TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
アルヴェイン領へ到着した魔道列車がゆっくりと停車する。
窓の外には見慣れた駅舎と、雪化粧を始めた街並みが広がっていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
扉が開くと、屋敷の使用人たちが一斉に頭を下げる。
「ただいま戻りました」
懐かしい空気を胸いっぱいに吸い込みながら、私はアンナと並んで馬車へ乗り込んだ。
学院から持ち帰った荷物は後ろの荷台へ積まれていく。
馬車が走り始めると、窓の外には工房の煙突や魔力機織機の建物が次々と見えてきた。
小さい頃から見慣れた故郷の景色。
学院で過ごす時間が長くなった今では、この景色を見るだけで肩の力が抜けるようになっていた。
「お嬢様」
アンナが向かいの席で柔らかく微笑む。
「ウィリアム様も少し大きくなられていると思います」
「ええ」
「今からウィルに会うのがとても楽しみです」
そう答えると、自然と笑みがこぼれた。
弟のことを考えるだけで、心が温かくなる。
以前の私なら、こんな気持ちにはならなかったはずなのに。
◇
「ロザミー!」
屋敷へ着くなり、お兄様が真っ先に玄関まで迎えに来てくださった。
「お帰り」
「ただいま戻りました、お兄様」
「元気そうで何よりだ」
その後ろから、お父様とお母様も姿を見せる。
「よく帰ってきたな」
「お帰りなさい、ロザミー」
私は二人へ深く一礼した。
「ただいま戻りました、お父様、お母様」
家族が揃うと、不思議と屋敷全体まで明るくなったような気がする。
学院も楽しい。
研究室も居心地がいい。
でも、この場所はやはり特別だった。
「さあ」
お母様が優しく微笑む。
「ウィルも待っていますよ」
その言葉だけで足取りが少し速くなってしまう。
自分でも少し可笑しくなりながら、お母様の後を追った。
◇
乳母に抱かれたウィルは、半年前よりもずっと大きくなっていた。
「まあ」
私が近付くと、小さな手がぱたぱたと動く。
「あー……」
まだ言葉にはならない声。
それでも、私へ何かを伝えようとしているようだった。
「抱っこしてみますか?」
乳母に尋ねられ、私は少しだけ緊張する。
「……お願いします」
腕の中へそっと渡される。
思っていたより軽い。
でも、その小さな身体には確かな温もりがあった。
「ただいま、ウィル」
顔を覗き込むと、大きな青い瞳がじっと私を見上げてくる。
やがて、小さな口元がふにゃりと緩んだ。
笑った。
そう思った瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「可愛い……」
思わず声が漏れる。
ウィルは私の指を見つけると、小さな手でぎゅっと握った。
その力は弱々しい。
けれど、一生懸命握っていることだけは伝わってきた。
「ロザミー、もう完全にお姉ちゃんだな」
お兄様が笑う。
「そうでしょう?」
お母様も嬉しそうだ。
「ウィルもロザミーが大好きみたいですね」
私は何度も小さな手を握り返した。
こんなにも愛おしい。
この子が元気に育ってくれるなら、それだけで幸せだと思える。
(不思議です)
前世では、赤ちゃんは苦手だった。
泣けばどう接していいか分からない、壊してしまいそうで怖い。そんな気持ちばかりだった。
なのに今は違う。泣き声すら可愛く思える。
小さな手も、眠そうに瞬きをする仕草も全部が愛おしい。
「眠くなってきたようですね」
乳母が優しく声を掛ける。
確かにウィルは何度も欠伸をし始めていた。
私は名残惜しく思いながら、そっと腕を差し出す。
「また遊びましょうね」
抱き上げられたウィルは、小さく手を振るように腕を動かした。
偶然なのかもしれない。
それでも、見送ってくれているような気がしてしまう。
部屋を出た後も、私はしばらく笑みを浮かべたままだった。
(以前の私なら……こんなふうには思わなかったでしょう)
前世の記憶を思い出した時、私は「男だった自分」を強く意識していた。
だからこそ、身体との違いに戸惑い、結婚を避けようと必死だった。
けれど、こうしてウィルを抱いた今、心の動きはあの頃とは確かに違っている。
変わったのは身体だけなのだろうか。
それとも。
もっと別の何かが、少しずつ私の中で変わり始めているのだろうか。
その答えはまだ分からない。
けれど、ウィルの温もりだけは、いつまでも両腕に残っていた。
◇
その夜。
夕食を終え、自室へ戻った私は窓際の机に向かっていた。
開いたままの本は、ほとんどページが進んでいない。
文字は目で追っている。
けれど、内容はまったく頭へ入ってこなかった。
──コンコン。
控えめなノックの音が響く。
「どうぞ」
扉が開き、アンナがお茶を載せた盆を手に入ってきた。
「夜は冷えますので、温かいお茶をお持ちしました」
「ありがとう、アンナ」
机へ湯気の立つカップが置かれる。
優しい香りが部屋へ広がった。
アンナはすぐには部屋を出なかった。
何かを言おうとしているようで、でも言葉を選んでいるようにも見える。
やがて、小さく微笑んだ。
「……何かをお悩みですか?」
その一言だけだった。
何について、とは聞かない。
学院でのこと、研究のこと、友人のこと……何も決めつけない。
ただ、私の様子がいつもと違うことだけは分かっている。
さすがアンナだと思った。
幼い頃から、ずっと私のそばにいてくれた人なのだから。
私は少しだけ考えてから、静かに答える。
「少し……考え事をしています」
嘘ではない。
でも、それが全部でもない。
「そうでしたか」
アンナはそれ以上何も尋ねなかった。
「お話ししたくなりましたら、いつでもお聞かせください」
「はい」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
「おやすみなさい、アンナ」
扉が静かに閉まる。
部屋には再び静寂だけが残った。
私はお茶を一口飲み、深く息をつく。
考え事。
そう。確かに考えているのは、あの日のこと。
ノア様と二人で話した帰り道。
前世の記憶、日本という国。
どうしても口にできなかった一言。
(どうして、言えなかったのでしょう……)
前世の記憶があることは話せた。
日本で生きていたことも話せた。
それなのに。
前世が男性だったことだけは、どうしても言えなかった。
理由が分からない。
言ってしまえば、それで終わる話だったはずだ。
ノア様は秘密を打ち明けてくださった。
なら、私も正直に話すべき。そう思っていた。
それなのに。
私は立ち上がり、部屋の隅に置かれた姿見の前へ歩く。
鏡の中には、一人の少女が映っている。
金色の髪に、整った顔立ち。
学院の制服ではなく、見慣れた部屋着を身にまとった自分。
もう何年も見続けている姿。
それでも時折、不思議に思うことがある。
(これが……わたくし)
前世では違った。
もっと背が高く、肩幅も広くて。今とはまったく違う人物が映っていたはず。
けれど今は、この姿が自然になっている。
ウィルを抱いた時もそう。
以前なら抱かなかった感情が、今は当たり前のように湧いてくる。
少しずつ、本当に少しずつだけれど、私は変わってきている。
鏡へそっと手を伸ばすと、映った指先に自分の指先が重なる。
(もし、ノア様へ前世が男性だったと話していたら……)
その先を想像しようとして。
胸が、きゅっと締め付けられた。
私は思わず目を伏せる。
(わたくし……ノア様に嫌われたく……)
そこまで考えて、慌てて首を振った。
(違います)
違う。
そんなはずはない。
ノア様は、そんなことで人を嫌う方ではない。
研究室で何度も一緒に過ごしてきた。
誠実で。
穏やかで。
相手を肩書きや身分で判断しない人だと知っている。
そんな方が、前世の性別だけで私を見る目を変えるはずがない。
それなのに。
(では、どうして……)
答えが見つからない。
私はもう一度鏡を見る。
映っているのは、紛れもなくロザモリア・アルヴェイン。
今の私。
それなのに、自分の心だけが少し置いていかれているような、不思議な感覚がする。
(わたくしは、何を恐れたのでしょう)
前世が男性だったことを知られること。
それとも。
そのことで、ノア様との今の関係が変わってしまうこと。
そこまで思考が及びかけて、私は小さく息を吐いた。
考えても、考えても分からない。
答えを急いでも仕方がないのかもしれない。
窓の外では、静かに雪が降り始めていた。
私はカーテンを閉め、机へ戻る。
お茶はもう、少しぬるくなっていた。
カップを両手で包み込むように持ちながら、私は静かに目を閉じる。
答えは、まだ見つからない。
けれど、その答えを探したいと思っている自分がいる。
それだけは、確かなことだった。