TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
夏期休暇に入った王立アステリア学院は、学期中とは別の場所のように静かだった。
学生の大半は帰省し、廊下を歩いても人影はまばらだ。窓の外では蝉にも似た鳴き声を上げる魔虫が、夏の日差しの中で鳴き続けている。
そんな静かな学院の一室だけは、休暇とは無縁だった。
机の上には試作機の図面や実験記録が積み上がり、壁際には大小さまざまな魔力媒体や測定器が並んでいる。
私はその中央の机で、ここ数日分の実験データを整理していた。
大型化した試作機は失敗した。
原因が外部からの熱流入であることまでは突き止めている。そこから減速付与式を応用した断熱方法も試したが、魔法式が複雑になりすぎ、実用化には程遠い結果だった。
行き詰まっている。
だからこそ、今は新しい実験よりも、これまで積み重ねた結果を見直す時間が必要だった。
「……」
紙を一枚ずつめくり、測定値を書き写していく。
魔力消費量。
真空度。
冷却速度。
試料の含水率。
数字だけを追っているように見えて、その裏には一つ一つ実験した時の光景が自然と思い浮かぶ。
別室ではロザモリアさんとエヴァンス嬢が、新しい断熱素材の評価実験をしている。
細かな測定作業になるため、今日は部屋を分けた方が効率的だという判断だった。
静かな研究室には、私が紙をめくる音だけが響いている。
「……?」
ふと、一枚の記録で手が止まった。
大型試作機三号機。
失敗した実験の一つだ。
失敗という結論だけ見れば、既に終わった実験である。
だが、冷却開始から数分間だけを見ると、小型試作機よりも効率が高い時間帯が存在していた。
「この区間だけ性能が上がっている……」
思わず独り言が漏れる。
その後、外部から流入した熱によって全体が崩れているが、最初だけは予想以上に良い数値を示している。
偶然か。
測定誤差か。
あるいは、まだ気付いていない要因があるのか。
私は過去の実験記録を机いっぱいに広げ、条件を比較し始めた。
実験室の温度。
環境魔力濃度。
魔力媒体の純度。
冷却開始時刻。
一つずつ潰していく。
だが、決定的な違いは見当たらない。
「……ロザモリアさんなら何と言うでしょう」
口にしてから、自分で少し驚いた。
いつの間にか、そう考えていた。
以前なら、自分だけで結論が出るまで考え続けていたはずだ。
分からないことがあれば文献を探し、それでも駄目なら実験を増やす。
誰かの意見を最初から求めることはほとんどなかった。
だが最近は違う。行き詰まると自然にロザモリアさんの顔が浮かぶ。
彼女は、私とは違う方向から仮説を立てる。
私なら可能性が低いと切り捨てる案まで一度並べ、そこから順番に検証していく。
効率だけなら私の考え方の方が優れている場面もある。
だが、発想という点では、あの方法に何度助けられただろうか。
「……相談してみる価値はありますね」
小さく頷き、気になった数値へ印を付けた、その時だった。
コンコン、と控えめな音が響く。
「失礼します」
扉を開けたのは学院職員ではなく、研究補助員の男性だった。
「ハーバルさん宛に、お手紙が届いております」
「ありがとうございます」
受け取った封筒を見て、すぐに差出人が分かった。
父からだった。
実家から学院へ届く手紙は珍しくない。
だが、この時期は少し事情が違う。
魔瘴熱は、今も故郷で猛威を振るっている。
自然と指先に力が入った。
封を切り、中の便箋を広げる。
そこには、父らしい簡潔な文字が並んでいた。
『こちらは家族全員無事だ』
その一文を読んだだけで、胸の奥の緊張が少し和らぐ。
続きを追う。
薬師たちは昼夜を問わず働き続けていること。
患者はなお増え続けていること。
リュミナ草は相変わらず不足し、症状の重い者から優先して使わざるを得ないこと。
そして――
『先日、隣村で老人夫婦が薬を待つ間に亡くなった』
その一文で、視線が止まった。
薬が届いていれば助かったのか。
そこまでは書かれていない。
だが、父がわざわざ書いたということは、現場ではそれほど切迫した状況なのだろう。
最後には短くこう締めくくられていた。
『研究を続けてくれ。こちらのことは気にするな』
私はゆっくり便箋を畳む。
父らしい。
心配を掛けまいとしているのが伝わってきた。
だからこそ、なおさら胸が重い。
この研究が完成すれば、状況は変えられるかもしれない。
そう信じている。
だから止まるわけにはいかない。
私は椅子から立ち上がった。
……この手紙は、ロザモリアさんにも見てもらおう。
そう考えたところで、不意に足が止まる。
「……なぜ私は」
小さく呟く。
どうして真っ先にロザモリアさんへ相談しようと思ったのだろう。
研究の話だからか。
共同研究者だからか。
前世の秘密を共有している相手だからか。
どれも理由として間違ってはいない。
それでも、何か違う気がした。
答えは出ないまま、私は手紙を握り直し、別室へ向かおうと扉へ視線を向けた。
扉へ手を掛けた、その時だった。
廊下の向こうから話し声が聞こえてくる。
「コレット、その結果も一緒にまとめておきましょう」
「はい、お姉さま!」
自然と足を止める。
次の瞬間、研究室の扉が開いた。
「ただいま戻りました」
ロザモリアさんが、いつもの穏やかな笑みを浮かべて部屋へ入ってくる。
その後ろでは、両腕いっぱいに資料を抱えたエヴァンス嬢が、少しだけ息を切らしていた。
「コレット、やっぱりその量は重かったんじゃないですか?」
「だ、大丈夫です!」
そんな二人のやり取りを見た瞬間だった。
胸の奥に張り詰めていたものが、ふっと緩む。
「……」
私は無意識に、小さく息を吐いていた。
さっきまで父の手紙を読んでいた時の重苦しさが、少しだけ薄らいでいる。
「ノア様?」
ロザモリアさんが私へ気付く。
「どうかなさいましたか?」
「いえ」
返事をしようとして、手に持った手紙が目に入った。
「ああ、そうでした」
私は封筒を持ち上げる。
「実家から手紙が届きました」
ロザモリアさんの表情がすぐに真剣なものへ変わる。
「ご家族はご無事でしたか」
「ええ」
私は頷く。
「家族は全員無事です」
その言葉に、ロザモリアさんは本当に安心したように微笑んだ。
「それは良かったです」
その笑顔を見て、また胸の奥が軽くなる。
不思議だった。
家族が無事だったことは、手紙を読んだ時点で分かっている。
それなのに、ロザモリアさんから「良かったです」と言われたことで、ようやく本当に安心できたような気がした。
「ですが、状況は厳しいようです」
私は手紙を机へ広げる。
エヴァンス嬢も静かに近付いてくる。
「薬草不足は変わらず続いています」
「隣村では、薬を待つ間に亡くなった方もいたそうです」
エヴァンス嬢は唇を結び、小さく俯いた。
ロザモリアさんは手紙を最後まで読み終えると、ゆっくりと返してくれた。
「……急がなければなりませんね」
短い言葉だった。
けれど焦りではない。
決意のこもった声だった。
「はい」
私も自然と頷く。
「だからこそ、一つ気になることがあります」
私は先ほど印を付けた実験記録を机へ広げた。
「大型試作機三号機です」
「失敗した実験ですね」
「ええ」
ロザモリアさんは私の隣へ立ち、記録を覗き込む。
「ですが、この時間帯だけ妙に効率が良いんです」
私は数値を指差した。
ロザモリアさんはしばらく黙ったまま資料を見つめる。
紙を一枚、また一枚と静かに比較していく。
その横顔を見ながら、私は思う。
やはり相談して良かった。
……いや。
「良かった」というより、それが当たり前だと思っていた。
気付けば、何かあればまずロザモリアさんへ見せていた。
実験結果も、仮説も、今回のような手紙まで。
研究仲間だから。
そう言ってしまえば、それまでなのだろう。
けれど、本当にそれだけなのだろうか。
答えは相変わらず出ない。
「ノア様」
考え込んでいると、不意に声を掛けられた。
「この数値ですが」
ロザモリアさんは穏やかに微笑んでいた。
「もう少し条件を絞って比較してみませんか?」
「案外、見落としている共通点があるかもしれません」
私は思わず笑っていた。
「そうですね」
「私も、その可能性を考えていました」
嘘ではない。
本当に考えていた。
ただ、一人で考えていた時よりも、今の方がずっと前へ進めそうな気がしていた。
窓の外では、真夏の日差しが石畳を白く照らしている。
夏期休暇はまだ始まったばかりだ。
問題は山積みで、解決策も見えていない。
私は机の上へ新しい紙を広げる。
「もう一度、最初から整理しましょう」
「はい」
ロザモリアさんは迷いなく頷いた。
その返事を聞いて、私はまた自然に肩の力が抜けるのを感じた。
なぜそうなるのか。
その理由はまだ分からないが、今はそれで十分だと思った。
目の前には、一緒に答えを探してくれる仲間がいる。
その事実だけで、この夏を乗り越えられる気がしていた。