TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
研究室を出た翌日、私はノア様から「放課後、少しお時間をいただけませんか」とだけ書かれた短い手紙を受け取った。
それだけの内容。
研究の相談なら研究室でも話せる。
卒業も近い今、わざわざ二人きりになる理由は限られている。
その紙を閉じた瞬間から、胸の奥へ小さな重みが沈み続けていた。
きっとこの日が来る。そんな気がしていた。
◇
約束の時間。
学院の裏庭は、講義を終えた学生たちもほとんど立ち去り、静かな空気に包まれていた。
夏の終わりほどの強い日差しはもうなく、傾き始めた陽が芝生を柔らかな色へ染めている。
ノア様は、大きな樫の木の近くで私を待っていた。
「お待たせしました」
「いえ。私も今来たところです」
普段と変わらない穏やかな口調。
けれど、どちらもすぐには次の言葉を続けられなかった。
研究の話なら、こんな沈黙にはならない。
私は静かに息を整える。
「今日は、何かお話があるのでしょうか」
そう尋ねると、ノア様は私を真っ直ぐ見つめた。
「あります」
その一言だけで十分だった。
私は胸の前でそっと両手を重ねる。
「ロザモリアさん」
私の名を呼ぶ声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「学院へ入学してから三年間、あなたと一緒に研究できたことを、私は幸運だったと思っています」
「……ありがとうございます」
「最初は、純粋に尊敬していました」
ノア様はゆっくりと言葉を選ぶ。
「発想力も、努力も、それを形にする力も。私にはないものをたくさん持っている方だと思っていました」
思わず首を横へ振る。
「そんなことはありません。わたくしの方こそ、何度ノア様へ助けていただいたか分かりません」
「ですが、それは事実です」
静かな口調なのに、不思議と否定できない。
「一緒に研究を重ねるうちに、その尊敬は別の感情へ変わりました」
その瞬間、時間がゆっくり流れ始めたように感じた。
風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが静かに響く。
「私は、ロザモリアさんが好きです」
飾らない、まっすぐな言葉だった。
「研究者としてだけではありません」
「一人の女性として、お慕いしています」
胸の奥で何かが大きく揺れた。
覚悟はしていた。
それなのに、実際に耳へ届くと、心は思っていた以上に大きく乱れてしまう。
私は俯き、小さく唇を噛んだ。
どうして。
どうして、こんなにも嬉しいのだろう。
前世の記憶を取り戻した日。
男だった私が女へ生まれ変わったと知ったあの日から、私は結婚だけはできないと思い続けてきた。
だから魔法を学んだ。
研究者になろうと思った。
誰にも頼らず、自分の力で生きていこうと決めた。
その気持ちは一度も変わっていないはずだった。
なのに。
いつからだろう。
研究で成功した時、真っ先にノア様へ報告したいと思うようになったのは。
新しい仮説を思いつけば、一緒に議論したいと考えるようになったのは。
休日が終われば、また研究室で会えることを楽しみにしていたのは。
違う。本当は私自身で気付いていた。
ずっと前から、自分もまた、ノア様を特別な存在として見ていることに。
それでも……それでも駄目。
私は静かに顔を上げた。
ノア様は返事を急かさず、ただ私を見つめている。
その優しさが、かえって苦しかった。
「……ありがとうございます」
声が少し震えてしまう。
「そのお気持ちは、とても嬉しいです」
これは嘘ではない。
こんなにも嬉しいと思える日が来るなんて、昔の私は想像もしなかった。
けれど。
だからこそ。
「ですが」
喉が詰まる。
言わなければならない。
今ここで。
私は一度だけ目を閉じ、小さく息を整えた。
「わたくしは、ノア様のお気持ちには応えられません」
言葉にした瞬間、胸の奥がきりきりと痛んだ。
ノア様は驚いた様子も見せず、静かに続きを待っている。
私はその視線から逃げずに続けた。
胸の鼓動が少しずつ速くなる。
もう後戻りはできない。
私はゆっくりと首を横へ振った。
「わたくしには、ノア様のお気持ちに応える資格が無いのです」
「資格がない、ですか」
「はい」
涙はまだこぼれていない。
それでも視界が少しだけ滲んで見えた。
「その理由を、お話ししなければなりません」
私は拳を小さく握り締める。
これまで誰にも言えなかった、本当の秘密を口にする時が来たのだと思った。
◇
私はゆっくり息を吸った。
これまで何度も心の中で繰り返してきた言葉。
けれど実際に口にしようとすると、喉の奥で何度も詰まりそうになる。
「以前、お話しした前世のことですが……」
ノア様は何も言わず、静かに頷く。
続きを待ってくださっている。
「一つだけ、本当のことをお伝えしていませんでした」
「はい」
「わたくしの前世は……女性ではありませんでした」
一度だけ言葉を切る。
胸の奥が強く締め付けられる。
それでも、もう隠してはいけない。
「男性でした」
静寂が訪れる。
風が木々を揺らす音だけが聞こえていた。
私はノア様の表情を見ることができなかった。
きっと驚いている。
あるいは呆れている。
そう思いながら、ゆっくり顔を上げる。
だけど、ノア様は驚いた様子を見せていなかった。
ただ静かに私を見つめている。
その穏やかな眼差しが、かえって胸を締め付けた。
私は小さく俯く。
どうして。
どうしてそんな顔をするの。
もっと困ってくだされば良かった。
もっと戸惑ってくだされば良かった。
そうすれば、私は迷わず諦められたのに。
震える声を抑えながら続ける。
「前世のわたくしは男性だったのです」
「その記憶を持ったまま、今のわたくしは女性として生きています」
本当に。
私は恋をしていいのだろうか、と。
もし、このお気持ちへ応えてしまったら。
それは本当に、ノア様に対して誠実だと言えるのだろうか。
「……申し訳ありません」
それだけを絞り出すように告げる。
ノア様が何かを言おうとした気配がした。
けれど、もう聞くことはできなかった。
「失礼いたします」
深く頭を下げる。
そのまま踵を返した。
歩かなければ。
ここから離れなければ。
そう思うほど、足は勝手に速くなる。
胸の奥が痛い。
息を吸うたびに苦しい。
これで良かった。
私はゆっくり空を見上げる。
茜色だった空は、少しずつ群青へ変わり始めている。
(これで良かったのです)
何度も心の中で繰り返す。
(これで……良かった)
ノア様は誠実な方だ。
だからこそ、あのお気持ちに応えてはいけない。
私は研究者として生きていく。
最初から、そのつもりだったではないか。
そう自分へ言い聞かせながら歩き続ける。
けれど視界は少しずつ滲み始めていた。
立ち止まったら泣いてしまう。
だから私は、その痛みに気付かないふりをして、夕暮れの道を一人歩き続けた。