TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
エレノアと別れた後。
私とノア様は、学院の中庭をゆっくりと歩いていた。
昼下がりの柔らかな日差しが石畳を照らし、行き交う学生たちの笑い声が遠くから聞こえてくる。
共同研究を終えた安堵からか、不思議と心は穏やかだった。
「ロザモリアさん」
ノア様が静かに口を開く。
「少し、お聞きしたいことがあります」
「はい、何でしょうか」
研究の反省点だろうか。
そう思って顔を向けると、ノア様は少しだけ考えるように間を置いた。
「今回の研究で、あなたがおっしゃったことです」
「熱とは、粒子の運動ではないか――というお話です」
その瞬間、心臓が一拍だけ強く脈打った。
やはり、その話だった。
私は努めて表情を変えないように微笑む。
「あれは……幼い頃に本で読んだ内容を思い出しただけです」
口から出たのは、とっさの言い訳だった。
「どのような本かは覚えていませんが」
「そうですか」
ノア様は短く答えた。
否定も肯定もせず、そのまま歩き続ける。
けれど、その沈黙がかえって落ち着かなかった。
やがて、ノア様は再び口を開いた。
「実は、気になって調べてみました」
私は思わず足を止めそうになる。
「学院の図書館だけではありません」
「王立魔法研究院が公開している論文集や、古い理論書まで確認しました」
そこまで……。
「ですが」
「粒子の運動が熱である、という学説は見当たりませんでした」
私は静かに頷くしかなかった。
もちろん、あるはずがない。
この世界では、まだそこまで科学は発展していないのだから。
「そう……でしたか」
「はい」
ノア様は私を責めるような口調ではなかった。
純粋に事実を積み重ねるような、いつもの話し方だ。
「さらに申し上げるなら」
「現在の魔法学では、その仮説を証明する方法そのものが存在しません」
「観測できないのです」
私は思わず問い返す。
「観測……ですか」
「ええ」
ノア様は頷いた。
「粒子そのものを見る手段がありません」
「仮に存在すると仮定しても、その運動を測定する技術がない以上、理論として証明することはできません」
その言葉を聞いて、私は改めて実感した。
現代日本の知識を持っていても、それだけでは何も証明できない。
理論には、観測と実験が必要なのだ。
「ですから」
「私はずっと疑問だったのです」
ノア様が私を見る。
「どうして、あの発想へ至ったのですか」
穏やかな問いだった。
逃げ道はいくらでも用意されているような口調。
私は答えられなかった。
本で読んだ、偶然思い付いた。そんな言葉では、もう誤魔化せないことくらい分かっている。
沈黙だけが流れる。
中庭を吹き抜ける風が、木々の葉を揺らし……やがてノア様は、小さく息をついた。
「……申し訳ありません」
「困らせるつもりはありませんでした」
「いえ」
私は慌てて首を横に振る。
「そうではないんです」
言いたい。
でも、言えない。
前世のことは、誰にも話したことがない。
家族はもちろん、リリーやアンナにも。
もし話したら、どう思われるだろう。そんな不安が、ずっと心のどこかにあったから。
すると、ノア様は静かに口を開いた。
「でしたら、私から先に一つお話しすることがあります」
私は思わず顔を上げる。
「私には、前の世界の記憶があります」
時間が止まったような気がした。
耳に届いた言葉の意味は理解できる。
けれど、それを受け入れるまでに数秒かかった。
「……え?」
かろうじて漏れた声は、それだけだった。
ノア様は表情を変えず、静かに頷く。
「五歳の時、高熱を出しました」
「その時に思い出したのです……以前の人生を」
その瞬間、幼い頃の自分と全く同じ光景が頭をよぎった。
高熱。
意識が遠のく感覚。
そして、もう一人の自分の記憶。
まるで鏡を見るようだった。
「私は」
ノア様は穏やかな声で続ける。
「前の世界では、日本という国で暮らしていました」
私は息を呑む。
日本。
その名前を、この世界で聞く日が来るなんて思ってもいなかった。
「日本……」
その言葉が、思わず口から零れた。
懐かしい。
もう二度と聞くことはないと思っていた国の名前。
ノア様は私の反応を見て、小さく頷いた。
「ご存じなのですね」
「私は前の世界で薬学を研究していました。以前の名前は、黒井聡一郎といいます」
穏やかな口調だった。
隠し事を打ち明けた人とは思えないほど自然で、肩の力が抜けている。
「こちらへ来てからは薬師の家へ生まれましたから、不思議な縁だと思っています」
私は黙って聞いていた。
目の前にいるノア様は、ノア様のままだ。
でもその内側には、私と同じように前の人生を知る人がいた。
そう思うだけで、世界の見え方が少し変わる。
「粒子という発想を聞いた時」
ノア様は少しだけ視線を遠くへ向けた。
「私の知っている世界の学問を思い出しました」
「もちろん、こちらの世界とは発展の仕方も違います。ですが、あまりにも考え方が近かったので……」
そこで一度言葉を切る。
「もしかすると、ロザモリアさんも同じなのではないか、と考えました」
私は小さく俯いた。
もう誤魔化すことはできない。
いや……誤魔化したくない。
秘密を先に打ち明けてくれた人へ、嘘を重ねるのは違う気がした。
私はゆっくり息を吸う。
「……実は」
声が少し震える。
「私にも、前の世界の記憶があります」
ノア様は驚かない。ただ静かに頷くだけだった。
「やはり」
それだけ。その一言に責める響きはまったくない。
「私も五歳の時でした」
「高熱を出して……思い出したんです」
「そうでしたか」
「はい」
そこから先は、不思議なくらい自然だった。
日本という国のこと。
こちらとは違う文化。
魔法のない世界だったこと。
少しずつ言葉を交わしていく。
まるで昔から知っていた友人と昔話をしているような、不思議な感覚だった。
「差し支えなければ」
ノア様が穏やかに尋ねる。
「前のお名前を、お聞きしてもよろしいですか」
「あ……」
私は口を開いた。
言おうとした。
「私の名前は――」
その瞬間。
喉が、凍り付いた。
声が出ない。
名前だけが、どうしても口から出てこない。
(どうして……?)
頭の中では覚えている。
漢字まで思い出せる。
なのに。
声にしようとすると、胸の奥が苦しくなる。
「……ロザモリアさん?」
ノア様が心配そうに声を掛ける。
私は慌てて首を横に振った。
「ご、ごめんなさい」
「実は……」
私は自分でも驚くほど自然に、その言葉を口にしていた。
「名前だけ、思い出せないんです」
「他のことは覚えているのですが……名前だけが、どうしても」
ノア様は少しも怪しむ様子を見せなかった。
「そういうこともあるのでしょう。記憶というものは、不思議ですから」
そのまま話題を変えるように微笑む。
「おかげで疑問が解けました。ありがとうございます」
私は胸を撫で下ろす。
助かったと、そう思った。
けれど同時に、胸の奥には別の引っ掛かりが残っていた。
どうして言えなかったのだろう。
本当は覚えている。
名前だけではない。
前世で男だったことも。
全部。
全部覚えているのに。
「それでは」
ノア様が立ち止まる。
学院の校舎へ続く分かれ道だった。
「来年度も、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
私は笑顔を作って頭を下げる。
「よろしくお願いいたします」
ノア様は穏やかに一礼すると、そのまま研究棟の方へ歩いていった。
私はしばらく、その背中を見送る。
やがて姿が見えなくなっても、足は動かなかった。
(わたくしは……)
静かな中庭に、一人だけ取り残される。
私は胸へ手を当てた。
前世の記憶を話すことはできた。
日本のことも、転生者であることも。
なのに前世の名前だけは、どうしても言えなかった。
……違う。名前じゃない。
本当に言えなかったのは――前世が男性だったということ。
その事実を、ノア様だけには知られたくなかった。
そこまで考えた瞬間、胸がどくりと大きく鳴る。
(……どうして?)
答えは分からない。
でも、その感情だけは、隠しようがないほど鮮明に。
私は小さく首を振る。
考えても、今はまだ答えは出せない――。