TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
研究会から三日後。
私は研究室の窓際で、一枚の大きな魔法紙と向き合っていた。
目の前にあるのは、冷蔵魔道具から写し取った標準圧縮式。
そして、その横には自分で何度も書き直した試作魔法式。
「うーん……」
思わず小さく唸る。
考え方は見えている。熱とは分子の運動であるという前世知識を元にすると
粒の運動そのものへ働きかければ、冷媒をより効率よく冷却できるかもしれない。
そこまでは良い。
問題は、その発想をどう魔法式へ落とし込むかなのだ。
「標準加速式を、そのまま流用するわけにはいきませんね……」
私はペンを動かす。
標準加速式……標準圧縮式。
それぞれの構造を並べ、共通点を探していく。
「ここは……」
違う。線を一本消す。
「こちらでしょうか」
また違う。紙の端には、失敗した構文が何十個も並んでいた。
(頭の中では分かっているのに、形にできない)
少しだけ悔しい。
考え付くことと、実際に設計できることは別なのだと改めて思い知らされる。
「ロザモリアさん」
ヴィオレット先生が後ろから声を掛けてくださった。
「進み具合はいかがですか」
私は少し困ったように笑う。
「発想はあるのですが……」
「魔法式へ落とし込むところで止まっています」
先生は私の書いた魔法式を一通り眺め、優しく頷いた。
「焦る必要はありません」
「仮説を立てる才能と、それを形へする技術は別の能力です」
「どちらも経験によって磨かれていきます」
その言葉だけで、不思議と肩の力が抜けた。
「ありがとうございます」
私はもう一度紙へ向き直る。
諦める理由にはならない。
書いて、消して、また書く。その繰り返ししかない。
◇
その日の夜。
寮の自室でも、私は机へ向かっていた。
ランプの明かりだけが部屋を照らしている。
何枚目か分からない魔法紙へ、新しい構文を書き込む。
「ここを変数にして……」
「いえ、それでは干渉してしまいますね」
一人でぶつぶつ呟きながら考え続ける。
時計を見ると、もうかなり遅い時間だった。
それでも手は止まらない。
「失礼いたします」
控えめなノックの後、アンナが部屋へ入ってきた。
手には湯気の立つカップを持っている。
「温かいお茶をお持ちしました」
「あ……ありがとう、アンナ」
私はようやくペンを置いた。
アンナは机の上へ広がる大量の魔法紙を見回し、小さく苦笑する。
「また随分と頑張られましたね」
「気付いたら、こんな時間になってしまいました」
「気付かないだろうと思っていました」
くすっと笑われてしまう。
「お嬢様は昔からそうでした。魔法式を書き始めると、時間を忘れてしまわれます」
否定できない。
幼い頃から何度も同じことをしてきた。
アンナはカップを私の前へ置く。
「少し休憩なさってください。良い考えは、休んでいる時に浮かぶこともあります」
私は温かな湯気を見つめ、小さく微笑んだ。
「わかりました。アンナの言うとおり少し休むことにします」
一口飲むと、張り詰めていた頭が少しだけ軽くなる。
研究室でも、家でも。私は一人ではない。
そう思うだけで、また明日も頑張ろうという気持ちになれた。
◇
さらに数日後。
「ノア様、お時間よろしいでしょうか」
研究室で声を掛けると、ノア様は読んでいた資料から顔を上げた。
「構いません」
私は少し緊張しながら、一冊のノートを差し出す。
「試作魔法式を書いてみました」
「まだ完成ではありませんが、ご意見をいただければと」
ノア様は静かに受け取り、ページをめくり始めた。
研究室には紙をめくる音だけが流れる。私はただ待つ。
数分後、ノア様は何も言わず、私のペンを借りると、余白へさらさらと文字を書き始めた。
迷いがない。
一度も手を止めることなく、数行だけ書き加える。
「……どうぞ」
返されたノートを開いた私は、思わず息を呑んだ。
冗長だった補助構文が、一目で分かるほど整理されている。
魔法式全体の流れまで組み替えられ、比較実験がしやすい構成へ変わっていた。
さらに余白には、小さな文字で注釈が添えられている。
『ここだけ変数にすれば、一度の実験で三条件比較できます』
私は何度もその一文を読み返した。
「……そこまで考えるんですか」
思わず漏れた声に、ノア様は首を傾げる。
「比較実験ですから、条件を揃えた方が解析しやすいでしょう」
それだけだった。
本人にとっては、ごく当たり前のことなのだ。
私は改めてノートへ目を落とす。
(敵わない)
そう思った。
でも同時に、不思議と悔しさだけではなかった。
(だからこそ。この人と研究するのは、こんなにも面白いのでしょうね)
私は小さく笑って、もう一度ノートを抱き締めた。
「では、この案で試作機を組み立ててみましょう」
ヴィオレット先生の一言で、共同研究は次の段階へ進んだ。
もっとも、試作機は魔法式を書き換えれば完成するものではない。
魔力伝導体の加工。
魔道エーテルを扱うための安全確認。
魔法式を書き込む魔力基板の作製。
どれも一日や二日では終わらない作業だった。
研究室では、それぞれが役割を分担する。
私は魔法式の調整。
ノア様は実験計画と測定方法の見直し。
エレノアは部材の手配や、商会から提供された試験機の管理。
気が付けば、季節は少しずつ春から初夏へ移ろい始めていた。
◇
前期末の実験日。
研究室の中央には、新しい冷蔵魔道具の試作機が静かに置かれていた。
見た目は以前のものと大きく変わらない。
けれど内部には、私たちが何度も議論を重ねて完成させた魔法式が組み込まれている。
私は思わず深呼吸をした。
(ここまで来たんですね)
何度も書き直した魔法式。
ノア様に添削していただいたノート。
エレノアが集めてくれた資料。
どれも、この一台へ繋がっている。
「準備はよろしいですか」
ヴィオレット先生が静かに尋ねる。
私たちは揃って頷いた。
「起動します」
エレノアが魔力を流し込む。
内部の魔力回路が淡く光り始めた。
標準圧縮式が起動する。
その後、新しく組み込んだ魔法式が順番に展開される。
私は思わず拳を握り締めていた。
(お願い……)
ほんの数秒。
けれど、とても長く感じる。
やがて測定器の針がゆっくりと動き始めた。
ノア様が数値を書き留める。
「冷却開始」
「魔力消費……安定しています」
さらに数十秒。
冷却室へ入れていた水入りの容器を取り出すと、表面にはうっすらと水滴が付いていた。
エレノアが温度計を確認する。
「冷えています……!」
その声は、少し震えていた。
ノア様も測定器から顔を上げる。
「従来機と比較して、魔力消費が減っています」
「冷却速度も、わずかですが向上しています」
成功だった。
劇的な性能向上ではない。
でも、私たちが立てた仮説は、確かに形になった。
「良かった……」
思わず肩の力が抜ける。
その場へ座り込みそうになるのを、どうにか堪えた。
エレノアは試作機を見つめながら、小さく笑っている。
「本当に動きました」
「夢じゃないですよね……」
「夢ではありません」
私も笑顔で答える。
「エレノアのおかげです」
「そんな……!」
「私は運んだだけで」
「違います」
私は首を横へ振った。
「この研究は、エレノアが相談してくださらなければ始まりませんでした」
「冷媒や市場のことも、私たちだけでは分かりませんでした」
「だから、三人の研究です」
エレノアは少し照れながら、「ありがとうございます」と小さく呟いた。
その様子を見て、私も自然と笑みがこぼれる。
ヴィオレット先生は完成した試作機をゆっくり眺め、満足そうに頷いた。
「皆さん、よく頑張りました」
「これは完成ではありません」
「魔法式も、冷媒も、まだ改良の余地があります」
先生は私たち三人を見渡す。
「ですが、現実の課題へ向き合い、自分たちの手で一歩前へ進めた」
「それこそが、この研究室で最初に学んでほしかったことです」
その言葉が胸へ静かに染み込む。
研究は、論文を書くことだけではない。
誰かの暮らしを少しだけ良くするために考え続けること。
その意味を、この数か月で少しだけ理解できた気がした。
◇
その後、前期末試験は例年どおり淡々と行われた。
結果は昨年と変わらない。
首席はノア様。
私は次席だった。
掲示板を見上げながら、小さく息を吐く。
「やっぱり敵いませんね」
そう呟くと、隣から穏やかな声が聞こえた。
「ロザモリアさん」
ノア様だった。
「今回の研究では、多くのことを学ばせていただきました」
「ありがとうございました」
思いがけない言葉に、私は目を丸くする。
「こちらこそです」
「ノア様がいなければ、この魔法式は完成しませんでした」
お互いに頭を下げ合う。
それだけの短いやり取りだったけれど、不思議と去年までとは違う。
追い掛けるだけだった存在が、今では同じ研究へ取り組む仲間になっていた。
まだノア様には実力は及ばないけど、それでも。
(次は、もっと良い案を考えてみせます)
そんな前向きな気持ちが自然と湧いてくる。
こうして、ヴィオレット研究室での最初の共同研究は、小さな成功という成果を残して前期の終わりを迎えた。