TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
数日が過ぎた。
あの日以来、私はノア様と顔を合わせる機会をできるだけ避けていた。
研究室へ行けば、どうしても会ってしまう。だから卒業研究も、提出済みの資料を整理する程度に留め、必要がなければ立ち寄らないようにしている。
もちろん、そんなことをしても意味がないくらい、自分の心が落ち着いていないことは分かっていた。
今日も講義が終わったあと、寮の中庭にある東屋でぼんやりと本を開いていた。
文字は目に入る。
けれど、一行たりとも頭へ入ってこない。
「ロザ」
聞き慣れた声に顔を上げる。
「リリー……」
リリーは私の顔を見るなり、小さく眉を寄せた。
「少し時間ある?」
「もちろん」
向かいへ腰掛けたリリーは、すぐには話し始めなかった。
私の表情を確かめるように静かに見つめ、それから柔らかく笑う。
「最近、ずっと元気ないよね」
「そう見える?」
「うん。ロザが隠そうとしてるのは分かるけど、私には分かっちゃう」
幼い頃からずっと一緒だった。
嬉しい時も、悲しい時も。
お互いの表情を見れば、何を考えているか何となく分かってしまうくらいには。
私は小さく笑おうとした。
でも、思うように笑えなかった。
「……少しだけ、色々ありまして」
「ノア様と関係ある?」
胸が小さく跳ねる。
私は視線を落とし、しばらく黙っていた。
隠そうと思えば隠せる。
でも、きっとリリーは納得しない。
何より、もう嘘だけはつきたくなかった。
「……ノア様から、お気持ちを伝えていただいたの」
リリーは驚かなかった。
「そう」
ただ静かに頷くだけだった。
「それで?」
「お断りしました」
その一言で十分だったのだろう。
リリーは私の顔を見つめながら、静かに尋ねる。
「どうして?」
どうして。
その答えを、私は何度自分自身へ問い続けてきただろう。
「私は……ノア様のお気持ちに応える資格がありませんから」
「それ、本当にそう思ってる?」
「思っています」
迷いなく答えたつもりだった。
それでも、自分の声が少し震えていることだけは隠せなかった。
リリーは急かさない。
昔からそうだった。
私が自分から話し始めるまで、ただ待っていてくれる。
だからこそ、私はゆっくり息を吸った。
「リリーには……話しておかなければいけないことがあります」
「うん」
「今まで誰にも話していませんでした」
ノア様には、もう話した。
ならば、この世界であと一人だけ、本当のことを知ってほしい相手がいる。
それがリリー。
私はゆっくりと息を吸う。
「わたくしには……前世の記憶があるの」
リリーは黙って続きを待ってくれる。
「そして、そのことについて一つだけ、ずっと隠していたことがあります」
私は膝の上で指を重ねた。
「私の前世は……女性じゃない」
少しだけ声が掠れる。
「男性だったの」
静かな時間が流れる。
私は返事を待った。
驚くだろうか。
困るだろうか。
そんなことを考えていたのに。
「そっか」
返ってきたのは、それだけだった。
思わず顔を上げる。
リリーは困った顔も、驚いた顔もしていない。
いつもの優しい表情のまま、私を見つめていた。
「……驚かないの?」
「驚かないよ」
あまりにも自然な返事だった。
「だって、ロザはロザだもの」
その言葉に、胸の奥が少しだけ揺れる。
「前世が誰だったかなんて、私には分からない。でも、私が知ってるロザは、小さい頃から一緒に遊んで、一緒に泣いて、一緒に笑ってきたロザだけだよ」
私は唇を噛んだ。
そんなふうに言ってもらえる資格なんて、本当はないのに。
「でも……私は違うの」
声が自然と震える。
「私は、本物の女の子じゃない」
ずっと心の奥へ閉じ込めていた言葉だった。
「身体は女性です。でも、中身は違う」
「前世では男性として生きていました」
「だから、ノア様のお気持ちに応えてしまったら、それは騙すことになる気がして……」
喉が詰まる。
言葉を続けようとするたび、胸が苦しくなる。
「ノア様だって……」
私は視線を落とした。
「きっと気持ち悪いと思うに決まっている」
そう言い切った瞬間、自分でも胸の奥が痛んだ。
◇
リリーは、私の言葉を最後まで黙って聞いていた。
私が「気持ち悪いと思うに決まっている」と言っても、それを否定しようとはしない。
ただ静かに、私を見つめている。
その沈黙が少しだけ不思議だった。
「……リリー?」
私が名前を呼ぶと、リリーは穏やかな声で口を開いた。
「ロザ、一つだけ聞いてもいい?」
「うん」
「ノア様、今は男爵になったでしょう?」
思いがけない話題だった。
「そうね」
「平民だった頃とは違うわ」
リリーは膝の上で手を重ねる。
「男爵になれば、貴族として家を興さなければならない」
「そうなれば、国から婚約相手を紹介される可能性が高いわ」
私は静かに頷いた。
貴族なら誰でも知っている話だ。
功績ある新興貴族ほど、王家や大貴族との結び付きを強めるため、縁談が持ち込まれることは珍しくない。
「きっと、素敵な方が紹介されるでしょうね」
自然に言葉が出た。
「ノア様なら、きっと幸せな家庭を築かれると思う」
そう、それでいい。
そのはずだ。
口元へ笑みを浮かべる。ちゃんと笑えている。
そう思っていた。
リリーは、そんな私をじっと見つめていた。
やがて、そっと口を開く。
「……ロザ」
その声は、とても優しかった。
「そう思うなら、どうしてロザは泣いてるの?」
「え……?」
思わず頬へ手を添える。
指先へ触れたのは、温かい雫だった。
その瞬間になって初めて、自分が涙を流していることに気付く。
「どうして……」
慌てて拭おうとする。
けれど、一粒だけでは終わらなかった。
指先で拭っても、次から次へと涙が零れ落ちる。
「おかしい、ね……」
笑わなければ。
ちゃんと笑って、「良かったです」と言わなければ。
そう思うほど、涙は止まらない。
「ロザ」
リリーは立ち上がらない。
慰めようとも、抱き締めようともしない。
ただ一つだけ、静かに尋ねた。
「ロザの気持ちは、どうなの?」
その言葉が胸へ真っ直ぐ届く。
私の気持ち。
そんなこと、考えてはいけないと思っていた。
「私は……」
違う。
そうじゃない。
資格がない。
そう言おうとした。
でも、言葉にならない。
代わりに出てきたのは、しゃくり上げる息だけだった。
「私は……」
好きじゃない。
そう言えれば楽なはずなのに。
「私は……」
胸の奥へ押し込め続けてきた気持ちが、涙と一緒に溢れそうになる。
そうしていると、リリーがそっと立ち上がった。
涙で滲む視界の中、私は顔を上げた。
「リリー?」
「ロザ。逃げないで、ここで待ってて」
優しく笑う。
いつもの、幼い頃から何一つ変わらない笑顔だった。
「すぐ戻るから」
そう言い残し、リリーは静かに東屋を後にした。
一人になった私は、涙を拭いながら深呼吸を繰り返す。
落ち着かなければ。
リリーが戻ってきたら、ちゃんと笑わなければ。
そう思うのに、胸の鼓動は少しも静まらない。
どれくらい時間が過ぎただろう。
ほんの数分だったのかもしれない。
足音が聞こえた。
「リリー……?」
そう思って顔を上げる。
けれど、東屋の入口に立っていたのは、リリーではなかった。
「……ロザモリアさん」
聞き慣れた、穏やかな声。
夕暮れの光を背に立っていたのは――
ノア様だった。