TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
窓を開けると、夏の風が書斎へ吹き込んできた。
机の上には魔法式を書き写した紙が何枚も積まれている。
標準照明式。
標準投射式。
錬金術の配合理論。
そして、ヴィオレット先生と一緒に整理した新しい補助構文。
「……ここは、もう少し単純化できそうですね」
羽ペンを走らせながら、小さく呟く。
あれから二年。
七歳になった今でも、俺の生活は魔法一色だった。
朝は礼儀作法や一般教養。
午後はヴィオレット先生との授業。
夜はその復習と、自分なりの考察。
以前なら「遊ぶ時間が減った」と言われたものだが、今では家族も無理に止めようとはしない。
俺が本気で魔法を好きなのだと理解してくれているからだ。
「お嬢様」
部屋の扉が軽く叩かれる。
「アンナです」
「どうぞ」
扉が開き、少し大人びたアンナが姿を見せた。
二年前はまだ幼さの残る少女だったが、今では立派に侍女として振る舞っている。
「旦那様と奥様がお呼びです」
「何かありましたか?」
「詳しくは伺っておりません。ただ、お二人とも応接室でお待ちです」
「わかりました」
羽ペンを置き、紙を丁寧に重ねる。
途中だった考察を閉じるのは少し惜しい。
だが、父と母が揃って呼ぶのなら、何か大切な話なのだろう。
◇
応接室へ入ると、父と母が向かい合って座っていた。
二人とも穏やかな表情だが、どこか真剣でもある。
「失礼します」
「座りなさい、ロザミー」
エドマンドに促され、俺は静かに腰を下ろした。
少しだけ沈黙が流れる。
やがて父が口を開いた。
「今日は、お前の将来について話がある」
将来。
その言葉だけで、胸が少しざわつく。
「はい」
「ロザミーも七歳になった」
父は落ち着いた口調で続ける。
「まだ先の話ではあるが、そろそろ将来を考え始める家も増えてくる年頃だ」
その言い方に、嫌な予感がした。
「実は先日、ある伯爵家から打診があってな」
やっぱり。
心臓が一つ、大きく脈打つ。
「婚約を前提に、一度顔合わせをしてみないか、という話だ」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
来た。
いつか来ると思っていた話が、とうとう来てしまった。
(まだ七歳だぞ……)
前世の感覚では、とても考えられない。
だが、この世界では違う。
貴族にとって婚約は家同士の約束でもある。
早いうちから話が始まることは珍しくない。
「もちろん、すぐ婚約を決めるつもりではない」
セレスティアが優しく言葉を添える。
「まずはお茶会で顔を合わせる程度のお話です」
「……」
返事ができない。
身体が強張っているのが、自分でもわかった。
「ロザミー?」
母が心配そうに俺を見る。
その優しい声で、ようやく口が開いた。
「……嫌です」
応接室が静まり返る。
「ロザミー」
父の声は穏やかだった。
「理由を聞かせてもらえるか」
怒ってはいない。
だからこそ、俺も逃げずに答えなければならない。
「わたくしは」
深く息を吸う。
「結婚したくありません」
はっきりと言った。
前世の俺なら、ここまで真っ直ぐ言えただろうか。
「今は魔法のお勉強がしたいんです」
父と母は顔を見合わせる。
「もっと研究したいことがあります」
標準魔法式。
錬金術。
光の制御。
まだ確かめたいことが山ほどある。
「ヴィオレット先生と約束したこともあります」
「ロザミー」
セレスティアが静かに問い掛ける。
「それは今だけの気持ちではありませんか?」
「違います」
即座に首を振る。
「わたくしは、魔法をもっと知りたいんです」
知らないことを知る喜び。
仮説を立て、確かめる楽しさ。
前世でも味わったことのある感覚だった。
「研究を続けたいんです」
声に力が入る。
「だから……結婚のお話は受けたくありません」
父は腕を組み、静かに考え込んでいる。
母も困ったように視線を伏せた。
「普通なら」
エドマンドがゆっくりと口を開く。
「魔法の勉強と婚約は両立できる、と考える」
その通りだ。
この世界の常識なら、そうなのだろう。
だが俺には違う。
婚約は、その先の未来へ繋がっている。
いずれ男性と結婚する未来へ。
それだけは、どうしても受け入れられなかった。
「お父様」
俺は父を真っ直ぐ見つめる。
「お願いです」
小さな拳を膝の上で握る。
「わたくしに、魔法を続けさせてください」
その一言には、これまでで一番強い願いを込めた。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
静寂の中で、時計の針だけがゆっくりと時を刻んでいく。
やがてエドマンドは小さく息をつき、セレスティアへ視線を向けた。
二人だけで通じ合うように、静かに頷き合う。
そして父は、穏やかな表情で俺を見た。
「わかった」
思わず顔を上げる。
「ロザミー」
父は優しく微笑んだ。
「お前がそこまで真剣に望むのなら、この話は断ろう」
「……本当ですか?」
「ああ」
「ただし」
今度は母が口を開く。
「将来について考えることまで、やめてしまってはいけません」
「はい」
「魔法を極めたいという夢も、貴族としての責任も、どちらも大切です」
その言葉は厳しくはない。
娘を思う母としての願いだった。
「すぐに答えを出す必要はありません」
セレスティアは穏やかに微笑む。
「今は、あなたが選んだ道を精一杯歩みなさい」
胸の奥に張り詰めていたものが、ゆっくりとほどけていく。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
完全に未来が決まったわけではない。
それでも今は、魔法を学び続ける時間を守ることができた。
その事実だけで、俺には十分すぎるほど嬉しかった。
数日後。
「ロザー!」
聞き慣れた明るい声が屋敷へ響いた。
窓から外を見ると、一台の馬車が正門の前に止まっている。
扉が開き、銀色に近い金髪の少女が軽やかに降り立った。
「リリー」
思わず頬が緩む。
二年が経ち、七歳になったリリアンは以前より少し背が伸びていた。
それでも、花が好きで、感情がすぐ表情へ出るところは変わらない。
「お待たせしました!」
「いえ。今来たところです」
二人は自然に笑い合い、そのまま庭園へ向かった。
夏の庭には色とりどりの花が咲き誇り、小さな噴水の水音が心地よく響いている。
木陰の東屋へ腰を下ろすと、侍女がお茶と焼き菓子を運んできた。
「最近ね」
リリアンは焼き菓子を手に取りながら言う。
「お母様が、ずっと忙しそうだったの」
「何かあったんですか?」
「うん」
少し照れくさそうに笑う。
「実はね……わたし、婚約者が決まったの」
その一言に、俺の手が止まった。
(やっぱり来たか)
自分は断ったばかりだ。
だからこそ、その言葉の重みがよく分かる。
「おめでとうございます」
まずは笑顔を作る。
リリアンは嬉しそうに頷いた。
「ありがとう!」
その笑顔に、無理をしている様子はない。
本当に嬉しいのだろう。
「お相手は、ガブリエル様っていうの」
「ガブリエル様」
聞き慣れない名前だった。
「同じ伯爵家のご子息なの!」
リリアンは身振り手振りを交えながら話し始める。
「最初はわたしも緊張してたんだけどね」
「はい」
「全然そんな必要なかったの!」
思い出しただけで楽しくなるのか、表情がころころ変わる。
「お花の話も聞いてくれるし、一緒に庭を歩いてくれるし」
「優しい方なんですね」
「うん!」
力強く頷く。
「それにね、剣のお稽古が大好きなんですって!」
俺は静かに相槌を打ちながら話を聞く。
リリアンの様子を見る限り、無理やり決められた婚約ではない。
両家が機会を作り、実際に会ったうえで、お互いによい印象を持った。
そんな流れなのだろう。
「この前ね」
リリアンは少しだけ頬を染めた。
「転びそうになったら、手を取ってくれたの」
「そうでしたか」
「すごく格好良かった!」
その一言に、思わず苦笑する。
前世でも、そういう話をする同級生はいた。
好きな人のことを語る時の表情は、世界が違っても変わらないらしい。
「ロザ?」
「はい?」
「どうしたの?」
「いえ」
慌てて首を振る。
考え込んでしまっていたようだ。
「少し昔のことを思い出していました」
「昔?」
「リリーと初めてお庭で遊んだ日のことです」
「あっ」
リリアンも思い出したように笑う。
「蝶々を追いかけて転びそうになった日!」
「そうです」
「あの時、ロザが助けてくれたんだよね」
「懐かしいですね」
「あれからもう二年かぁ」
リリアンは空を見上げた。
「早いね」
「ええ」
本当に早かった。
前世の記憶を取り戻し、魔法と出会い、ヴィオレット先生と研究する日々を送っているうちに、二年という時間が流れていた。
「でも」
リリアンがこちらを見る。
「婚約しても、約束は変わらないからね」
「約束?」
「もう忘れちゃった?」
少しだけ頬を膨らませる。
「『大人になっても友達』って約束!」
その言葉に、胸が温かくなった。
「忘れるわけありません」
「えへへ」
安心したように笑う。
「ガブリエル様にも話したの」
「そうなんですか?」
「うん。『ロザは一番大切なお友達なの』って」
少し驚いた。
「そしたらね」
リリアンは嬉しそうに続ける。
「『それは素敵なことだね』って言ってくれたの!」
その言葉を聞いて、自然と肩の力が抜けた。
少なくとも、そのガブリエルという少年は、リリアンの大切なものを尊重してくれる人らしい。
「良い方なんですね」
「うん!」
その返事には迷いがなかった。
俺はリリアンの笑顔を見つめる。
幸せそう。
心からそう思う。
だから祝福したい気持ちも、本物だった。
けれど。
(やっぱり……)
胸の奥で、小さく呟く。
俺には、同じ気持ちにはなれない。
男性と結婚する……そんな未来は、どうしても想像できなかった。
ただ、歩きたい道が違うだけだ。
俺には、まだ知らない魔法式がある。
解き明かしたい理論がある。
ヴィオレット先生と約束した研究がある。
その一つひとつを追いかけている時間が、何よりも幸せだった。
「ロザ?」
「はい」
「今度、ガブリエル様にも会ってほしいな」
突然のお願いに、少しだけ目を丸くする。
「きっと仲良くなれると思うの!」
期待に満ちた笑顔だった。
俺は一瞬だけ迷い、それから微笑む。
「機会があれば、ぜひ」
その返事に、リリアンは満足そうに頷いた。
噴水の水音が静かに響く。
夏の風が二人の髪を優しく揺らしていく。
親友の幸せを願う気持ちと、自分自身の進みたい道への決意。
その二つを胸に抱きながら、ロザモリアは青く澄み渡る空を見上げた。
その視線の先には、まだ誰も辿り着いていない魔法の世界が、静かに広がっているように思えた。