星の王子と花の姫君 作:百合魔神
天ノ川きらら
ベッドの上には、三組の服が並んでいた。胸元にフリルのついた薄桃色のブラウス。黄色いワンピース。それから、紺色の短パンと、白地に小さな星が散ったシャツ。
きららは迷わず星柄のシャツを手に取った。誰かが選んだ服を着せられるのは嫌だったが、自分で選んだ星なら悪くない。まだうまくボタンを留められない指に苛立ちながら、時間をかけて一つずつ穴へ通していった。
姿見に映ったのは、短く整えた明るい茶色の髪と、大きな紫色の瞳を持つ幼い子どもだった。肩を張ってみても、四歳の小さな身体は大きくならない。見慣れているはずの顔なのに、昔の自分から地続きだとは、どうしても思えなかった。
「きらら、支度できた?」
「……できた」
廊下から呼ばれて、返事が一拍遅れた。天ノ川きらら。それが今の自分の名前だと分かっていても、呼ばれるたびに、鏡の中の子どもが先に振り向いたような気がする。
扉を開けたステラは、きららの姿を上から下まで眺めた。ワンピースに着替えなさいと言われるかと身構えたが、母は星柄の胸元を指で示して笑った。
「その星、いいじゃない。今日はそれで行きましょ」
否定されなかった。それだけで肩から少し力が抜けたことが、妙に悔しかった。
撮影スタジオへ向かう車の窓を、白い道路線が一定の間隔で流れていく。その白が、ふいに別の夜を連れてきた。
暗い横断歩道。視界を焼くヘッドライト。とっさに前へ出した、十七歳の自分の手。
次に意識が形を持った時、手は何かをつかむことさえできないほど小さくなっていた。身体は女の子で、周囲は自分を「きらら」と呼んだ。
前の自分が男子高校生だったことは覚えている。制服を着て学校へ通い、友人とくだらない話をしていた手触りも残っている。それなのに、昔見た番組や登場人物の名前だけは、つかもうとするたび霧の向こうへ逃げていった。
天ノ川きららという名前にも、何かが引っかかる。だが、何だったかと考え続けるより先に、まぶたが重くなった。四歳の身体は、持ち主の意地など聞かずに眠りへ落ちていく。
「着いたわよ、きらら」
目を開けると、車の扉の向こうに大勢の大人がいた。
「おはようございます、ステラさん」
「おはよう。今日もよろしくね」
車を降りたステラは、眠っている間に別人へ変わったようだった。背筋を伸ばして歩くだけで人の視線が集まり、彼女を中心に撮影現場の空気が動き出す。
きららもすぐにスタッフに囲まれた。悪意がないことは、幼い顔をのぞき込む笑顔を見れば分かった。
「ステラさんの娘さんよね。今日もかわいい」
「星のシャツ、自分で選んだの?」
「……うん」
自分で選んだことを褒められるのは、少し嬉しかった。けれど、その後に決まって続く「さすがステラさんの娘さん」は好きになれない。皆、自分の向こうにいる母を見ている。
メイク道具を運んでいた女性が、きららの短い髪に大きな黄色いリボンを当てた。星よりも目立つ飾りが、鏡の中で揺れる。
「これも似合いそう。ちょっとつけてみてもいい?」
嫌だと言いかけた。しかし近くにいたスタッフが一斉にこちらを見て、きららは口を閉じた。母の現場で騒ぎを起こすより、一度つけさせた方が早く終わる。
「……いいよ」
鏡の前でリボンを留められた直後、カメラマンがレンズを向けた。きららは顎をわずかに引き、口元だけでなく目元にも力を入れる。大人たちが求めている「かわいい娘」の顔を作ると、シャッター音は数回で止まった。
「すごい。さすがステラさんの娘さんね。カメラ、平気なんだ」
平気なんじゃない。終わらせ方を知っているだけだ。
それでも、撮れた写真を見たスタッフが感心していると、胸の奥が少しくすぐったくなった。その喜びまで否定したくなり、きららは誰も見ていない隙にリボンを外した。
撮影が始まると、スタジオの中央に立ったステラへ照明が集まった。母はカメラが向くたびに表情を変え、同じ服を着ているのに、明るくも、大人びても、遠い国の人のようにも見えた。
きららは壁際の椅子から、その変化を黙って追った。早く終わらせるために笑った自分とは違い、ステラはこの場所を楽しんでいるように見えた。
昼前になると喉が渇いた。近くの大人に頼めばよかったが、それくらい一人でできると思い、きららは給水器の前に紙コップを置いた。
小さな手でレバーを押す。思ったより勢いよく水が出て、紙コップが傾いた。慌ててつかもうとした指が縁を弾き、水が星柄のシャツへ広がった。
たったそれだけだった。
なのに、熱いものが目の奥から込み上げてきた。こんなことで泣くなと力を入れるほど、涙は次々に頬を伝った。
俺は、こんなことで泣くようなやつじゃなかった。
悔しいのは、濡れた服ではない。考えることはできても、手も足も思うように動かず、眠気にも涙にも勝てない。十七歳の記憶があっても、この身体が四歳である事実は変えられなかった。
足音が近づく前に、きららは棚からタオルを引っ張り出した。顔を拭き、シャツを押さえ、それでもどうにもならないと分かってから、そばにいたスタッフへ顔を向けた。
「着替え、どこ?」
「あら、大丈夫? こっちよ。ママには私から――」
「自分で言う」
声は少し震えたが、最後まで歩いた。助けてもらわなければ何もできないことと、全部を誰かに任せることは違う。今のきららに守れる意地は、それくらいしかなかった。
着替えを終えても、すぐに撮影フロアへ戻る気にはなれなかった。スタッフの姿がガラス越しに見える中庭へ出ると、同じくらいの年の子が星形の遊具を城に見立てて遊んでいた。
一人でいたかったきららの隣へ、その子は当然のように腰を下ろした。服も赤い目元も気にする様子はない。
「ここ、おしろなの。あっちから、かいじゅうくるよ」
「……ふうん」
「いっしょにまもる?」
返事を待たず、木の枝を一本渡される。少し迷ってから受け取ると、その子は満足そうに笑った。
「なまえ、なんていうの?」
いつもなら、決まった答えを返すだけだった。天ノ川きらら。そう言えば、大人はかわいい名前だと笑う。
「きら……」
喉が止まった。鏡に映った知らない顔も、髪につけられた大きなリボンも、水をこぼして泣いた自分も、一度に胸の中へ戻ってくる。
身体も、名前も、生まれた家も選んでいない。けれど、今ここで何と名乗るかだけなら、自分で決められる。
きららという音から、最後の一文字を切り離す。前の自分の名前ではない。今の自分から、自分の手で取り出した名前だった。
「……キラ。俺はキラだ」
虚勢を張った声は、思ったよりも幼かった。
「キラくんね。じゃあ、こっち守って!」
その子は理由を聞かなかった。女の子なのか、どうして「俺」と言うのかも確かめず、キラくんと呼んで走り出す。
胸が、ふっと軽くなった。男の子だと思われたことが嬉しいのか、選んだ名前をそのまま受け取ってもらえたことが嬉しいのか、きららにも分からない。
ただ、「きらら」と呼ばれなかった胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。自分で遠ざけた名前なのに、最初からなかったことにされたようで寂しい。その矛盾を考える間もなく、遊具の裏に隠れていたもう一人の子が「かいじゅうだぞ」と飛び出してきた。
「キラくん、はやく!」
「分かってる!」
枝を剣のように構え、星の城を守って走る。足は短く、思ったほど速くない。それでも追いつけたことが嬉しくて、いつの間にか声を上げて笑っていた。
撮影を終えたステラが迎えに来た時には、息が切れて頬が熱くなっていた。相手の子は付き添いの大人に呼ばれ、手を振りながら中庭を出ていく。
「またね、キラくん!」
「……またな」
手を振り返してから振り向くと、ステラと目が合った。母は何も言わず、きららの着替えた服と赤い目元を一度見てから、スタッフへ挨拶を続けた。
帰り支度を終え、駐車場へ向かう廊下で、ようやくステラが口を開いた。
「さっきの子、キラって呼んでたわね」
「……俺が、そう言った」
「そ」
叱る声ではなかった。それがかえって落ち着かず、きららは母の隣で肩を固くした。
「じゃあ帰ったら、ちょっとお話しましょ」
車の中で、ステラは名前について何も聞かなかった。きららも眠らないよう歯を食いしばりながら、どんな言葉なら取り上げられずに済むのか、そればかり考えていた。
夕方、仕事道具を片づけたステラは、リビングのソファにきららを座らせた。自分も向かいへ腰を下ろし、目の高さを合わせる。
「最初に確認。中庭から外には出てない?」
「出てない。ガラスの向こうに、みんないた」
「そう。そこは約束どおりね」
ステラは一度うなずき、それから話を切り替えるように脚を組み直した。安全のことと名前のことを一緒に叱るつもりはないらしい。
「それで、キラっていうのは、あなたが考えた名前?」
「うん」
「男の子になりたいの?」
まっすぐな問いに、きららは答えられなかった。
前の身体へ戻りたいのか。今の身体が嫌いなのか。それとも、男子高校生だった自分を失くしたくないだけなのか。四年間考えても、どれが本当なのか分からない。
今の自分がすべて偽物だと言うこともできなかった。星柄を褒められたことが嬉しかった。中庭を走り回って、四歳の子どものように笑った。それも確かに、自分の中から出てきたものだった。
「……わかんない」
ステラは、すぐには口を開かなかった。きららの答えを待つのではなく、分からないという言葉をそのまま置いておくような沈黙だった。
「そ。じゃあ、分かったら教えて」
「怒らないの?」
「名前を考えたことを?」
ステラは片方の眉を上げた。
「怒る理由がないわ。ただ、嘘をついて困る場所はある。そこは分けましょ」
「……きららより、キラがいい」
「分かった。誰かにキラって名乗るのは止めない」
その一言で胸がほどけそうになったが、ステラは人差し指を立てた。
「でも幼稚園と病院、仕事場の受付、それから大事な書類では、天ノ川きらら。迷子になった時も、本当の名前を言う。困ったらママに話す。約束できる?」
「できる」
「よし」
ステラは指を下ろし、少しだけ首を傾げた。
「ママもキラって呼ぶ?」
すぐに「うん」とは言えなかった。母から「きらら」と呼ばれることにも距離を感じていたはずなのに、それをやめられると思うと胸がざわつく。
きららという名を選んだのはステラだ。その名前ごと拒めば、母が自分を見てくれた四年間まで消してしまうような気がした。
「……ママは、そのままでいい」
「そう。じゃあママは、きららって呼ぶ。ほかの人にどう呼んでほしいかは、自分で言いなさい」
自分で言う。その言葉は、四歳の小さな手にも持てる鍵のようだった。
話は終わったと思ったが、ステラはきららの短い髪に触れた。リボンを留めていた場所を確かめるように、毛先を軽く整える。
「今日のリボン、嫌だった?」
「……うん」
「じゃあ次は、嫌って言って。ママが仕事中でも、嫌なのに笑わなくていいわ」
「でも、ママの仕事……」
「きららがリボンを断っても、ママの仕事はなくならない。それに、言ってくれなきゃ分からないこともあるの。ママ、何でも見ただけで分かるわけじゃないもの」
少し格好悪い告白をするようにステラが肩をすくめた。完璧に分かってくれたわけではない。それでも、分からないから従えとは言われなかった。
「……次は言う」
「そうして。ママも、ちゃんと聞くから」
ステラは立ち上がると、仕事鞄から一枚の予定表を取り出した。
「それと、今度の撮影なんだけど、少し長いの。何か月か地方に行くことになったわ」
きららは顔を上げた。これまでも母が家を空けることはあったが、数か月となれば話は違う。
「きららも一緒に来る? それとも、いつものところで待ってる? どちらでもちゃんと過ごせるようにするから、今すぐ決めなくてもいいわ」
知らない土地。今日の中庭にいた子のように、天ノ川ステラの娘も、天ノ川きららという名前も知らない人がいる場所。
そこでなら、自分から「キラ」と名乗れる。誰かに決められた答えを返すのではなく、選んだ名前で最初から会えるかもしれない。
もう一つ、撮影中のステラの姿が浮かんだ。照明の中で、母は一度も同じ顔をしなかった。自分がカメラへ向けた作り笑いとは何が違うのか、もう少し近くで見てみたい気持ちもあった。
「行く」
「本当に? しばらく帰ってこられないわよ」
「俺も行く」
ステラはきららの顔を見つめた後、予定表へ目を落とした。
「分かった。じゃあ二人分、準備しなきゃね」
たったそれだけで、紙の上の予定が自分の選択に合わせて動き始めた。きららは初めて、自分の言葉で行き先を決めたような気がした。
その夜、きららは旅行鞄の前に座り、着替えを一枚ずつ詰めていった。昼に水をこぼしたシャツはまだ洗濯中だったため、引き出しの奥から別の星柄を見つけて入れる。
朝と同じ姿見の前に立つ。そこにいるのは相変わらず、明るい茶色の短い髪と大きな瞳を持つ、小さな女の子だった。
それでも今度は、鏡の中の子どもから目をそらさなかった。
「……キラ」
小さく呼ぶと、鏡の中の口も同じように動いた。昔の自分と同じには見えない。けれど、朝よりは少しだけ、自分で選んだ自分に見えた。
知らない町なら、誰もきららを知らない。そこでならきっと、選んだ名前を呼ぶ声に出会える。
そう思うだけで、出発の日が少し待ち遠しくなった。