TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
夏期休暇を迎えた王立アステリア学院は、昨年と同じように帰省する学生たちで賑わっていた。
「今年も一緒ね、ロザ」
「ええ。また同じ列車になれて良かったです」
リリーが柔らかく微笑む。
私たちは昨年と同じ寝台列車へ乗り込み、王都を後にした。
研究室での共同研究を振り返ったり、次はどんな研究をしてみたいかを話したり。気付けば窓の外の景色は王都から田園へ変わり、やがてリリーが降りる駅へ到着する。
「また休暇中にお会いしましょう」
「もちろんです」
手を振って見送ると、列車は再びゆっくりと走り出した。
そこからさらに数時間。
懐かしいアルヴェイン領へ帰ってきた。
◇
「お帰り、ロザミー」
「ただいま戻りました、お父様」
玄関へ入ると、お父様が穏やかな笑顔で迎えてくださる。
その隣にはお母様とお兄様の姿もあった。
「お帰りなさい、ロザミー」
「久しぶりだね」
家族の顔を見ると、不思議と肩の力が抜ける。
学院での生活は充実していたけれど、やはり実家は安心できる場所だ。
挨拶を終えたところで、お母様が優しく微笑んだ。
「ロザミー。会ってもらいたい子がいます」
その言葉に胸が高鳴る。
私は自然とお母様の後について歩いた。
案内された部屋には、小さな揺り籠が置かれている。
その中で、小さな赤ちゃんが静かに眠っていた。
「この子があなたの弟のウィリアムです」
私は思わず揺り籠を覗き込む。
小さな手、小さな鼻、ふっくらした頬。
呼吸に合わせて胸が小さく上下している。
(……小さい)
頭では、生まれたばかりの赤ちゃんなのだから当然だと理解している。
それでも、実際に目の前で見ると想像以上だった。
「抱いてみますか」
お母様がそう言って微笑む。
「わ、わたくしがですか?」
「ええ。座っていれば大丈夫ですよ」
少し緊張しながら椅子へ腰掛ける。
お母様は慣れた手つきでウィルを抱き上げ、そっと私の腕へ預けてくださった。
「片手は首を支えて」
「はい」
恐る恐る抱き直す。
思っていたより軽い。
壊れてしまいそうなくらい、小さくて柔らかい。
その瞬間。
「ふぁ……」
眠っていたウィルが小さく声を漏らし、私の指をぎゅっと握った。
「あ……」
小さな指だった。
私の指へすっぽり収まってしまうほど細く、小さい。
それなのに、その力は意外なほどしっかりしている。
私は思わず顔がほころんでいた。
「……可愛い」
自然と言葉が零れた。
作ろうとした笑顔ではなくて。胸の奥から湧き上がってきた感情が、そのまま口から出た。
ウィルは眠そうに目を細めたまま、小さく口を動かしている。
それだけで愛おしい。
もっと見ていたい。もっと抱いていたい。
そんな気持ちが次々と湧いてくる。
(あれ……?)
ふと、違和感を覚えた。
前世の私は、赤ちゃんというものが苦手だった。
嫌いというほどではない。
でも、どう接していいか分からなかったし、泣かれると困ってしまうと思っていた。
親戚の子どもを抱かせてもらった時も、早く大人へ返したいとしか考えていなかったはずだ。
なのに今は違う。
腕の中の温もりが心地良い。
小さな寝息を聞いているだけで、自然と笑顔になってしまう。
(どうしてでしょう)
私はウィルの寝顔を見つめながら、静かに考える。
前世の記憶は今でもはっきり残っている。
考え方も、知識も、ほとんど失ってはいないと思う。
けれど、それ以外の部分は少しずつ変わっているのかもしれない。
ロザモリアとして十五年生きてきた時間。
家族に囲まれ、リリーやアンナと過ごし、学院で友人や仲間に出会った日々。
そうした積み重ねが、私という人間を少しずつ変えている。
それとも――。
この身体だからこそ、自然に芽生える感情なのだろうか。
答えは分からない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
私は今、この子がとても愛おしい。
理由を考えるより先に、そう思ってしまうほどに。
「ロザミー」
お母様が優しく声を掛ける。
「弟は可愛いですか?」
「……はい」
私はウィルを見つめたまま、小さく頷いた。
「本当に、可愛いです」
その言葉に、お母様も、お父様も、お兄様も穏やかに笑っていた。
◇
数日後。
約束どおり、私はリリーの屋敷を訪れていた。
夏の日差しは強いけれど、庭を渡る風はどこか心地良い。
東屋で向かい合ってお茶を飲みながら、一緒におしゃべりしていた。
「……それで」
私はカップを置き、少しだけ身を乗り出す。
「ウィルが、本当に可愛いんです」
「あら」
リリーが嬉しそうに目を細める。
「抱っこすると、小さな手で指を握ってくれるんです」
「眠っている顔を見ているだけでも飽きなくて」
「昨日も気付いたら、ずっと揺り籠の横に座っていました」
話しながら、自分でも少し驚く。
研究の話をする時と同じくらい、夢中になって話している。
「お母様には『すっかりお姉ちゃんですね』なんて言われてしまいました」
思い出して少し照れ笑いを浮かべると、リリーはくすりと笑った。
「ロザなら、きっとそうなると思ってた」
私は目を丸くする。
「そう、でしょうか」
「ええ」
迷いのない返事だった。
「昔からそうだったもの」
「困っている人を見ると放っておけなかったし、小さな子にもとても優しかった」
私は思わず苦笑する。
「そんな記憶は、あまりないのですが……」
「ロザは覚えていないだけです」
リリーは柔らかく微笑んだ。
「お屋敷へ遊びに行くたび、使用人のお子さんとも遊んでいましたよ」
「転んで泣けば真っ先に駆け寄っていましたし」
「お菓子を半分こしてあげたりもしていました」
「そうでしたっけ……」
本当に、あまり覚えていない。
けれどリリーは懐かしそうに頷いている。
「だから、弟さんが生まれたら絶対に可愛がると思っていました」
「むしろ予想どおりです」
そう言われると、少し照れくさい。
「でも」
私は正直な気持ちを口にした。
「自分でも少し驚いているんです」
「抱っこしていると、離したくなくなってしまって」
「顔を見ているだけで嬉しくなるんです」
「こんな気持ちになるなんて思っていませんでした」
前世の私は、赤ちゃんにどう接すればいいのか分からなかった。
だから、今の自分との違いに戸惑っている。
そのことまでは言わなかったけれど、リリーは静かに頷いた。
「人は変わっていくものです」
「学院へ入ってからのロザを見ていても、それはよく分かります」
「研究室のお話をする時も、とても楽しそうですし」
「弟さんのお話をしている今は、もっと楽しそうですよ」
「えっ」
思わず頬へ手を当てる。
そんなに表情へ出ていたのだろうか。
「ふふ」
リリーは少しだけ悪戯っぽく笑う。
「今のロザ、とても優しい顔をしています」
その言葉に、私は少しだけ恥ずかしくなって視線を逸らした。
でも、不思議と嫌な気持ちはしない。
ウィルのことを考えるだけで、胸の奥が温かくなる。
「早く大きくならないでしょうか」
「一緒にお話もしたいですし、お庭でも遊びたいです」
そう口にした瞬間、自分で少し驚いた。
ついこの間まで、生まれたばかりの赤ちゃんだったのに。
もう、その先のことまで考えている。
リリーはそんな私を見て、小さく頷いた。
「きっと素敵なお姉様になるね」
「……そうなれたら嬉しいです」
私は微笑みながら答えた。
研究も好き。
魔法も好き。
でも、それとは別に。
アルヴェイン家の長女として。
ウィルの姉として。
そんな未来も、悪くないと思える自分がいた。
夏空には白い雲がゆっくりと流れていた。
その穏やかな景色を眺めながら、私は弟の小さな手の温もりを、もう一度静かに思い出していた。