TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
研究室には重たい空気が流れていた。
ノア様の故郷アルヴァール地方、そしてコレットの故郷エヴァンス領でも魔瘴熱が急速に広がっている。
新聞に載った記事と、二人の表情が、その深刻さを何より雄弁に物語っていた。
「薬はあるんですよね……?」
私が静かに尋ねると、ノア様は小さく頷いた。
「あります。ただ、状況は以前より悪化しています」
「需要が急激に増えたことで、リュミナ草の供給が追い付いていません」
エレノアも神妙な表情で続ける。
「商会でも薬草を運ぶ依頼が急増しているそうです」
その言葉を聞き、私は今まで研究してきた冷蔵魔道具のことを思い浮かべた。
薬草の保存。
それこそ私たちが取り組んできた分野ではないだろうか。
「でしたら……」
皆の視線が私へ向く。
「わたくしたちが研究している冷蔵魔道具の効率をもっと上げれば、リュミナ草の流通にも役立ったりしませんか?」
研究室が静かになる。
けれど、最初に口を開いたのはノア様だった。
「残念ですが、それは難しいです」
その返答は即答だった。
「冷蔵魔道具自体は役に立ちます。しかし、リュミナ草には別の問題があります」
ノア様は机の上へ紙を広げ、薬草の簡単な図を描き始めた。
「リュミナ草は、生きた状態では薬効成分を葉や茎へ蓄えています。しかし冷気に強い植物で、冷蔵程度では活動を止めません」
「つまり運搬中も生き続ける、ということですか?」
「その通りです」
私の問いへ頷く。
「そして生きている以上、栄養である薬効成分も消費し続けます。収穫した直後は十分な量があっても、産地から遠く離れた頃にはかなり失われています」
「だから産地以外では不足しているんですね……」
コレットが小さく呟く。
「はい。だからといって凍らせても別の問題が発生するのです」
ノア様は図へさらに線を書き加える。
「凍結させると植物の活動自体は止まりますが、解凍の際に崩壊した組織が、薬効成分を失わせてしまうことが分かっています」
「それでは意味がありませんね……」
エレノアも難しい表情になった。
「では現在はどうしているんですか?」
私が尋ねると、ノア様は答える。
「加熱による乾燥です」
「乾燥させれば植物の活動は止まります。薬効成分もある程度は残るため、現在はその方法が主流です」
「ただし、乾燥させるための加熱の過程でも薬効は失われます。決して理想的な保存法ではありません」
なるほど。
だから王都でも不足している。
薬は作れるし、作り方も分かっている。でも患者へ届かない。
問題は薬そのものではなく、運ぶ途中で失われてしまうこと。
私たちが向き合ってきた冷蔵魔道具とも、どこか似た課題。
だからだろうか……頭の中で、何かがゆっくりと繋がった。
冷蔵では生き続ける、凍結では解凍する時に問題がおきる、加熱では薬効が失われる。
だが、乾燥で活動は止まる。
……だったら。
私は思わずノア様の方を見た。
ノア様も、ちょうどこちらを見ていた。
あの視線は知っている。私と同じように、何か思考が動いた時の目。
周囲へ聞こえないくらいの小さな声で、私は囁いた。
「……ノア様。『フリーズドライ』ができれば、どうでしょうか?」
私の言葉を聞いた瞬間。
ノア様の瞳がわずかに見開かれた。
驚いたというより、確信へ近い表情だった。
「……なるほど」
ほんの数秒。
視線だけで思考を巡らせる。
そして小さく頷いた。
「いけるかもしれません」
その返事だけで十分だった。
詳しい説明は要らない。
言葉の意味を理解できるのは、この世界で今は私とノア様だけなのだから。
「ノア様?」
エレノアが不思議そうに首を傾げる。
「何か思い付かれたのですか?」
ノア様はすぐに普段の表情へ戻った。
「ええ」
「まだ仮説です」
「ですが、乾燥方法そのものを見直せば、現状より薬効を保ったまま保存できる可能性があります」
コレットが少し身を乗り出す。
「本当ですか?」
「まだ分かりません」
ノア様は慎重に答えた。
「実験してみなければ何とも言えません」
「ですが、試す価値はあります」
私も静かに頷く。
まだ何も始まっていない。
原理だって、この世界の魔法で実現できるかどうかも分からない。
それでも、希望は見えたと思った。
ヴィオレット先生は、私たち二人を交互に見つめていた。
「ロザモリアさん」
「はい」
「あなたも同じ考えなのですね」
「はい」
私は迷わず答える。
「今の方法では限界があります」
「もし別の方法があるのなら、挑戦したいと思います」
先生はしばらく黙って私たちを見つめていた。
研究室は静まり返っている。
やがてヴィオレット先生は、穏やかに微笑んだ。
「では、卒業研究の変更を認めます」
コレットが驚いたように目を丸くする。
「先生、詳しい内容はまだ……」
「ええ」
先生は優しく頷いた。
「私はまだ、お二方が何を思いついたのか説明してもらったわけではありません」
「けれど」
その視線が私とノア様へ向けられる。
「私は三年間、あなたたちの研究を見てきました」
「思い付きだけで研究テーマを変える人たちではないことも知っています」
胸が少し熱くなる。
「社会で困っている人がいる」
「それを解決したいという思いで研究を変えたい」
「それだけの理由なら、私は十分だと思います」
先生らしい言葉だった。
幼い頃、標準照明式を改良した時も、先生は最初から私の考えを否定しなかった。
「ありがとうございます」
私は自然と頭を下げていた。
ノア様も隣で静かに一礼する。
「期待しています」
ヴィオレット先生は柔らかく笑う。
「もちろん簡単な研究ではないと思います」
「ですから焦らず、一つずつ確かめながら進めてください」
「はい」
私たちは声を揃えて返事をした。
「お姉さま!」
コレットが嬉しそうに手を挙げる。
「わたしもお手伝いします!」
「何をする研究なのかはまだ分かりませんけれど、助手として精一杯頑張ります!」
その真っ直ぐな笑顔に、自然と頬が緩む。
「ありがとうございます、コレット」
「きっと忙しくなりますから、お力を貸してください」
「はい!」
続いてエレノアも口を開く。
「商会にも相談してみます」
「保存や流通については、現場だから分かることもあります」
「研究に必要な情報があれば、父にも協力をお願いしてみます」
「ありがとうございます」
研究は、一人ではできない。
冷蔵魔道具の時もそうだった。
だから今回も、きっと皆で進めていくことになる。
私は机の上の新聞へ視線を落とした。
そこには、魔瘴熱の記事が静かに載っている。
さっきまで絶望的に見えていたその文字が、少しだけ違って見えた。
まだ何も解決していない。
本当に成功する保証もない。
それでも。
「やってみましょう」
私は静かに呟く。
その言葉に、ノア様が小さく頷いた。
「はい」
短い返事。けれど、その一言だけで十分だった。
新しい卒業研究。その先にあるのが成功か失敗かは、まだ誰にも分からない。
だからこそ、研究する価値がある。
私は新しいノートを机の上へ置き、静かに一ページ目を開いた。
ここからが、本当の挑戦の始まりだ。