慌てることはない。
慌てる必要はない、はずだった。
「……はぁ」
思わず天井を見上げる。
理解はしている。
それでも、自分の身に起きると話は別だった。
(本当に、女なんだな)
五歳で前世を思い出してから七年。
鏡を見るたびに少女の姿を見てきた。
声も。
髪も。
身体も。
日常の中で少しずつ慣れてきたつもりだった。
けれど、この出来事だけは決定的だった。
この身体は、間違いなく女性の身体なのだと、否応なく突きつけられた気がした。
コンコン、と扉が叩かれる。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
アンナの声。
一瞬だけ迷う、自分で何とかできるだろうか。
いや、この世界の作法は知らない。
変に隠して困らせる方が良くない。
「アンナ」
少し小さな声で返事をする。
「少し……来ていただけますか」
「はい」
すぐに扉が開き、アンナが入ってきた。
「おはようございます、お嬢――」
言葉が途中で止まる。
ロザモリアの表情と、シーツへ落ちた視線だけで察したらしい。
「……お嬢様」
アンナは驚いたように目を見開き、それからふわりと微笑んだ。
「おめでとうございます」
「え?」
思わず聞き返してしまう。
アンナはどこか誇らしげだった。
「お嬢様、淑女への第一歩でございます」
祝われるとは思っていなかった。
戸惑っていると、アンナは優しく続ける。
「奥様をお呼びしてまいりますね」
「え、あの……」
止める間もなく、アンナは部屋を出ていった。
ほどなくして、セレスティアが静かに部屋へ入ってくる。
その表情は驚きよりも、穏やかな喜びに満ちていた。
「ロザミー」
ベッドの傍らへ腰掛けると、そっと俺の手を包む。
「おめでとう」
その一言は、とても優しかった。
「お母様……」
「少し驚いたでしょう?」
「はい」
素直に頷く。
「わたくしも、初めての時は不安でした」
セレスティアは懐かしそうに笑った。
「自分の身体が急に変わってしまったような気がして」
その言葉に、少しだけ救われる。
前世の知識がある俺ですら動揺したのだ。
この世界で育った少女なら、なおさらだっただろう。
「でも、大丈夫」
母は俺の髪を優しく撫でる。
「これは、とても自然なことなの」
「はい」
「これから少しずつ身体も大人へ近付いていきます」
その言葉を聞きながら、自分の手を見つめる。
細く白い指。
以前より少し長くなった腕。
十二歳になり、身体も確かに成長していた。
「ロザミーは、立派に成長しています」
その一言に、胸が少しだけ熱くなる。
成長。
前世なら、こんな言葉を掛けられる機会はなかった。
「アンナ」
セレスティアが呼び掛ける。
「例の物を」
「はい」
アンナが小さな木箱を持って戻ってきた。
深い藍色の布が敷かれ、その中央へ一つの髪飾りが収められている。
銀細工で作られた小さな花。
中央には、淡い青色の宝石が埋め込まれていた。
「綺麗……」
思わず声が漏れる。
「アルヴェイン家ではね」
セレスティアが木箱を開いたまま話し始める。
「娘が初潮を迎えた時、この髪飾りを贈る習わしがあるの」
「習わし……」
「大人になった、という意味ではありません」
母は優しく首を振る。
「淑女への第一歩を歩み始めた記念です」
そう言って、髪飾りを手に取る。
「付けてもよろしいかしら?」
「……はい」
そっと髪へ留められる。
鏡を見ると、金色の髪へ小さな青い花が咲いたようだった。
「とてもお似合いです」
アンナが嬉しそうに微笑む。
「本当に」
セレスティアも目を細めた。
「もう、こんなに大きくなったのね」
母のその言葉に、胸の奥が少しだけ締め付けられる。
俺はまだ、自分を完全に女性だとは思えていない。
けれど、母が見つめているのは、間違いなく娘として育ってきた十二年間なのだ。
その時間まで否定することは、きっと違う。
髪飾りへそっと触れながら、俺は静かに息を吐いた。
この小さな花は、身体の変化を祝う印。
そして、この世界でロザモリアとして生きてきた十二年という時間の証でもあった。
◇
髪飾りを贈られてから数日が過ぎた。
最初こそ少し気恥ずかしかったものの、毎朝鏡の前で髪を整えるたび、銀色の小さな花は自然と目に入るようになっていた。
「よくお似合いですね」
庭園へ向かう途中、アンナが微笑む。
「ありがとう、アンナ」
以前なら、照れくさくて素直に返事はできなかったかもしれない。
けれど今は、この髪飾りが母やアンナの祝福そのものなのだと分かっていた。
◇
東屋では、ヴィオレット先生が資料へ目を通していた。
「おはようございます」
「おはようございます、ロザモリアさん」
いつものように向かい合って座る。
今日は授業の前に、先生の視線が俺の髪へ向けられた。
「その髪飾り、とても素敵ですね」
「ありがとうございます」
少しだけ頬が熱くなる。
「母からいただきました」
ヴィオレット先生は事情を察したように、穏やかに微笑んだ。
「そうですか」
それ以上、踏み込んではこない。
けれど、その沈黙は気まずいものではなかった。
「先生」
「はい」
少し迷ってから口を開く。
「少しだけ、動揺しました」
「でしょうね」
先生は静かに頷いた。
「どれだけ知識があっても、自分の身体の変化は別の話です」
その一言で、肩の力が抜ける。
「わたくし、頭では分かっていたんです」
前世で学んだ知識。
女性の身体についても、ある程度は理解していた。
「でも、実際に自分のことになると……」
言葉が続かない。
ヴィオレット先生は急かさず、静かに待ってくれている。
「『ああ、本当に女性なんだ』って思ってしまって」
ぽつりと漏らす。
先生は否定も慰めもせず、優しく頷いた。
「研究者は、ともすれば自分の身体を忘れてしまいます」
「え?」
「研究が楽しいと、寝る時間も食事も後回しにしてしまうでしょう?」
思わず苦笑する。
心当たりがありすぎた。
「ですが、私たちの身体も研究に必要な道具です」
先生は紅茶へ視線を落とす。
「女性には女性の身体があります」
「はい」
「その変化を知り、上手に付き合っていくことも、研究者として大切なことですよ」
その言葉は、とても自然だった。
女性だから研究できない、そんな話ではない。
女性として生きながら、研究者であり続ける。
先生自身が、その姿を示してくれている。
「ありがとうございます」
心からそう思えた。
ヴィオレット先生は柔らかく笑う。
「これからも、分からないことがあれば遠慮なく相談してください」
「はい」
その返事は、七年前と変わらず素直に口から出た。
◇
数日後。
「ロザ、その髪飾り!」
庭園で顔を合わせるなり、リリアンが目を輝かせた。
「すごく綺麗!」
「ありがとうございます」
「もしかして……」
少し声を潜める。
「その、お祝い?」
「はい」
俺も少しだけ照れながら頷く。
リリアンはぱっと花が咲くように笑った。
「おめでとう!」
屈託のない祝福だった。
「ありがとう」
「実はね」
リリアンも少し恥ずかしそうに頬を染める。
「わたしも去年、お母様から髪飾りをいただいたの」
「そうだったんですか」
「うん」
髪へ触れながら微笑む。
「嬉しかったけど、すっごく恥ずかしかった」
その言葉に、思わず笑ってしまう。
「わたくしも同じです」
「本当?」
「はい」
二人で顔を見合わせ、くすくすと笑う。
年頃の少女らしい話題。
少し前の俺なら、どこか居心地の悪さを感じていたかもしれない。
けれど今は違う。
「ロザ」
「はい?」
「これからも、変わらずお友達だからね」
「もちろんです」
迷いなく答える。
「約束です」
「約束!」
小指を絡める。
幼い頃と同じ約束。
それだけで、不思議と心が温かくなった。
◇
夜。
部屋へ戻った俺は、鏡の前へ立つ。
金色の髪、深い青い瞳。
そして、小さな青い花の髪飾り。
鏡の中にいるのは、十二歳の少女だった。
(俺は……)
前世の蓮見祥吾であった記憶は、今も鮮明に残っている。
二十数年間、男として生きてきた時間。
それは決して消えない。
けれど同時に、この身体で過ごした十二年間もまた、本物だった。
父の愛情、母の優しさ、兄の笑顔。
アンナやリリアンとの思い出。
ヴィオレット先生と積み重ねてきた研究の日々。
そのすべてが、ロザモリア・アルヴェインという一人の人間の人生だ。
(まだ……)
正直に言えば、完全に割り切れたわけではない。
男だった頃の感覚が、ふと顔を出すこともある。
今日のように、身体の変化へ戸惑うこともある。
俺は静かに髪飾りへ触れた。
冷たい銀細工が、指先へ心地よく伝わる。
(逃げるのは、もうやめよう)
この身体を否定し続けても、何も変わらない。
ロザモリアとして生きてきた時間も、前世の蓮見祥吾として生きた時間も、どちらも俺自身なのだ。
ならば、そのすべてを抱えたまま前へ進めばいい。
女性として生きることと、研究者として生きること。
その二つは、きっと両立できる。
ヴィオレット先生がそうしてきたように。
「……よし」
小さく頷き、机へ向かう。
そこには書きかけの研究ノートが開かれたままだった。
羽ペンを手に取る。
迷いなく、新しい一行を書き加える。
俺の人生は、まだ始まったばかりだ。
そしてその未来は、性別ではなく、自分自身の選択で切り拓いていきたい。
そんな静かな決意とともに、夜はゆっくりと更けていった。