TS転生令嬢は婚約したくないので魔法研究で身を立てようと思います 作:Fiomia
初夏の柔らかな陽射しが、アルヴェイン伯爵家の庭園を照らしていた。
窓辺の机には、何冊もの研究ノートが積み重なっている。
以前は一冊を書き終えるだけでも何か月も掛かっていた。
今では、一つの研究テーマごとに一冊を使い切ることも珍しくない。
「……これで、最後です」
羽ペンを置き、小さく息を吐く。
最後の一文を書き終えた瞬間、張り詰めていた緊張がようやくほどけた。
七歳の頃から続けてきた魔法の研究。
気付けば五年が経ち、俺は十二歳になっていた。
身体もずいぶん成長した。
以前は机へ登るように椅子へ座っていたのに、今では自然に腰を下ろせる。
けれど、一番変わったのは身体ではない。
魔法式を見る目だった。
「お嬢様」
扉が軽く叩かれる。
「ヴィオレット様がお見えです」
「すぐ参ります」
完成した研究ノートを抱え、俺は足早に庭園の東屋へ向かった。
◇
「完成しましたか」
ヴィオレット先生は紅茶を口に運びながら微笑んだ。
赤い髪は以前より少し長くなり、大人としての落ち着きも増している。
それでも、研究の話になると目を輝かせるところは昔と変わらない。
「はい」
俺は研究ノートを差し出した。
「前回いただいた課題です」
ヴィオレット先生がゆっくりとページを開く。
今回の課題は単純ではなかった。
『標準照明式の補助構文を、他の標準魔法式へ応用できるか』
俺たちが七歳の頃に発見した理論。
あれを体系化するための第一歩だった。
先生は黙ったままページをめくっていく。
東屋には紙の擦れる音だけが響いていた。
やがて、先生の手が止まる。
「……これは」
小さな呟きだった。
「投射式への応用です」
俺は説明を始める。
「照明式では粒子の向きを揃えました」
「ええ」
「投射式も同じ考え方で解析すると、魔力の拡散を抑えられる可能性がありました」
先生は視線をノートへ戻す。
「だから補助構文を追加したのですね」
「はい」
「結果は?」
「魔力消費が約一割減りました」
ヴィオレット先生の眉がわずかに動いた。
「実験は何回行いましたか」
「十五回です」
「誤差は」
「最大でも0.8パーセントでした」
静かな沈黙が流れる。
先生はさらにページをめくる。
そこには失敗例もすべて記録してある。
失敗した構文。
魔力消費量。
発動時間。
考察。
前世でプログラムを開発していた頃の癖が、そのまま残っていた。
「失敗例まで残したのですね」
「成功だけでは理由が分からないので」
「……そうですね」
先生は嬉しそうに笑った。
「研究とは、そういうものです」
最後のページまで読み終えると、ヴィオレット先生はゆっくりとノートを閉じた。
「ロザモリアさん」
「はい」
「私は今回、補助構文が他の標準魔法式にも応用できるかどうか、それを確かめていただくつもりでした」
「はい」
「ところが、あなたは違いました」
先生は研究ノートを軽く叩く。
「応用できることを示しただけではありません」
俺は首を傾げる。
「どういうことでしょう」
「共通する法則を見つけようとしています」
その言葉に、自分でも少し驚いた。
確かにそうだ。
照明式だけ。
投射式だけ。
そんな個別の話には、あまり興味がなかった。
知りたかったのは、その奥にある共通の仕組みだった。
「わたくしは……」
少し考えてから答える。
「全部つながっている気がするんです」
「つながっている?」
「標準魔法式は違う魔法に見えても、基本は同じなのかなって」
先生は静かに頷いた。
「だから共通する規則を探していたんですね」
「はい」
その答えを聞いたヴィオレット先生は、小さく笑った。
「期待以上でした」
思わず顔を上げる。
「本当ですか?」
「ええ」
先生は迷いなく頷く。
「私は『応用』という課題を出しました」
研究ノートへ視線を落とす。
「ですが、ロザモリアさんは『理論の一般化』まで進めています」
一般化。
前世でもよく使った考え方だった。
共通部分を抜き出す。
再利用できる形へまとめる。
それは自然な発想だった。
「この発想は、学院でも通用します」
学院。
その言葉が胸へ残る。
ヴィオレット先生は少しだけ遠くを見るような目をした。
「……実は、お話があります」
「お話ですか?」
先生は紅茶を一口飲み、静かに微笑んだ。
「来年、私は王立アステリア学院へ戻ることになりました」
俺は思わず目を見開いた。
「学院へ?」
「ええ」
「教師として、ですか」
「その予定です」
少しだけ寂しさが込み上げる。
七年間。
前世の記憶を取り戻してからずっと、先生は俺の隣にいてくれた。
研究を否定せず、一緒に考え、一緒に喜んでくれた。
そんな先生がいなくなる。
「もちろん、もう会えなくなるわけではありません」
俺の表情を見て、先生は優しく笑った。
「来年、もう一つお話ししたいことがあります」
「……はい」
俺は静かに頷いた。
その「もう一つ」が何なのか。
この時の俺は、まだ知らなかった。
◇
翌年、春。
庭園の桜によく似た薄桃色の花が、穏やかな風に揺れていた。
十三歳になった俺は、いつもの東屋でヴィオレット先生を待っていた。
七年前と変わらない場所。
けれど机の上に広げられているのは、子どもの教材ではない。
標準魔法式の解析資料。
錬金術の実験記録。
学院の研究論文を書き写したノート。
いつの間にか、授業というより共同研究に近い時間になっていた。
「お待たせしました」
ヴィオレット先生が静かに姿を現す。
その表情は穏やかだったが、どこか一区切りを迎えた人のような落ち着きがあった。
「先生」
俺は立ち上がる。
「先日お話しされていたこと、でしょうか」
「ええ」
先生は頷き、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
「正式に決まりました」
一呼吸置いて続ける。
「来月から、王立アステリア学院で教壇に立ちます」
やはりそうだった。
嬉しい。
先生ほどの研究者なら当然だと思う。
それでも、胸の奥が少しだけ寂しくなる。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
先生は柔らかく笑った。
「ですが今日は、それだけを伝えに来たわけではありません」
真っ直ぐ俺を見る。
「ロザモリアさん」
「はい」
「二年後、あなたは十五歳になります」
王立アステリア学院へ入学できる年齢だ。
「私は、あなたに魔法研究科を受験していただきたいと思っています」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
魔法研究科。
この国で最も高度な魔法理論を学ぶ場所。
優秀な研究者たちが集まり、新しい魔法を生み出している場所。
「わたくしが……ですか」
「ええ」
先生は迷いなく頷く。
「もう私が教えられることは、多くありません」
その言葉に、思わず首を横に振る。
「そんなことはありません」
「いいえ」
先生は穏やかに微笑んだ。
「今のあなたに必要なのは、私一人の知識ではありません」
王立アステリア学院。
研究設備。
多くの研究者。
様々な専門分野。
「より広い世界です」
先生の言葉が、胸へ静かに落ちてくる。
「あなたなら、そこでさらに成長できます」
俺は視線を落とした。
始まりは七年前、結婚から逃げたい一心で始めた魔法の勉強だった。
けれど今は違う。
純粋に研究が好きだ。
魔法式を解き明かす時間が好きだ。
まだ誰も知らない理論へ辿り着く瞬間が好きだ。
「……行きたいです」
自然と言葉が漏れた。
「魔法研究科へ」
ヴィオレット先生は嬉しそうに微笑んだ。
「その言葉を聞けて安心しました」
先生は鞄から一冊の本を取り出す。
「では、今日からは学院の入試を意識した勉強も始めましょう」
「はい!」
七年前と同じように返事をすると、先生は少しだけ笑った。
「返事だけは、あの頃のままですね」
俺も思わず笑ってしまう。
◇
それから二年。
十五歳になった春。
王都は、多くの若者たちで賑わっていた。
馬車から降りた私は、大きく息を吸う。
目の前には白い石造りの壮麗な門。
その先には、いくつもの校舎が見える。
王立アステリア学院。
ついに、この場所へ来たのだ。
「ロザ!」
聞き慣れた声に振り返る。
少し背が伸び、以前より大人びた雰囲気を纏った少女が駆け寄ってきた。
「リリー」
リリアンだった。
肩まで伸びた金色の髪を揺らし、嬉しそうに笑っている。
「無事に合格できましたね!」
「はい」
自然と笑顔になる。
リリアンも同じ学院へ進学することになった。
学科は違う。
それでも、一緒に王都へ来られたことが嬉しかった。
「緊張していますか?」
リリアンが尋ねる。
私は少しだけ考えてから頷く。
「少しだけ」
「わたくしもです」
二人で顔を見合わせて笑う。
門の前には新入生たちが次々と集まってくる。
期待に不安、それに夢。
様々な表情が行き交っていた。
私も門を見上げる。
この先には、まだ見ぬ研究が待っている。
魔法式、錬金術……そして、世界の誰も知らない魔法理論。
胸が高鳴る。
「ロザ」
リリアンがそっと声を掛ける。
「行きましょう」
私は静かに頷いた。
「ええ……行きましょう、リリー」
二人は王立アステリア学院の門を、並んでくぐった。