TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
東屋へ足を踏み入れたノア様は、少しだけ息を整えてから私を見つめた。
泣き腫らした目を見られたくなくて、私は咄嗟に顔を伏せる。
「……申し訳ありません。少し、お見苦しいところを」
「いえ」
静かな返事。
無理に慰めるでもなく、何かを急かすでもない。
そのいつも通りの声が、かえって胸を締めつける。
「リリアンさんから聞きました。ロザモリアさんがここにいると」
私は小さく肩を震わせた。
「……そうですか」
「勝手に来てしまったことは謝ります。ただ、どうしてももう一度だけ、お話ししたかったのです」
逃げてはいけない。
リリーにも言われた。
だから私はゆっくりと顔を上げる。
夕暮れの柔らかな光を背にしたノア様は、真っ直ぐ私を見つめていた。
「最初にお伝えしたいのですが、私はロザモリアさんの前世が男性だったということを、何とも思っていません」
その言葉に、胸が小さく揺れる。
「でも、それは……」
「本当です」
私の言葉を遮るように、けれど穏やかに続ける。
「私は前世のロザモリアさんを知りません」
「私が知っているのは、学院で出会い、一緒に研究してきたロザモリアさんだけです」
迷いがない。
研究結果を説明するときと同じくらい、真っ直ぐな口調。
「最初は、優秀な研究者だと思いました」
「仮説を立て、検証して、分からないことから逃げない。その姿勢を尊敬していました」
私は黙って聞いていた。
「ですが、一緒に研究を続けるうちに、それだけではなくなりました」
ノア様は少しだけ目を細める。
「誰かの役に立ちたいと本気で考えていることも」
「後輩を大切にしていることも」
「研究が行き詰まっても、諦めず努力を続けることも」
「全部、好きになりました」
胸の鼓動が速くなる。
こんな言葉を向けられる資格なんて、私にはない。
「だから、前世の話は私にとって重要ではありません」
静かに。
けれど一言一言を確かめるように。
「知りたいのは一つだけです」
ノア様は私を見る。
「ロザモリアさん自身のお気持ちを聞かせてください」
その問いに、私は目を閉じた。
答えは決まっている。
決まっていなければならない。
私は研究者としてノア様を尊敬している。
大切な共同研究者だ。
だから――。
「私は……」
喉が震える。
「ノア様のことは、研究者として尊敬しています」
ここまでは言えた。
次の言葉を口にすれば終わる。
異性としては好きではありません。
そう言えばいい。
それで全部終わる。
なのに。
言葉が出ない。
胸の奥で何かが抵抗している。
違う。
それは違うと。
必死に叫んでいる。
駄目。
言ってはいけない。
言えば全部変わってしまう。
私は唇を噛み締め、もう一度言葉を紡ごうとした。
「……好き」
心の奥から、その一言だけが零れ落ちた。
頭で考えた言葉ではなくて。
自分でも信じられなかった。
東屋が静まり返る。
時間まで止まってしまったようだった。
私は自分の口を押さえる。
(違う……!)
(今のは違う……)
(言うつもりじゃ……)
必死に首を振る。
取り消さなければ。
こんなの間違いだ。
『違うんです、今のは……』
そう言おうとした。
けれど、一度堰を切ってしまった気持ちは、もう止められなかった。
胸の奥へ押し込めてきた想いが、次々と言葉へ変わっていく。
「好きです……」
涙がまた滲む。
「研究している時のノア様が好きです」
「新しい仮説を思いつくと、本当に嬉しそうに話してくださるところも」
「私の考えを頭ごなしに否定せず、一緒に考えてくださるところも全部、全部」
駄目。
もうやめて。
心の中ではそう思っているのに、告白は止まらない。
私は一歩後ろへ下がり、両手を胸の前で強く握り締めた。
「本当は……告白された時だって嬉しかったんです」
「でも、それを受け入れてはいけない……」
涙が頬を伝う。
「私は前世が男性だから……そんな私がノア様と共に歩む資格はないと、そう思って……」
震える声でそこまで言うと、私はぎゅっと目を閉じた。
◇
私は目を閉じたまま、その場へ立ち尽くしていた。
もう何も言わないで。
これ以上声を聞かせないで。
そう願っているのに、逃げることもできなかった。
しばらくの沈黙のあと、ノア様が静かに口を開く。
「ありがとうございます」
思わず目を開ける。
ノア様は穏やかに笑っていた。
「ロザモリアさんのお気持ちを聞くことができました」
私は首を横へ振る。
「駄目……今のは忘れてください」
「忘れられません」
即座に返ってきたその言葉に、私は息を呑んだ。
「ようやく、あなた自身のお気持ちを聞くことができたのですから」
胸が熱くなる。
違う。
違うのに。
「でも……わたくしは」
「前世が男性だったことですか」
私は小さく頷く。
ノア様は一歩だけ私との距離を縮めた。
「私は先ほど申し上げました」
「そのことは、私にとって重要ではありません」
「ですが、ロザモリアさんは、ご自身でご自身を許せていない」
私は言葉を失う。
その通りだった。
誰にも責められていない。
責め続けていたのは、ずっと私自身だ。
「わたくしは……」
震える声で問い掛ける。
「本当に、こんな中途半端な女の子でいいのですか」
ずっと聞きたかった。
でも、怖くて聞けなかった。
「身体は確かに女性です」
「でも、前世は男性でした」
「今でも、その記憶は消えていません」
「そんなわたくしを、本当に好きだと言えるのですか」
ノア様は少しも迷わなかった。
「はい」
短く。
けれど、その一言だけで十分だった。
「私はロザモリアさんが好きです」
「前世ではありません」
「誰かと比べたロザモリアさんでもありません」
「今、ここにいるロザモリアさんです」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥で、何かがほどけた。
張り詰めていた糸が切れるように、涙が溢れてくる。
「……っ」
私は慌てて顔を背けようとした。
泣き顔なんて見せたくない。
けれど、その前にノア様が私の名を呼ぶ。
「ロザモリアさん」
優しい声だった。
研究で失敗した時も。
行き詰まった時も。
何度も聞いてきた、あの落ち着いた声。
私はもう一度、ノア様を見つめる。
その瞳には、迷いも同情もなかった。
あるのは、真っ直ぐな想いだけ。
私はゆっくりと一歩踏み出した。
二人の距離が少しだけ近づく。
「……ノア様」
小さく名前を呼ぶ。
「これから先も、きっと私は悩みます」
「前世のことも、女の子としての自分のことも」
「急には変われないと思います」
「はい」
ノア様は静かに頷く。
「それでも構いません」
「一緒に考えていきましょう」
その言葉が、胸へ静かに染み込んでいく。
一人で抱えなくていい。
その意味を理解した瞬間、私は自然と笑っていた。
涙でぐしゃぐしゃのまま。
それでも、心から笑えた。
「……ありがとうございます」
ノア様も、小さく笑う。
その笑顔を見た時。
私はもう迷わなかった。
そっと手を伸ばす。
ノア様も静かに私の手を取ってくださる。
温かい。
研究で資料を受け渡す時とは違う温もり。
少しだけ恥ずかしくて、でも離したくなくて。
私はその手を握り返す。
ノア様がゆっくりと私との距離を縮めた。
私は逃げなかった。
目を閉じる。
夕暮れの風が頬を撫でる。
その時、唇へそっと柔らかな温もりが触れた。
短く。
本当に短い口づけ。
離れたあとも、私はしばらく目を開けられなかった。
胸の鼓動だけが、少し速く響いている。
「……ロザモリアさん」
「はい」
目を開けると、ノア様が少し照れたように微笑んでいた。
私もきっと、同じような顔をしているのだろう。
もう、自分を偽る必要はない。
まだ受け入れきれない過去はある。
迷うことも、きっとこれから何度もある。
それでもこの人となら、その迷いごと歩いていけるかもしれない。
そんな未来を、初めて信じてみたいと思えた。