TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
今年の夏期休暇は、学院に残ると決めた。
領地のことが心配ではないと言えば嘘になる。けれど、今の私にできることを考えた時、その答えは自然とここへ行き着いた。
静かな研究室の一角で、お姉さま――ロザモリア先輩は、今日も机いっぱいに広げた資料へ視線を落としている。
「コレット、その測定値も記録しておいていただけますか」
「はい、お姉さま!」
返事をすると、お姉さまは柔らかく微笑んでくださる。
その笑顔を見るたびに、やっぱりここへ来て良かったと思う。
私の名前はコレット・エヴァンス。
エヴァンス男爵家の娘だ。
領地はノア先輩の故郷ほどではないけれど、今は魔瘴熱が広がっている。
学院に入学する頃から薬師さんが忙しそうに走り回る姿を見ていたし、今年に入ってからは知り合いが病に倒れたという話も何度か耳にした。
だからこそ、この研究には意味がある。
そう思っている。
私が学院を目指したきっかけはずっと昔だった。
初めて新聞でお姉さまの記事を読んだ日のことを、今でも覚えている。
『五歳の伯爵令嬢、新たな魔法理論を発表』
見出しに目を奪われて、お父様の新聞を夢中で読んだ。
私とそう歳の変わらない女の子が、新しい理論を見つけた。
その事実だけで胸が躍った。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
私も魔法が好きだった。
だから憧れた。
いつか学院へ行って、この人みたいな研究者になりたいと。
その気持ちは、学院へ入学した今でも変わっていない。
小さい頃、新聞でお名前を見た。五歳で標準照明式を改良した天才令嬢。
学院へ入学してからも次席を取り続け、冷蔵魔道具の改良では商会と共同で実用化まで成し遂げた若き研究者。
そんな話ばかり聞いていたから、初めてお会いするまではもっと近寄りがたい方なのだと思っていた。
けれど実際は、まるで違った。
そして研究室へ配属が決まり、お姉さまと初めて顔を合わせた時は、嬉しさと緊張で頭が真っ白になってしまった。
「は、初めまして!」
ちゃんとご挨拶しようと思っていた。
思っていたのに。
「お、お姉さまと呼んでもいいですか!」
口から飛び出したのは、用意していた言葉ではなかった。
言ってしまった瞬間、顔が熱くなった。
何を言っているの、私。
初対面なのに。
礼儀作法も何もあったものではない。
穴があったら入りたかった。
ところがお姉さまは、初めこそ普通に先輩と呼んでくれればと仰ってたけど、最後には少し困ったように笑って。
「わたくしで良ければ」
そう言ってくださった。
あの時の嬉しさは、きっと一生忘れない。
もちろん後から思い返せば恥ずかしくてたまらなかった。
何日も布団の中で転げ回ったくらいだ。
でも、お姉さまは一度も嫌な顔をなさらなかった。
今では研究室のみなさんも自然に受け入れてくださっている。
だから私は、胸を張って「お姉さま」と呼べる。
それだけで幸せだった。
けれど、お姉さまを知れば知るほど、新聞の記事だけでは分からなかったことがたくさん見えてきた。
天才。
もちろん、それは間違っていない。
魔法式を読む速さも、仮説を組み立てる力も、本当にすごい。
でも、それ以上に印象へ残ったのは努力。
朝早く研究室へ来て、誰よりも多く資料を読み、実験を繰り返す。
失敗しても原因を一つずつ整理し、また次の実験を始める。
できるから研究しているのではなくて。
研究したいから努力を続けている。そんな方だった。
だから私は憧れる。
才能では到底追いつけない。
それでも、少しでも近くで学びたいと思える。
今年の夏期休暇に帰省しないと決めた理由も、それが一番大きいのかもしれない。
もちろん領地の流行は心配だ。
だからこそ、一日でも早く研究を完成させたい。
お姉さまの隣でなら、私にもできることがあるかもしれない。
実験器具を運ぶこと。
記録をまとめること。
測定を手伝うこと。
小さなことでも構わない。
それが領地のみなさんの役に立つなら、夏休みくらい喜んで返上できる。
私は実験器具を片付けながら、部屋の反対側へ視線を向けた。
そこでは、もう一人の先輩が資料を読んでいる。
ノア・ハーバル先輩。
入学前から、そのお名前は有名だった。
学院始まって以来とも言われる天才。
首席を取り続ける研究者。
そして――少し怖い人。
でも、その印象も研究室へ入ってすぐに変わった。
確かにノア先輩はすごい。
資料を読む速さも、計算も、魔法理論の知識も、私には到底追いつけない。
ヴィオレット先生でさえ感心されるようなことを、まるで当たり前のようにやってしまう。
きっと、お姉さまとは違う意味で天才なのだと思う。
だから最初は怖かった。
何を質問しても、「それは違います」「こちらの方が効率的です」と淡々と返されそうな気がして。
実際、少しだけそういうところはある。
悪気は全くないのだろうけれど、事実をそのまま口にされるので、初めて聞いた時は思わず背筋が伸びてしまった。
けれど、その印象も、お姉さまの前では不思議なくらい違って見える。
「ノア様、この条件も試してみる価値はあると思うのですが」
「その可能性もありますね。ただ、先にこちらを検証した方が効率は良いでしょう」
「なるほど……でしたら、そのあとで比較してみましょう」
「はい。その方が結論を出しやすいと思います」
二人の会話には、遠慮も対抗心もない。
どちらかが勝とうとしているわけでも、自分の意見を押し通そうとしているわけでもない。
もっと良い答えを探すために、一緒に考えている。
そんな空気が自然と伝わってくる。
そして何より分かりやすいのは、二人とも本当に楽しそうなことだった。
普段のお姉さまは穏やかな笑顔が多い。
ノア先輩は表情そのものがあまり変わらない。
なのに、研究の話になると違う。
お姉さまの瞳はきらきらと輝いて、次々に仮説を口にされる。
ノア先輩も質問を重ねながら、少しだけ口元が緩む。
ご本人たちはきっと気付いていない。
でも、見ていれば分かる。
二人とも、相手と議論している時間が嬉しくて仕方ないのだ。
(もう、お似合いですよね)
心の中でそう呟いてしまう。
もちろん口には出さない。
でも、研究室のみなさんなら、きっと同じことを思うはずだ。
お姉さまはノア先輩を探していることが多いし、ノア先輩も何か見つけると真っ先にお姉さまへ相談している。
本人たちは研究だからと思っているのかもしれない。
けれど、あれを見て研究仲間だけと言われても、たぶん誰も信じないと思う。
そんな二人だからこそ、放っておくと困ることもある。
「お姉さま」
時計を見る。
もう昼を少し過ぎていた。
「そろそろお昼にいたしませんか?」
「えっ?」
お姉さまが窓へ目を向ける。
「もうそんな時間でしたか」
やっぱり。
こうなると思っていた。
研究を始めると、お姉さまは時間を忘れてしまう。
朝から夕方まで机へ向かったまま、ということも珍しくない。
だから私は、できるだけ時計を見るようにしている。
「今日の実験はここまでにしましょう」
「でも、この仮説だけ整理してから……」
「その続きは、お昼を食べてからでも逃げません」
そう言うと、お姉さまは少しだけ困ったように笑った。
「そうですね。コレットの言う通りです」
その横でノア先輩も資料を閉じる。
「私も区切りが良さそうです」
……ほら。
ノア先輩まで素直に従ってくださる。
二人とも研究になると周りが見えなくなるのは同じらしい。
食堂への道でも、話題は研究のことばかりだった。
私は半分くらいしか分からなかったけれど、それでも楽しそうに話す二人を見ているだけで、なんだか嬉しくなる。
夕方になると、今度は別の方が研究室へやって来る。
コンコン、と扉が鳴る。
「お嬢様、お迎えに参りました」
アンナさんだ。
お姉さま付きの侍女で、小さな頃からずっとお世話をしてきたという方。
「もうそんな時間ですか」
「はい。今日も十分頑張られました」
アンナさんは笑顔でそう言いながら、お姉さまの机をさりげなく片付け始める。
まるで「今日はここまでです」と宣言しているみたいだった。
最初は少し不思議だったけれど、今なら理由が分かる。
放っておいたら、お姉さまは夜まで研究してしまう。
だからアンナさんは毎日迎えに来て、きちんと寮へ帰しているのだ。
長年一緒に過ごしてきたからこそ分かる、お姉さまの扱い方なのだろう。
「では、また明日」
「はい、お姉さま」
研究室を出ていくお姉さまの後ろ姿を見送る。
領地のことを思えば、不安は消えない。
家族は大丈夫だろうか。
知り合いは無事だろうか。
そんなことを考えない日はない。
それでも、私はここへ残ると決めた。
お姉さまが誰より努力を重ねていることを知っている。
ノア先輩がその隣で全力を尽くしていることも知っている。
だから私も、自分にできることを精一杯やろう。
いつかこの研究が完成して、たくさんの人へ薬が届く日を信じて。
お姉さまと一緒なら、きっとその未来へたどり着ける。
私はそう信じて、明日の実験準備へ取り掛かった。