TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
夏期休暇を目前に控えたある日。
研究室へ向かう途中、私は掲示板の前へ人だかりができていることに気付いた。
「新聞が届いたみたいですね」
隣を歩くコレットが背伸びをしながら言う。
「何かあったのでしょうか」
私たちも人の隙間から紙面を覗き込む。
大きく載っていたのは、魔瘴熱に関する記事だった。
『王国北部および東部で患者数がさらに増加』
『冬季には死者数の増加も懸念』
『薬草不足、依然として改善せず』
文字を追うたび、胸の奥が重くなっていく。
王立魔法研究院によれば、寒さで体力を落とした患者は重症化しやすく、冬になれば助からない命も増えるだろうという見通しらしい。
「……思った以上に深刻ですね」
私が呟くと、コレットも静かに頷いた。
「わたくしの領地でも、まだ薬が足りません」
その声は、いつもの明るさが少しだけ薄れていた。
研究室へ入ると、ノア様も同じ記事を読んでいた。
「ご覧になりましたか」
「はい」
短いやり取りだけで、お互い考えていることは何となく分かった。
このままでは間に合わない。
その思いだけは、同じだった。
◇
その日の研究会でも、話題は自然と新聞記事になった。
「皆さんも記事をご覧になったようですね」
ヴィオレット先生は机へ新聞を置き、静かに周囲を見渡す。
「現状は決して楽観できません。ですが焦って研究を進めれば、かえって遠回りになります」
先生の言葉は、いつも通り落ち着いていた。
だからこそ、不思議と安心できる。
「私たちの課題は変わりません」
「より良い方法を見つけること。それだけです」
研究室の誰もが頷いた。
今すぐ薬を作れるわけではない。
けれど、この研究が完成すれば、多くの薬を必要な場所へ届けられる。
そう信じているから。
研究会が終わり、皆が片付けを始めた頃だった。
私は自然と口を開いていた。
「……わたくし、今年は帰省しないことにしようと思います」
自分でも驚くほど、迷いのない声だった。
部屋が静かになる。
「この研究を、一日でも早く完成させたいのです」
「冬まで残された時間は、それほど多くありません」
ノア様は私を見つめ、少しだけ考えるように視線を落とした。
「私も残ります」
その返事は短かった。
「実家も心配ですが、今は研究を優先するべきだと思います」
薬師の家に生まれたノア様だからこそ、その言葉の重みが伝わってくる。
すると、今度はコレットが勢いよく手を挙げた。
「わたしも残ります!」
その声に、思わず笑みがこぼれる。
「コレット……でも、ご家族は」
「もちろん会いたいです。でも、わたしの領地でも魔瘴熱は広がっています」
コレットは真っ直ぐ前を見据えた。
「お姉さまたちと一緒なら、きっと誰かを助けられます」
憧れだけではない。
自分の意志で選んだ言葉だと分かった。
ヴィオレット先生は三人を見比べ、小さく微笑む。
「皆さんの決意は分かりました」
「学院としても、研究目的であれば夏期休暇中の研究室利用を認めます」
「ただし、休息も研究の一部です。無理だけはしないようにしてください」
「はい」
返事が重なった。
こうして今年の夏は、研究室で過ごすことになった。
帰省を楽しみにしている学生も多い中、少しだけ寂しさはある。
それでも、不思議と後悔はなかった。
◇
その日の夕方。
リリーに今度の夏期休暇は帰省しないことを伝え、応援の言葉をもらった後
私は寮の自室で便箋を広げていた。
帰省しないと決めた以上、お父様たちへも知らせなければならない。
ペンを手に取る。
何を書こうか迷う必要はなかった。
『お父様、お母様、お兄様へ』
『今年の夏期休暇ですが、学院へ残ることにいたしました』
そこまで書いて、一度手が止まる。
きっと心配するだろう。
それでも嘘を書くつもりはない。
『現在、わたくしたちは魔瘴熱の治療薬に用いられるリュミナ草を、より良い状態で各地へ届けるための研究を進めております』
『まだ解決しなければならない課題は残っていますが、この夏が勝負になると考えました』
少し考え、最後に一文を書き添える。
『どうかご安心ください。ヴィオレット先生もご一緒ですし、アンナも学院へ残ってくれます』
読み返してから、小さく頷いた。
これなら、きっと伝わる。
家族なら、私の決断を尊重してくれるはずだ。
もう一枚、新しい便箋を取り出す。
今度は、ウィルへ。
もちろん、まだ字は読めない。
それでも書きたかった。
『ウィルへ』
『今年の夏は会いに帰れなくなってしまいました』
その一文を書いただけで、自然と笑みが浮かぶ。
少し前まで、前世の私は子どもが得意ではなかった。
泣けばどう接していいのか分からず、壊してしまいそうで怖いと感じていた。
なのに今は違う。
小さな弟の笑顔を思い出すだけで、早く抱き上げたいという気持ちが込み上げてくる。
『今度帰る時には、また少し大きくなっていますね』
『お姉ちゃんは会える日を楽しみにしています』
そこまで書いて、少しだけ照れくさくなる。
……本当に、お姉ちゃんなんだな。
そんな当たり前のことを、改めて実感してしまった。
便箋を丁寧に畳みながら、胸の奥に静かな寂しさが残る。
家族に会いたい。ウィルの成長も見たい。
でも、それ以上に今は、この研究を止めたくなかった。
誰かの弟や妹。
誰かのお父様やお母様。
その命を救える可能性が、目の前にあるのだから。
◇
「お嬢様」
夕食を終えた頃、アンナがお茶を運んできた。
「お手紙は書き終えられましたか」
「ええ」
私が封筒を見せると、アンナは優しく微笑む。
「きっと皆様、お嬢様らしいご決断だと仰います」
「そうでしょうか」
「ええ。アルヴェイン家の皆様は、お嬢様がご自身で考えて決めたことを、いつも尊重してくださいましたから」
その言葉に、お父様の穏やかな笑顔が浮かぶ。
幼い頃から、無理に結婚を勧めることもなく、魔法を学びたいという私の夢を応援してくれた。
だからこそ、今の私がある。
「アンナは……本当に良いの?」
私は改めて尋ねた。
「学院へ残れば、アンナも帰省できません」
アンナは少しだけ目を丸くすると、くすりと笑った。
「もちろんです」
「お嬢様がお一人で学院へ残られるという選択肢は、最初からありません」
その返事はあまりにも自然で、思わず笑ってしまう。
「いつも本当にありがとう、アンナ」
「お礼を言われるようなことではございません」
アンナは少しだけ胸を張る。
「わたくしは、お嬢様付きの侍女ですから」
その一言が、心強かった。
研究室にはノア様とコレット、そしてヴィオレット先生がいる。
寮へ戻ればアンナが待っている。
一人ではない。
そう思えるだけで、不思議と力が湧いてくる。
◇
数日後。
夏期休暇に入った学院は、驚くほど静かだった。
多くの学生が帰省し、普段は賑やかな廊下にも人影は少ない。
その静けさの中を歩き、研究室の扉を開く。
「おはようございます」
「おはようございます、ロザモリアさん」
ノア様はもう図面を広げており、コレットも実験器具を並べている。
「お姉さま、お茶を淹れておきました!」
「ありがとうございます、コレット」
エレノアも今日は商会との打ち合わせを終えてから来る予定だ。
皆、それぞれの立場で、この研究を前へ進めようとしている。
私は机の上へ図面を広げる。
大型化の課題は、まだ解決していない。
けれど、焦りよりも先に思い浮かんだのは、「今日も一歩進めよう」という気持ちだった。
この夏は、きっと長くなる。
それでも私は、この仲間たちとなら乗り越えられると信じている。
そう心に刻みながら、新しい一日の研究を始めた。