TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
王都へ来て、今日で三日目になります。
朝早く宿舎を出て、王立アステリア学院の講習棟へ向かう。
見上げる学院の建物は、何度見ても立派です。
「アンナさん、おはようございます」
「おはようございます」
同じように各地の貴族家から集まった侍女や従者の皆さんへ挨拶を返しながら、私は講習室へ入りました。
来月から始まるお嬢様の学院生活。
その前に、学院付きの侍女として必要な知識を学ぶため、このような講習が開かれているそうです。
魔道具の安全な扱い方、学院内での規則、研究棟への立ち入り手順。
そして緊急時の避難経路から、魔法研究科の学生を補助する際の注意事項に至るまで。
最初は「侍女にそこまで必要なのでしょうか」と思いましたが、講義を受けるうちに考えは変わりました。
魔法研究科では、危険な実験も珍しくないそうです。
危険な薬品に、魔力結晶や高濃度の魔力。
扱いを間違えれば大怪我にも繋がる。
だからこそ、お世話をする侍女も最低限の知識を持っていなければならない。
学院の考え方には、とても納得できました。
(お嬢様も、きっと夢中になられるのでしょうね)
そう思うと、自然と笑みがこぼれます。
ロザモリアお嬢様は、一度研究へ集中されると時間を忘れてしまわれますから。
ちゃんとお食事へお連れしないといけませんし、夜更かりも止めなければなりません。それも侍女のお仕事です。
そんなことを考えていると、自然と昔のことを思い出しました。
◇
私はアンナと申します。
アルヴェイン伯爵家で侍女を務めております。
年齢は、お嬢様より七つ上。
私の家は曽御婆様の代よりアルヴェイン伯爵家にお仕えしており、物心ついた頃にはもうアルヴェイン家で働いておりました。
最初は先輩侍女のお手伝いばかりでしたが、奥様から声を掛けていただいた日のことは、今でもよく覚えています。
『アンナ。この子のお世話を少し手伝ってくれるかしら』
そう言って抱かれていたのが、生まれたばかりのロザモリアお嬢様でした。
本当に、小さなお嬢様でした。
ふわふわの金色の髪。
澄んだ青い瞳。
眠っているだけでも、お人形さんのように可愛らしくて。
抱っこさせていただいた日は、落としてしまわないかと緊張で手が震えてしまったほどです。
泣き声も可愛らしくて、でも私が歌を歌うと、不思議と泣き止んでくださることもありました。
それが嬉しくて、暇さえあれば子守歌を練習していたものです。
少しずつ歩けるようになり、言葉を覚え。
「アンナ」
そう呼んでいただけた日の嬉しさは、一生忘れられません。
侍女としてではなく、一人の少女として涙が出そうになりました。
あの頃から、お嬢様は本当に優しい方でした。
転んだ私へ「だいじょうぶ?」と小さな手を差し伸べてくださったこともあります。
お菓子をいただけば、「アンナも」と半分に割ろうとしてくださることもありました。
使用人だから、侍女だから。そんな区別を、一度もなさいませんでした。
領内へお出掛けした時も同じです。
工房で働く職人さんや市場のおばあさん。それに農家の子どもたち。
誰へでも笑顔で話し掛けられる。
皆さんがお嬢様を可愛がるのも当然でした。
けれど、一番忘れられない出来事は。
やはり、お嬢様が五歳で大病を患われた時です。
突然の高熱。
何日経っても熱は下がらず、お屋敷の空気は重く沈んでいました。
旦那様、奥様、クリストファー様。皆様が眠れない夜を過ごしておられました。
もちろん、私も同じです。
毎日お部屋へ通い、お水を替え、額へ濡れ布を当てながら。
どうか、どうか助かってください。
そればかり祈っていました。
ですから、お嬢様がゆっくりと目を開けてくださった朝。
「……アンナ」
その小さな声を聞いた瞬間。
安心して、その場で泣いてしまいました。
今思えば侍女として失格だったかもしれません。
けれど、あの日だけは涙を止めることができなかったのです。
◇
あの時からでしょうか。
お嬢様は少し変わられました。
以前よりずっと本を読むようになり。
魔法のお勉強へ夢中になり。
ヴィオレット先生と毎日のように研究のお話をされるようになりました。
最初は身体を壊してしまわないか心配でした。
でも、お嬢様が研究のお話をされる時のお顔は、本当に楽しそうで。
その笑顔を見るたびに思うのです。
(この方は、本当に魔法がお好きなのですね)
だから私は、お世話をしながらずっと願っていました。
どうか、お嬢様が好きなことを、いつまでも続けられますように。
そしてその願いは、学院の魔法研究科合格という形で叶いました。
「アンナさん、本日は魔法研究科付き侍女の業務について説明します」
講師の先生が教壇へ立ち、教本を開かれた。
「魔法研究科の学生は、実験や研究に没頭するあまり、生活面がおろそかになることがあります」
講習室に小さな笑いが広がります。私も、思わず頬が緩みました。
(お嬢様も、その通りです)
研究を始められると、お茶が冷めてもお気付きにならない。
お昼の時間になっても本を読んでいらっしゃる。
ヴィオレット先生が「まず昼食にしましょう」と声を掛けてくださらなければ、そのまま夕方まで研究を続けてしまわれそうな日もありました。
「侍女や従者は、身の回りのお世話だけが仕事ではありません」
先生は静かに続けられます。
「学生が安全に研究へ打ち込める環境を整えることも、大切な役目です」
魔道具の運搬。
薬品の管理。
実験室への出入り。
危険区域の確認。
講義は思っていた以上に専門的でした。
けれど、不思議と難しいとは思いません。
一つでも多く覚えたい。
それがお嬢様のお役に立つなら。
その一心で、私は一言一句を書き留めていきました。
◇
夕方。
講習を終えた私は、学院の中庭をゆっくり歩いていました。
整えられた花壇。
学生さんたちが談笑する芝生。
大きな図書館。
研究棟へ続く石畳。
来年には、お嬢様もここを歩かれるのですね。
そう思うだけで、胸が温かくなります。
「アンナさん」
同じ講習を受けている侍女の一人が声を掛けてくださいました。
「アルヴェイン伯爵家のお嬢様は、魔法研究科へ進まれるそうですね」
「はい」
「とても優秀な方だと伺いました」
私は少しだけ誇らしい気持ちになりました。
「はい。本当に努力家でいらっしゃいます」
「小さい頃からですか?」
「ええ」
自然と笑みが浮かびます。
「毎日欠かさずお勉強をなさっていました」
魔法式の紙が机いっぱいに広がったお部屋。
難しい顔で考え込んでおられる姿。
何か思い付かれた時の、あの嬉しそうな笑顔。
どれも昨日のことのように思い出せます。
「でも」
私は静かに続けました。
「お嬢様は、とてもお優しい方でもあります」
「そうなのですか?」
「はい」
疲れている使用人を見掛ければ、『少し休んでください』と声を掛けられる。
工房では職人さんのお話を楽しそうに聞かれる。
領内の子どもたちとも分け隔てなく接してくださる。
立場ではなく、人を見ておられる方なのです。
「素敵なお嬢様ですね」
その言葉に、私は心から頷きました。
「自慢のお嬢様です」
◇
夜。
宿舎の自室へ戻ると、机の上へ一通の手紙が置かれていました。
差出人は、アルヴェイン伯爵家。
懐かしい文字を見ただけで、自然と頬が緩みます。
封を開くと、お嬢様からのお手紙でした。
『アンナ、お勉強は順調ですか』
そんな書き出しから始まり、最後にはこう書かれていました。
『学院でも、よろしくお願いします』
短い文章でした。
けれど、その一言だけで十分でした。
私は便箋を胸へ抱きしめます。
赤ちゃんだった頃から見守ってきたお嬢様。
高熱で命が危ぶまれた日も。
初めて魔法式を完成させて飛び跳ねるように喜ばれた日も。
研究へ夢中になって、ヴィオレット先生と夜遅くまで議論していた日も。
どれも、私にとって大切な思い出です。
来年からは、王立アステリア学院。
お嬢様はきっと、多くの素晴らしい先生やお友達と出会われるでしょう。
新しい研究にも挑戦されるでしょう。
悩む日もあるかもしれません。
失敗して落ち込まれる日もあるかもしれません。
でも、その時は。
私はいつものように、お茶を淹れましょう。
お食事の時間をお伝えしましょう。
夜更かりをなさったら、ちゃんとお休みになるようお願いしましょう。
それが、私にできることです。
侍女という仕事は、決して目立つものではありません。
それでも、お嬢様が安心して前を向き、思う存分研究へ打ち込めるのなら。
その後ろで静かに支え続けることこそ、私の誇りです。
「これからも、よろしくお願いいたします。お嬢様」
誰もいない部屋で小さく呟くと、私はいただいた手紙を大切に机の引き出しへしまいました。
来年、この学院で再びお嬢様をお迎えする日を楽しみにしながら。