TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
冬期休暇が明け、王都にも少しずつ春の気配が訪れていた。
学院の中庭では、冬の間じっと枝だけになっていた木々が、小さな芽をつけ始めている。
冷たい風はまだ残っているものの、どこか柔らかさを帯びていて、季節が確かに前へ進んでいることを感じさせた。
その日、私たちは王立アステリア学院の学位授与式を迎えた。
講堂には晴れやかな空気が満ちている。
3年間を共に過ごした学生たちは、それぞれ卒業証書を受け取り、新しい道へ進んでいく。
私も名前を呼ばれ、壇上へ上がった。
学院長から学位証を受け取り、一礼する。
私は不思議なくらい落ち着いていた。
入学した日の私は、この学院で生涯の親友と出会い、尊敬できる恩師のもとで研究し、かけがえのない共同研究者と巡り会い、その人と未来を約束することになるなんて想像もしなかった。
研究だけを目標にしていた少女は、ずいぶん遠くまで歩いてきたらしい。
席へ戻ると、少し離れた場所でノアと目が合った。
言葉は交わさない。
けれど、お互いに自然と微笑み合う。
それだけで十分だった。
式が終わると、講堂の外は卒業生や家族で賑わっていた。
写真を撮る人、恩師へ挨拶に向かう人、友人同士で別れを惜しむ人。
その中から、聞き慣れた声が飛んでくる。
「ロザー!」
振り向くと、リリーが大きく手を振っていた。
隣にはガブ、少し後ろにはエレノアの姿もある。
「お待たせしました」
「全然待ってないよ。ロザ、卒業おめでとう!」
「ありがとうございます。リリーも、ご卒業おめでとうございます」
「ふふっ、今さらそんな丁寧じゃなくてもいいのに」
笑い合いながら近付くと、エレノアも少し照れくさそうに頭を下げた。
「ロザモリア……卒業、おめでとうございます」
「ありがとうございます。エレノアも、おめでとうございます」
「はい……」
相変わらず控えめな返事だったが、その表情はどこか誇らしげだった。
ヴィオレット研究室で一緒に研究した日々は、彼女にとっても大きな自信になったのだろう。
「それにしても、本当に終わっちゃったんだな」
ガブが空を見上げながら言う。
「入学した頃なんて、3年後なんて想像もできなかった」
「ガブは最初から目立っていましたものね」
「そうか?」
「ええ。初日から元気でした」
「それしか取り柄がないからな!」
豪快に笑うガブを見て、私たちもつられて笑ってしまう。
学院生活の間、彼はずっとこんな調子だった。
だからこそ、何度も救われた気がする。
「そうだ」
ガブが思い出したようにリリーの肩へ軽く手を添えた。
「俺たちのこともちゃんと話しておくか」
リリーが少し照れたように笑う。
「卒業したらすぐ結婚すると思われることも多いんだけど……」
「成人までは待つ予定なんだ」
ガブが続ける。
「俺は王都騎士団へ入団することになった」
「おめでとうございます」
「ありがとう」
リリーも穏やかな笑みを浮かべた。
「私は王都へ移って、ハートウェル伯爵家の別邸を預かることになったの。社交や外交のお仕事も少しずつ覚えていく予定よ」
「リリーならきっと務まります」
「そうかな?」
「ええ。相手の気持ちを考えられる人だもの」
それは昔から変わらない、リリーの一番の長所だった。
領地を離れても、その優しさはきっと多くの人を支えるはずだ。
「……ありがとう、ロザ」
少しだけ照れたように笑う親友を見て、自然と私も笑顔になる。
するとガブが腕を組み、私とノアを交互に見比べた。
「で、お前たちはどうなんだ?」
その一言で、私の頬が少し熱くなる。
ノアはいつも通り落ち着いた様子で答えた。
「私たちは婚約しました」
「お、おお!」
ガブが目を丸くする。
「本当か!」
「はい」
ノアが頷く。
私は少し恥ずかしくなりながらも、小さく続けた。
「両家にも認めていただきました」
「いやぁ、それはめでたい!」
ガブは満面の笑みで私たちの肩を軽く叩いた。
「よかったな、ロザ!」
「ありがとうございます」
「ロザ、おめでとう」
リリーがそっと私の手を握る。
その瞳は少し潤んでいた。
「本当に……よかった」
私の悩みを知っているリリーだからこそ、その言葉には特別な重みがあった。
「ありがとう、リリー」
言葉は短くても、それだけで十分だった。
エレノアも、おずおずと口を開く。
「あの……お二人とも、本当におめでとうございます」
「ありがとうございます」
「お似合い……だと、思います」
そこまで言って恥ずかしくなったのか、エレノアは耳まで赤くして俯いてしまう。
「ありがとうございます」
ノアも素直に頭を下げた。
「それで、結婚はいつなんだ?」
ガブが興味津々に尋ねる。
私はノアと視線を合わせる。
ほんの少しだけ目が合い、自然と答えは決まった。
「成人してから決めようと思っています」
「研究院での生活も始まりますから」
ノアが静かに補足する。
「なるほどな」
ガブは満足そうに頷いた。
「お互い研究者だし、その方がらしいか」
「ええ」
研究は、これからも私たちの人生の中心にある。
けれど今は、一人ではない。
困った時には相談できる人がいて、嬉しい成果があれば一番に伝えたい人がいる。
その違いは、思っていた以上に大きかった。
春風が穏やかに吹き抜ける。
卒業は終わりではない。
新しい日々の始まりなのだと、その風が静かに教えてくれているようだった。
数日後。
私たちは王立魔法研究院の本部を訪れていた。
学院を卒業した私たちは、今日から正式に研究員として働くことになる。
広い玄関ホールには、私たちと同じように新しく採用された研究員たちが集まっていた。
「少し緊張しますね」
思わずそう呟くと、隣に立つノアが小さく笑う。
「ロザモリアでも緊張するのですね」
「もちろんです」
「研究室へ入学した時と同じ気持ちです」
そう答えると、ノアは「確かに」と穏やかに頷いた。
ほどなくして名前が呼ばれ、一人ずつ辞令を受け取っていく。
私も前へ進み、辞令を受け取った。
王立魔法研究院。
その文字を見つめると、胸の奥が静かに熱くなる。
幼い頃から憧れていた場所。
ようやく、その入口へ立つことができたのだ。
辞令を確認した私は、小さく目を瞬かせる。
「……ヴィオレット研究室?」
思わず声が漏れた。
「やはりそうでしたか」
隣からノアが覗き込み、静かに笑う。
「ロザモリアに一番合う配属先ですね」
「ノアは?」
「薬学研究部です」
辞令を見せてもらうと、薬効成分の解析や新薬開発を担当する部署の名前が記されていた。
思わず笑みがこぼれる。
「ノアらしいですね」
「ええ。私も希望していた部署です」
少しだけ寂しさはあった。
学院では毎日のように顔を合わせていた。
これからは同じ研究院でも所属が違う。
けれど。
「また共同研究をする機会もあるでしょう」
私がそう言うと、ノアも優しく頷いた。
「その日を楽しみにしています……でも、共同研究じゃなくてもいつも貴方と一緒です」
◇
研究院の廊下を歩き、見慣れた扉の前で立ち止まる。
『ヴィオレット研究室』
学院にいた頃と何も変わらない札が掛かっていた。
思わず懐かしさで胸がいっぱいになる。
軽く扉をノックする。
「失礼します」
部屋へ入ると、机へ向かっていたヴィオレット先生が顔を上げた。
「おはようございます、ロザモリアさん」
「おはようございます」
先生は昔と変わらない穏やかな笑みを浮かべている。
その隣では、書類を整理していたコレットがこちらを振り向いた。
「先生、この資料は――」
途中まで言い掛けたコレットの動きが止まる。
ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返し、それから目を丸くした。
「お、お姉さま!?」
私は思わず笑ってしまう。
「今日からお世話になります」
「えっ……えっ?」
まだ状況が飲み込めていないらしい。
コレットは先生と私を何度も見比べている。
ヴィオレット先生がくすりと笑った。
「辞令は見ていませんでしたか?」
「はい! 見てませんでした!」
「今日からロザモリアさんは研究員です。そして、この研究室へ配属されました」
「ほ、本当ですか!?」
「本当です」
その瞬間、コレットの表情がぱっと明るくなる。
「お姉さまが戻ってきてくださるんですか!」
「はい。また一緒に研究できますね」
「はい!」
嬉しそうに何度も頷く姿は、学院時代と何一つ変わっていなかった。
私は部屋の奥へ視線を向ける。
窓際。
ヴィオレット先生の机。
その隣。
学院時代、私が使っていた席が、そのまま空けられていた。
「先生……」
思わず先生を見る。
先生は穏やかに頷いた。
「あなたの席です」
胸の奥がじんわりと温かくなる。
私は静かに椅子へ腰を下ろした。
机の高さも。
窓から見える景色も。
何も変わっていない。
違うのは、私だけ。
学院の学生ではなく、一人の研究員としてここへ戻ってきた。
机へそっと手を置く。
ここからまた、新しい研究が始まる。
新しい出会いがあり、新しい発見があり、きっとまた壁にもぶつかるだろう。
それでも私は、この場所で研究を続けていきたい。
ヴィオレット先生が研究室全体を見渡す。
「それでは」
穏やかな声が、懐かしい研究室へ響く。
「本日の研究会を始めましょう」
その言葉とともに、私の新しい研究者としての日々も、静かに始まった。