TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
窓の外では、小鳥がさえずっていた。
いつもなら、その声を聞きながらロザモリアは目を覚ます。
けれど、その日の朝は違った。
「ロザミー?」
ベッドに横たわる娘の頬へ、セレスティアはそっと手を当てる。
触れた瞬間、その表情が曇った。
「熱い……!」
普段は白く滑らかな肌が赤く火照り、小さな身体は浅い呼吸を繰り返している。
「アンナ!すぐに医師を!」
「は、はい!」
侍女が慌ただしく部屋を飛び出していく。
その物音にも、ロザモリアは反応しない。
苦しそうに眉を寄せ、小さくうわ言を漏らすだけだった。
「お母様……」
「大丈夫よ、ロザミー。すぐにお医者様がいらっしゃいますから」
セレスティアは娘の額を冷たい布で冷やしながら、震えそうになる手を必死に押さえ込んだ。
ほどなくして、執務中だったエドマンドも駆けつける。
「容態は」
「熱が急に……」
伯爵は娘の顔を見つめたまま、険しい表情を崩さなかった。
「医師は」
「もう向かっています」
短いやり取りのあと、部屋には重い沈黙が流れる。
ロザモリアは苦しそうに寝返りを打ち、小さく咳き込んだ。
「お父様……」
呼びかけた声も、熱に浮かされた夢の中のものだった。
その手を、エドマンドは静かに握る。
「ここにいる」
その一言だけ返す。
領民の前では決して動じない伯爵だったが、娘の手を包む力は、わずかに震えていた。
◇
医師の診察はすぐに終わった。
薬が処方され、冷却の魔法も施された。
それでも熱は下がらない。
昼になっても。
夜になっても。
ロザモリアの意識は戻らなかった。
「こんなことは……」
医師が言葉を濁す。
「高熱によるものと思われますが、原因が判然といたしません」
「助かるのか」
エドマンドの問いに、医師はしばらく黙り込んだ。
「……今は、お身体が耐えてくださることを祈るしか」
その答えを聞き、部屋の空気がさらに重くなる。
医師が去ったあとも、セレスティアはベッドのそばを離れなかった。
「ロザミー……」
娘の髪を優しく梳きながら、静かに祈り続ける。
幼い頃から、少し真面目すぎるほど真面目な子だった。
誰かが困っていれば心配し。
礼儀を教えれば、一生懸命覚えようとする。
友達との約束を、宝物のように大切にする。
そんな娘を失うことなど、考えたこともなかった。
扉が静かに開く。
「母上」
クリストファーだった。
「ロザミーは……」
「まだ眠っています」
兄はベッドのそばまで歩み寄り、小さな妹の顔を見つめた。
「早く元気になってほしいな」
そう呟く声は、どこか心細そうだった。
「きっと大丈夫よ」
そう言いながらも、セレスティア自身がその言葉に縋っていた。
◇
二日目。
熱はさらに上がった。
冷却魔法を繰り返しても追いつかない。
医師も首を横に振るばかりだった。
「こんな熱に、お嬢様の小さなお身体が……」
アンナが甲斐甲斐しくロザモリアの世話をしながら涙目で呟く。
屋敷中の使用人が、不安そうな顔で主人一家を見守っていた。
領主の娘である以前に、誰からも愛される少女だったからだ。
◇
暗い。
どこまでも暗い。
ロザモリアの意識は、深い闇の中を漂っていた。
声が聞こえる。
誰かが呼んでいるけれど届かない。
身体を動かそうとしても手足の感覚がない。
やがて闇の向こうに、小さな光が灯った。
その光へ近づくにつれ、知らない景色が浮かび上がってくる。
高くそびえる建物。
見たこともない形の乗り物。
夜でも昼のように明るい街。
次々と映像が流れていく。
制服を着た少年。
教室で友人たちとバカな話をして盛り上がる光景。
部活動に打ち込んだ日々。
苦しかった受験勉強。
ようやく合格できた大学。
やがて大人になり、机へ向かって何かを打ち込んでいる青年。
画面いっぱいに並ぶ文字。
同僚や先輩との会話、顧客との折衝。
終電間際の駅……疲れ切った身体。
「蓮見」
誰かがそう呼ぶ。
その名前を聞いた瞬間、映像が一気につながった。
蓮見祥吾。
それが青年の名前だった。
仕事は、システムエンジニア。
毎日遅くまで働き、ときには休日まで会社へ向かっていた。
それでも、ものづくりは嫌いではなかった。
新しい仕組みを考え、少しずつ形にしていく。
完成した時の達成感は、何ものにも代えがたいと思っていた。
記憶はさらに流れ込む。
家族や友人……学生時代の彼女。
失敗に成功、笑ったことや悔しかったこと。
二十年以上という人生が、一瞬で胸の中へ雪崩れ込んできた。
頭が割れそうに痛い。何が起きている?
俺は――俺は誰だ?
ロザモリア?違う。
蓮見祥吾?それも違う。
二つの人生が混ざり合い、境界が曖昧になっていく。
遠くで誰かが泣いている。
「ロザミー……お願い……」
優しくて温かい、女性の声。
聞いたことがある。聞いていると安心する。
誰の声だろうと考えようとした瞬間、闇の世界が音を立てて崩れ始めた。
光が、視界いっぱいに広がっていく。
光が弾けた。
◇
「――っ!」
俺は勢いよく目を開いた。
真っ先に飛び込んできたのは、見覚えのない天井だった。
白い漆喰に細かな装飾が施され、豪華な天蓋付きのベッドが視界の端に映る。
ぼんやりしていた意識が、急速に冴えていく。
(ここは……どこだ)
起き上がろうとして、身体がひどく重いことに気づく。
腕を持ち上げるだけでも力が要った。
その時だった。
「ロザミー!」
涙声が部屋に響く。
金髪の女性が駆け寄り、俺の手を両手で包み込んだ。
「よかった……本当によかった……」
その後ろでは、立派な身なりの男が安堵したように息をついている。
さらに兄妹ほどの年頃の少年まで、今にも泣きそうな顔をしていた。
セレスティアお母様。
エドマンドお父様。
クリストファーお兄様。
――アルヴェイン伯爵家の家族。
(……違う)
違わない。
ロザモリアとしての記憶は、確かに彼らを家族だと感じている。
だが同時に、俺は別の人生も知っている。
蓮見祥吾。
日本で暮らし、システムエンジニアとして働いていた男だ。
二つの記憶が矛盾なく頭の中に存在していた。
「お医者様を!」
誰かが叫ぶ。
使用人たちが慌ただしく動き始めた。
その様子を眺めながら、俺はゆっくりと右手を持ち上げる。
小さくて指が短い。そして肌が驚くほど白い。小さな女の子の手だ。
(……夢じゃない)
現実なのか。
混乱する頭で、俺はゆっくりと視線を下ろした。
胸元まで掛けられた寝具の下にある身体も、小さい。
自分の身体。幼い少女の……ロザモリアの身体。
そこでようやく、俺は一番重要なことを思い出した。
(そうだ……俺、死んだのか)
最後の記憶は曖昧だった。
働き続けた日々。
その先が思い出せない。
だが、生きていた世界にはもう戻れないのだということだけは、不思議なほど素直に理解できた。
「ロザミー、お水を飲めますか?」
セレスティアが優しく尋ねる。
俺は小さく頷いた。
コップを支えられながら一口飲む。
喉を通る冷たい水が、現実感を伴って身体へ染み渡る。
「先生、熱は」
駆けつけた医師が額へ手を当て、穏やかに笑った。
「峠は越えたようです。もうご安心ください」
その言葉に、部屋中の空気が一気に緩む。
「ありがとう……」
セレスティアは涙を拭いながら何度も礼を述べていた。
エドマンドも、表情こそ崩さなかったが、肩から力が抜けている。
クリストファーはベッドへ駆け寄ると、嬉しそうに笑った。
「ロザミー!本当に心配したんだから!」
「あ……」
返事をしようとして、言葉が詰まる。
今の俺は、ロザモリアだ。
五歳の伯爵令嬢。
自然に振る舞わなければならない。
「ご、ごめんなさい……お兄様」
思わず口から出たのは、幼い少女の声だった。
透き通るような、高い声。
耳で聞くたびに違和感がある。
(……俺の声じゃない)
その事実が、ゆっくりと胸へ落ちてくる。
医師が退室し、家族もひとまず部屋を出ることになった。
「少し休みましょうね」
そう言ってセレスティアは部屋を後にする。
静かになった部屋で、俺はようやく一人になった。
ゆっくりと両手を見る。
何度見ても、男の身体ではない。
俺はベッド脇に置かれていた鏡を手に取った。
金色の長い髪。それに夜空のような深い青い瞳。
人形のように整った幼い顔立ち。
これは誰だと思いつつ、同時にこれは自分だと確信できる。
不思議な気分だ。
「…………」
声が出ない。
理解したくなかったが理解してしまった。
俺は転生した――しかも――。
(女……なのか)
その一言が、頭の中で何度も反響する。
前世では二十代後半まで男として生きてきた。
男として学校へ通い、働き、友人と酒を飲み、人生を積み重ねてきた。
その俺が今は五歳の少女になっている。
「冗談だろ……」
思わず漏れた声は、小さく可愛らしい少女のものだった。
その声を聞いた瞬間、全身に鳥肌が立つような気がした。
否定したい。
夢だと言ってほしい。
目が覚めれば、いつもの会社へ向かう朝になっていてほしい。
けれど、頬をつねっても痛みしか返ってこない。
窓の外からは、庭師たちの話し声が聞こえる。
廊下では使用人が忙しく歩き回っている。
どれも現実だ。
俺は深く息を吸い、ゆっくり吐き出した。
混乱しても仕方がないし、現実が変わるわけではない。
今ある情報を整理してみる。ここはロザモリアが生きる世界。
俺はその記憶も持っている。
家族のことも、屋敷や領地のことも、令嬢としての礼儀作法も。
つまり、生活そのものに困ることはない。
問題は――
(これから、どう生きる)
答えはまだ出ない。
だが一つだけ、はっきりしていることがあった。
今日から始まる人生は、蓮見祥吾ではなく――
ロザモリア・アルヴェインとしての人生なのだ。