TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
実習室の前方に設置された実験台では、クロフォード先生が二枚の課題用紙を並べていた。
「それでは、解説を始めます」
研究科の学生たちが静かに視線を向ける。
「本日の課題は、実験を成功させることではありません」
先生はゆっくりと教室を見渡した。
「限られた情報から、どのような実験を設計するか。それぞれの思考過程を見ることが目的でした」
そう言って、一枚目の課題用紙を掲げる。
「まずはこちらです」
私の提出物だった。
胸が少しだけ高鳴る。
「仮説を複数立て、一つずつ検証する」
「変数は一つだけ変更し、対照実験を置き、再現性も確認する」
先生は静かに頷いた。
「非常に丁寧な実験計画です」
教室のあちこちで納得したような表情が見える。
「研究では再現性が重要です」
「偶然得られた結果では意味がありません」
「この計画であれば、時間は掛かりますが、最終的には原因へ到達できるでしょう」
その評価を聞き、私は少しだけ胸を撫で下ろした。
(よかった……)
少なくとも、考え方そのものは間違っていなかった。
そう安心したのも束の間だった。
先生はもう一枚の課題用紙を手に取る。
「次はこちら」
ハーバル様の提出物だ。
紙には、私のものとは比べ物にならないほど少ない文字しか書かれていない。
教室の後方からも、小さなどよめきが聞こえた。
「一見すると、説明不足に見えるかもしれません」
先生はそう前置きしてから黒板へ魔法式を書き写す。
「では、問題です」
チョークで魔法式の一部へ印を付けた。
「この魔法式において、魔力効率へ最も大きな影響を与える可能性が高い箇所はどこでしょう」
教室は静まり返る。
私も改めて魔法式を見つめた。
候補はいくつもある。
補助構文、魔力の流れ、構文それぞれの並び……どれも否定できないと思う。
だから私は、一つずつ調べようと考えた。
先生は数秒待ってから続ける。
「ハーバル君は、この部分だけを検証対象にしました」
黒板の一か所を軽く叩く。
「理由は単純です」
「この構文だけが、理論上ほかの要素へ連鎖的な影響を与えるからです」
私は思わず目を見開いた。
(連鎖的……?)
そんな視点では考えていなかった。
「もちろん絶対ではありません」
「しかし可能性を理論から順位付けできるなら、最も確率の高いものから検証する方が効率的です」
先生は私の提出物へ視線を移す。
「アルヴェイン嬢は、すべての可能性を公平に扱いました」
「それは堅実であり、研究者として大切な姿勢です」
「一方、ハーバル君は魔法式そのものを解析し、優先順位を付けています」
黒板へ二本の線が引かれる。
一方は私の実験計画。
もう一方はハーバル様の計画。
「こちらは十回以上の実験を想定しています」
先生は私の方を指す。
「対して、こちらは二回です」
教室がざわついた。
「二回で?」
誰かが小さく呟く。
先生は頷いた。
「一回目で仮説を確認し、二回目で再現性を確かめる」
「もし違えば、次の候補へ移る」
「つまり」
先生はチョークを置いた。
「仮説の精度そのものが高いのです」
私は黒板を見つめたまま動けなかった。
仮説の精度。
そこが違う。
私は可能性を広く集めた。
ハーバル様は、その前の段階で絞り込んでいた。
「では」
クロフォード先生は実験台へ歩き、あらかじめ準備してあった魔力媒体を取り上げる。
「簡単な模擬実験をお見せしましょう」
先生が魔力を流す。
標準魔法式。
課題の魔法式。
そしてハーバル様が指摘した構文だけを書き換えた魔法式。
測定器へ表示された数値を見た学生たちから、小さなどよめきが広がった。
「消費魔力量が……」
「戻った」
先生は静かに頷く。
「原因は、この構文でした」
教室が静まり返る。
私は測定器の数字から目を離せなかった。
(本当に……)
たった一か所だった。
私は十通り近い実験を組み立てた。
けれどハーバル様は、最初からそこだけを見抜いていた。
「アルヴェイン嬢の計画でも、最終的には同じ結論へ到達します」
先生は私へ視線を向ける。
「ですが、研究には時間も資材も限りがあります」
「だからこそ、仮説の質が重要になるのです」
その言葉が胸へ静かに落ちていく。
私のやり方は間違っていなかった。
先生もそう評価してくださった。
それでも届かなかった。
私は一歩ずつ階段を上る方法を考えた。
ハーバル様は、階段の構造そのものを見て、最短の道を選んでいた。
同じ魔法式を見ていたはずなのに。
見えていた景色が、最初から違っていたのだ。
胸の奥が、少しだけ重くなる。
努力すれば追い付ける。
そう思って学院へ入学してきた。
けれど今日、初めて考えてしまった。
(努力だけでは……)
(勝てない相手というものが、本当にいるのかもしれません)
実習が終わり、学生たちが少しずつ実習室を後にしていく。
私は教材を鞄へしまいながらも、しばらく席を立つことができなかった。
黒板に残る魔法式が、まだ頭から離れない。
(私の考え方でも間違いではなかった)
クロフォード先生はそう評価してくださった。
それは嬉しい。
努力して積み重ねてきたものが否定されたわけではない。
けれど。
(勝てませんでした)
そこだけは、どう考えても変わらない。
私が慎重に積み上げた実験計画を、ハーバル様は理論だけで大きく飛び越えていった。
あの魔法式を見た瞬間から、すでに優先順位が見えていたのだ。
私には、そんな発想は浮かびもしなかった。
「……帰りましょう」
誰に言うでもなく呟き、私は実習棟を出た。
◇
夕暮れの学院は静かだった。
赤く染まった石畳を歩いていると、不意に聞き慣れた声が背中から届く。
「浮かない顔をしていますね」
振り返る。
そこにはヴィオレット先生が立っていた。
「先生」
「今日は実習でしたね」
先生は私の表情を見つめ、小さく微笑む。
「クロフォード先生から、少し話は聞いています」
私は思わず視線を落とした。
隠せていると思っていた。
けれど、先生にはすぐ分かってしまったらしい。
「少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
二人で中庭のベンチへ腰を下ろす。
春の風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが静かに響いていた。
「ロザモリアさん」
先生は学院の教師としてではなく、私の家庭教師だった頃の呼び方で尋ねる。
「何が一番つらかったのですか」
その問いに、私はすぐ答えられなかった。
胸の内を整理するように、ゆっくりと言葉を探す。
「……私のやり方は、間違っていませんでした」
「ええ」
先生は迷わず頷く。
「クロフォード先生も、そのように評価されたのでしょう」
「はい」
「だからこそ、です」
私は拳を軽く握る。
「間違っていないのに、届きませんでした」
その一言を口にした瞬間、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ軽くなった。
「私は幼い頃から、先生に教えていただいて」
「ずっと魔法だけを勉強してきました」
「努力すれば、いつか一番になれると思っていました」
私は苦笑する。
「ですが今日……初めて思いました」
「努力だけでは届かない相手もいるのだと」
しばらく沈黙が流れる。
ヴィオレット先生は私の言葉を遮ることなく聞いてくださった。
やがて静かに口を開く。
「ハーバル君は、確かに特別です」
否定はしなかった。
「私も学生時代に、あのような発想をする方はほとんど見たことがありません」
その言葉に、少しだけ胸が締め付けられる。
「ですが」
先生は優しく微笑んだ。
「だからといって、あなたの価値が下がるわけではありません」
私は顔を上げる。
「研究は、一人では成り立ちません」
「大胆な仮説を立てる者も必要です」
「それを一つひとつ丁寧に検証し、確かな知識へ変える者も必要です」
先生は私を真っ直ぐ見つめる。
「ロザモリアさん」
「あなたは後者として、とても優れています」
「結果だけを信じるのではなく、なぜそうなったのかを確かめ続ける」
「その姿勢は、決して才能だけでは身に付きません」
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「私は……」
「悔しいのでしょう?」
先生が微笑む。
私は小さく頷く。
涙が滲んでいたことに、そこで初めて気が付いた。
「はい」
「それでいいのです」
「悔しいと思えるから、人は成長できます」
「その気持ちまで失わないでください」
私は深く息を吸った。
まだ悔しさは消えない。
けれど、少しだけ前を向ける気がした。
「ありがとうございます、先生」
「こちらこそ」
先生は立ち上がる。
「次の実習も楽しみにしています」
その背中を見送りながら、私は自然と背筋を伸ばしていた。
◇
寮へ戻ると、アンナが玄関まで迎えに来てくれた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま戻りました」
私の顔を見るなり、アンナは少しだけ首を傾げる。
「何かございましたか?」
「分かりますか?」
「もちろんです」
アンナは優しく笑った。
「お嬢様のお顔は、小さな頃からずっと見てまいりましたから」
その一言に、思わず肩の力が抜ける。
部屋へ入ると、アンナは温かい香草茶を淹れてくれた。
湯気の立つ茶器を前に、私はぽつりと呟く。
「今日は……少し、自信をなくしてしまいました」
アンナは驚かず、静かに耳を傾けている。
「学院には、本当にすごい方がいらっしゃるんです」
「どれだけ努力しても、届かないのではないかと……そう思ってしまいました」
話し終えると、部屋は静かになった。
アンナはティーカップを私の前へ置き、穏やかな声で言う。
「お嬢様」
「アンナは、お嬢様が誰より優れているから信じているのではございません」
私は顔を上げる。
「五歳の頃から、毎日休まず努力を続けてこられたお姿を見てまいりました」
「魔法式が分からず涙をこらえていた日も」
「夜遅くまで本を読んでいらした日も」
「全部、覚えております」
アンナは柔らかく微笑んだ。
「ですから、これからもきっと大丈夫です」
「お嬢様は、努力をやめない方ですから」
私は香草茶を一口飲む。
優しい香りが胸の奥まで染み渡る。
(そうですね)
今日一日で、追い付けるとは思っていない。
悔しさも、焦りも、まだ残っている。
それでも。
明日もまた、魔法式へ向き合おう。
そう思えたのは、先生とアンナの言葉があったからだ。